Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

沖縄再返還

2010-05-07 08:02:48 | Weblog
沖縄再返還           2010-05-07

2010年5月、末日が直前となったある日、総理大臣は
普天間問題解決のメドが全く立たずに、苦悩の日々を
過ごしていた。ある考えがひらめいた。彼は、いつもの
通り後先を考えずに、思いついたことをすぐ新聞発表
した。

「沖縄の施政権は38年前まで、アメリカのものでした。
私はこれをアメリカに再返還します。」

うわーい、これで普天間問題も他の沖縄の基地問題も
日本から無くなった。あとは、オバマに任せよう。

約束を見事に果たした総理大臣でした。「私の発言は
場当たりでは無い」

乳房なき・・・

2010-05-07 06:19:02 | Weblog
乳房なき・・・          2010-05-07

最近の俳句クラブの作品です。


1月投句の最高点句
               
  亡き父の明治の匂う冬帽子  春

  冬天を高く蹴上げる太極拳  好

  Arui作品  掛け持ちの仕事始めやボランテイア 

2月投句の最高点句

  乳房なき妻を誘う冬至風呂     政

  Arui作品  死に近き愛犬抱くや春立つ日

3月投句の最高点句    

  米軍の住みし跡地に辛夷(こぶし)咲く    玲

  Arui作品  上海の月も呼んでる春おぼろ 

4月投句分  

  Arui作品  遅い雪残り桜とともに落ち

         若芝の僅かに萌えて子ら走る

そろそろ、5月投句分を作らねば、苦心苦心。最高点句は
6~8票位獲得します。Arui作品は、0~2票が普通です。
我ながら下手くそ! 

<上海万博>「マナー」はどこに消えた?!

2010-05-05 10:09:21 | Weblog
<上海万博>「マナー」はどこに消えた?!外国人が見た万博大混乱―英メディア
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1197564&me..

どこに消えた?ってことは一時はそこに有ったものが
無くなった時に使う表現です。

中国には、もともとマナーは有りません。中国人は、
一人一人と会っている時は礼節を重んじ、相手のことを
気遣う良い人達です。

ですが、見知らぬ人々の集団となると、これが一変
します。これは私の経験ですが、中国天津で仕事を
していた時のことです。休暇になり、汽車でちょっと
遠い所まで出かけようと駅の切符売り場に行き、列に
並びました。時間が経つ程に前へ行かず、行列の
後ろへ後ろへと下がっていきます。つまり間に割り
込む人がそれだけ多いってことです。で、結局、
切符は買うのを諦めました。日本人では所詮無理
でした。これは2005年頃のことですが、少しは変わっ
てきたでしょうか。この記事見ると未だのような気が
します。

終戦

2010-05-04 20:23:28 | Weblog
終戦                  2010-05-04

そうこうしてる内に、日本の敗戦が近づいてきます。
とは言うものの、子供ながら日本が負けると言うこと
は有り得ないと教わってきましたので、日本が勝つ
ことばかりを言っていました。今でもはっきり覚えて
いますが、時のアメリカ大統領がルーズベルトである
ことは知っていて戦争ゲームではいつもルーズベルト
をやっつけていました。

作家堀田善衞の上海日記滬上天下一九四五によれ
ば、上海の街中での中国人の情報では、8月11日
には日本の敗戦が知れ渡っていたそうです。そんな
中で日本人は不安な日々を送り、日本のポツダム
宣言受諾が本当として、誰が勝者なのか確認してい
たことでしょう。蒋介石なのか、毛沢東なのか・・・・

私が同じ路地内の小学6年生(確か記憶では上垣
さん)と遊んで居た時、そこのお姉さんが泣きながら
やって来て「日本が戦争に負けた」と言いました。
明日、天皇陛下の放送があるとのことでした。私は
日本が戦争に負けたことより、お姉さん(殆ど大人に
見えました)が人前で泣いたことの方が強く印象に
残りました。

翌日、何家族かが我が家に集まり、天皇陛下の、
放送を聞きました。大人は泣いていましたが、私は
隣の女の子とおはじきをしていました。聞いても、
意味は判らなかったです。ま、何を言ってるのか
さっぱり判らなかったと言うのが本当のところです。

翌日には、日本軍が駐屯していた陸戦隊本部には
青天白日旗が翻っており、蒋介石軍が上海を抑えた
ことは子供でも判りました。勿論、その旗が蒋介石
軍で五星紅旗が毛沢東軍などと言うことは、ずーっと
後になって、勉強して判ったことです。

この後、虹口地区の日本人は一カ所に集結させられ、
一軒の家に何家族も詰め込まれ(一部屋一家族)、
子供達は、教会での寺子屋に通うことになり、教科書
は、具合の悪い箇所は墨で塗りつぶされてありました。
そんな環境の中でも、教育を放棄しなかった日本人は
凄いと思います。

翌年の4月には、日本に帰ることになりました。引き
揚げ者と呼ばれることになります。

勝史さん

2010-05-04 07:40:29 | Weblog
勝史さん               2010-05-04

小学校に上がると、子供の世界がグッと広がります。
上海各地に住む日本人の子供達が集まって来ます
から。日本人は、少なくとも私達家族が住む所では、
1区画20軒くらいの家が袋小路の小道を中心にして
外から隔離されるようになっていました。入り口の、
大きな鉄の扉に小さな入り口に鉄の戸が有って、夜
にはそれがロックされます。夜遅く、我が父が鉛筆
の先で、3回ノックすると、母が開ける。隣のお父さん
は、げんこつで4回叩くと、隣のお母さんが開けに行
くと言う具合に自主管理されていました。中に住んで
る人は殆どが日本人でした。ドイツ人が隣に住むよ
うになりましたが、中国人は居ませんでした。そうい
う小さな社会から、外に飛び出ることになります。

その頃私には勝史君と言う友達が出来ました。父親
同士が上海における友人で、それまでも時々家族ぐ
るみで会っていましたが、小学校に入ると、勝史君の
住んで居た地区まで一人で出かけて行って、遊びま
した。私が住む路地には同年の子が居なかったこと
もあって、そこまで出歩くのが楽しみでした。

ある時、と言っても4月に入学して終戦になる間のこ
とです。我が家に勝史君とその友達が遊びに来た
ことが有ります。その時、我が家には母の兄が同居
して居たのですが、昼間のことで仕事に行ってました。
伯父さんの部屋には空気銃が置いてありました。

勝史君が伯父さんの部屋の窓から外を見ていた後ろ
から、友達が空気銃を撃ったのです。玉が入っていて
勝史君の背中の真ん中に当たりました。勝史君の
ギャーと言う鳴き声に母が飛んできて、すぐ病院へ
いきました。玉は1cmほど食い込んでいましたが、
無事摘出され、ほっとしたことがあります。

勝史君、今何処でどうされて居ますか?もしこれを
見て気が付いたら連絡を下さい。

空気銃の持ち主の伯父さんですが、夜な夜な出て
くる鼠を撃つために、空気銃をいつでも撃てるように
置いておいたそうです。その伯父さんが、私が55歳の
頃まで生きていてくれたお陰で、私は上海の我が家の
場所を尋ねる事が出来ました。1993年、私は父が撮っ
てくれた写真と、この伯父さんが教えてくれた道順を
辿り、戦前の上海の我が家を尋ね当てることが出来た
のです。



最初の記憶-3-

2010-05-03 19:38:53 | Weblog
最初の記憶-3-             2010-05-03

新しい母を上海でめとった父が、私を迎えに来ました。
私は生まれて初めて江戸川を出ました。と言うのは
自分の思いこみで、江戸川に来る時に既に上海から
やって来た訳ですが、自分の記憶では今回が初めて
の旅です。長崎で旅館に初めて泊まり、その時に
枇杷を初めて食べました。

長崎から上海航路の船に乗りました。最初のうちは
見る物見る物全てが珍しく面白くてはしゃいでいました
が、周囲が海だけになり、おまけに、爆撃された時に
備えての訓練が始まると、なんか急に怖くなり、泣き
出したことを覚えています。父から、男はこんなことで
泣いてはいけないと諭されたのに、泣き続け、ついに
は船長さんらしき人からも同じように諭されて、男は
こんなことで泣いてはいけないものなんだと肝に銘じ
たことを覚えています。(でも泣いていました)

上海に着くと、海が黄色いことに気が付きましたが、
日本の海さえ良く知らなかった自分としては、それ
程驚きませんでした。3年後に日本に帰り着いた時
に日本の海の青さに驚いたものです。

上海では新しい母が待っていました。お爺ちゃんお
婆ちゃんに猫可愛がりされていた状況から、全くの
別世界に身を投じたことになります。小説に良くある
ように継母からいじめられるなんてことは全くなく、
これが普通の生活と思っていました。

上海ではすぐ幼稚園年少組に入りました。お寺さん
が経営する幼稚園で、園児は日本人ばかりでした。
最初の年は、よく泣かされました。陰湿ないじめでは
なく、要はケンカで負けて泣きました。次の年は、私が
一番強くなり、誰とケンカしても勝ちました。年長組に
なったので、当然と言えば当然です。

この頃、日本はどんどん負けて行く訳ですが、上海は
蒋介石がいずれ首都にする意向で、アメリカにも爆撃
をさせなかったので、私達には戦争は直接には何の
影響も有りませんでした。そして私の記憶の中に、中国
人は一切出て来ません。日本人とだけ接触する生活で
あった訳です。上海に駐屯する兵隊さんが日曜日に、
遊びに来たことを覚えています。3人一組になって、日本
人が住む家を訪問します。その兵隊さんと映画を見に
行きました。爆弾が仕掛けられていないか、椅子の下を
注意深く探します。映画が終わって休憩時間に、日本人
も中国人もです。

私達の家は四川北路を魯迅公園(当時は新公園と呼
ばれていました)に向かって左に入ったところ、ダラッチ
路松桐里に有ったそうです。イギリス人が建てた家だと
思います。

やがて私は、上海第八国民学校に入学します。桜が咲
いていました。終戦まであと4ヶ月に迫りました。学校へ
行く時は、近所の小学生が隊列を組んで行きました。
入学してすぐ事業時間中に立たされました。先生が話し
ている時に、外を見ていたようです。

街で上級生に敬礼をしなかったと言われビンタを食らい
ました。後年大人になってピカピカの1年生を見て、よくも
まあこんな小さい子に体罰を加えたものだと呆れたもの
です。

最初の記憶-2-

2010-05-03 14:06:13 | Weblog
最初の記憶-2-             2010-05-03

次の記憶は、母の死後のことになります。当時の私に
とって母の死は大きなショックでは無く、心の痛手も
受けずに祖父母の寵愛を受けてのびのび育ったよう
です。ただ近所のいじめっ子にいつも泣かされていた
そうです。母の長兄に嫁いできた伯母さんによると、
いつもピイピイ泣いていたそうで、そうするとお爺さん
が、よしよしと言ってご機嫌を取ってくれていたそうで
す。その伯母によると、私はザリガニでもオタマジャク
シでも蛙でもなんでも平気で掴んで家に持ってきた
そうで、「怖い物なにも無かった」そうです。ただ、とん
ぼを取るのに、シオカラトンボやムギワラトンボは採
れるのに、やんまはどうしても採れないので、お爺ちゃ
んにいつも頼んで、銀やんまや鬼やんまを捕って貰っ
ていたそうです。あれは宝物でした。

お爺ちゃんと一緒にとんぼ捕りをした記憶は、しっかり
有ります。多分この頃、私は4~5歳になっていた筈です。
長じてからも、蛇やとかげを平気で捕まえたのを見ると、
これは先天的のものなんでしょう。今でも平気ですが。

次に、私の記憶の中に、初めて父が出てきます。上海
から江戸川区小岩に尋ねてきてくれた父です。その前
にも度々来ていた筈ですが、私の記憶に残らなかった
のでしょう。初めて記憶に残った父は、部屋で相撲を
取ってくれて、ころりころりと負けてくれました。近所の
子供と相撲を取ると、いつも負けるのに、何故か勝てる
ので嬉しかった記憶が有ります。父がわざと負けてくれ
たのだと判るのは、だいぶ後になってからです。

そして父は江戸川に釣りに行き、魚は釣れなくて、裸に
なって泳いでました。人が泳ぐと言うのを初めて見たの
がこの時でした。これははっきり覚えています。

父は一旦上海に帰りました。その後か前か、伯父さんが
尋ねて来たのを覚えています。父の姉のご主人で大工
さんでした。現場が祖父の家の近くだから寄ってみたと
言っていました。その後も遊びに来てくれて自転車に乗
せてくれたことを覚えています。ハンドルとサドルの間の
鉄棒におしりを載せて乗りましたが、痛かった記憶が
あります。

別のお爺さんとお婆さんが尋ねてきたことが有りました。
確か、父の碁盤を取りに来たとかで、にこにこ笑って
いたことを覚えています。それは、父が新しい母を迎え
ることが決まったことを意味していました。勿論当時の
私には、そんなことは理解出来ませんでした。

最初の記憶

2010-05-03 08:52:46 | Weblog
最初の記憶              2010-05-03

人間の最初の記憶はいつ頃なんでしょうか?作家三島
由紀夫は生まれた時の産湯の記憶が有ると言ったそう
ですが、どうなんでしょうか。

私の記憶は、3歳頃、東京は江戸川の近くのものです。
私は1938年上海で、長男として生まれました。イギリス
租界を日本が接収した虹口です。勿論、生まれたばか
りの上海の記憶は有りません。

私を産んだ母はやがて結核にかかり、父は親戚の一人
も居ない上海での母の療養を諦めて、母の実家の小岩
での療養を決意しました。父一人上海に残り、私は母と
一緒に行く訳ですが、病が結核であるため、私は同じ家
に住みながら、母からは遠ざけられていました。

私の最初の記憶は、その頃のものです。だからいつも
祖父がいました。ごくたまに、母の病床の近くへ行った
ことを覚えています。その頃の記憶は、所々、点で存在
し、線では繋がりません。母の顔は、全く覚えて無いの
ですが、後年、20歳過ぎた頃、母の親戚が持っていた
母の写真を見たときに、それが私の脳裏に刷り込まれ
まるで3歳の頃に母の顔を覚えていたかのように思い
出します。

祖父の顔も同様で、成人する頃にはぼんやりとしたもの
でしたが、その後に再会し、祖父の希望で父の実家の
墓にお参りすることになるのですが、そこで認識した顔
が、まるで幼児の頃から覚えていたように、記憶の中に
侵入しています。親戚の伯母さんから「お前は、おばあ
ちゃんに猫っかわいがりされていた」と教わりましたが、
その祖母は終戦直後に死んでいたために、私は大人に
なってから会っていません。そのためか全く記憶に有り
ません。

やがて母が死んで、野辺の送りをしたことを覚えていま
す。誰が居て、どんな所に行ったかは全く無く、ただ何も
無い野っぱらに居た。そんな記憶です。悲しいとか寂しい
とかの感情も覚えていません。幸か不幸か、私は母の
愛情を感受することが出来なかったのかしなかったのか
記憶が無いのです。病が2人を離れさせていたからでし
ょう。でもきっと、25歳でこの世を去らなければならなか
った母は、思い切り我が子を傍に置いて愛することが
出来なくて残念だったと思います。子供の私としてはそう
信じたいです。


排尿障害?

2010-05-01 11:18:16 | Weblog
排尿障害?                2010-05-01

嫌な言葉ですね、嫌な病気です。先月24日、夜行バスで
大阪に行った時のことです。帰りのバスは梅田発22時
30分でした。昼は食事会で食べて飲んで、午後から夕方
にかけて、カラオケで飲んでました。水分は充分に体内
に入っていたのは判っていました。バスの出発地点が
どこだか判りません。梅田も広いです。JR大阪駅で聞い
て判らず、e-mailに書いて有る電話番号にかけて、やっと
たどり着きました。それでも出発まで時間があったので
何度もトイレに行きました。

いよいよバスは出発して最初のトイレ休憩は大津、問題
有りません。次でした。どこだったか場所も覚えていませ
ん。ずいぶん我慢してようやくSAに着いてやれやれと
トイレに行きました。貯まっていて排尿したいのに出ない
んです。あせりました。隣の場所には次々に人が来て
さーっと済ませて行きます。私一人、立っているだけです。

そこで一瞬考えて、場所をはずし、サービスコーナーに
行き、高速道路網の地図を貰い、休憩時間15分の最後
の方でもう一度挑戦しました。今度は出ました。安心して
バスに戻り、一眠りして最後のトイレ休憩海老名SAに着
き、無事済ませました。

でもあれ以来、今でも、何故あの時排尿したいのに出来
なかったのか?それが頭から離れません。こんなふうに
して、だんだんこの病気になるのだろうか。あの時は、
ふう-っと気分を変えて休憩時間の最後の段階で上手く
出来たが、もしあの時、そのように上手く出来なかったら、
・・・・走り出したバスの中でどうなったのだろうか。

嫌な言葉です。