Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

最初の記憶-3-

2010-05-03 19:38:53 | Weblog
最初の記憶-3-             2010-05-03

新しい母を上海でめとった父が、私を迎えに来ました。
私は生まれて初めて江戸川を出ました。と言うのは
自分の思いこみで、江戸川に来る時に既に上海から
やって来た訳ですが、自分の記憶では今回が初めて
の旅です。長崎で旅館に初めて泊まり、その時に
枇杷を初めて食べました。

長崎から上海航路の船に乗りました。最初のうちは
見る物見る物全てが珍しく面白くてはしゃいでいました
が、周囲が海だけになり、おまけに、爆撃された時に
備えての訓練が始まると、なんか急に怖くなり、泣き
出したことを覚えています。父から、男はこんなことで
泣いてはいけないと諭されたのに、泣き続け、ついに
は船長さんらしき人からも同じように諭されて、男は
こんなことで泣いてはいけないものなんだと肝に銘じ
たことを覚えています。(でも泣いていました)

上海に着くと、海が黄色いことに気が付きましたが、
日本の海さえ良く知らなかった自分としては、それ
程驚きませんでした。3年後に日本に帰り着いた時
に日本の海の青さに驚いたものです。

上海では新しい母が待っていました。お爺ちゃんお
婆ちゃんに猫可愛がりされていた状況から、全くの
別世界に身を投じたことになります。小説に良くある
ように継母からいじめられるなんてことは全くなく、
これが普通の生活と思っていました。

上海ではすぐ幼稚園年少組に入りました。お寺さん
が経営する幼稚園で、園児は日本人ばかりでした。
最初の年は、よく泣かされました。陰湿ないじめでは
なく、要はケンカで負けて泣きました。次の年は、私が
一番強くなり、誰とケンカしても勝ちました。年長組に
なったので、当然と言えば当然です。

この頃、日本はどんどん負けて行く訳ですが、上海は
蒋介石がいずれ首都にする意向で、アメリカにも爆撃
をさせなかったので、私達には戦争は直接には何の
影響も有りませんでした。そして私の記憶の中に、中国
人は一切出て来ません。日本人とだけ接触する生活で
あった訳です。上海に駐屯する兵隊さんが日曜日に、
遊びに来たことを覚えています。3人一組になって、日本
人が住む家を訪問します。その兵隊さんと映画を見に
行きました。爆弾が仕掛けられていないか、椅子の下を
注意深く探します。映画が終わって休憩時間に、日本人
も中国人もです。

私達の家は四川北路を魯迅公園(当時は新公園と呼
ばれていました)に向かって左に入ったところ、ダラッチ
路松桐里に有ったそうです。イギリス人が建てた家だと
思います。

やがて私は、上海第八国民学校に入学します。桜が咲
いていました。終戦まであと4ヶ月に迫りました。学校へ
行く時は、近所の小学生が隊列を組んで行きました。
入学してすぐ事業時間中に立たされました。先生が話し
ている時に、外を見ていたようです。

街で上級生に敬礼をしなかったと言われビンタを食らい
ました。後年大人になってピカピカの1年生を見て、よくも
まあこんな小さい子に体罰を加えたものだと呆れたもの
です。

最初の記憶-2-

2010-05-03 14:06:13 | Weblog
最初の記憶-2-             2010-05-03

次の記憶は、母の死後のことになります。当時の私に
とって母の死は大きなショックでは無く、心の痛手も
受けずに祖父母の寵愛を受けてのびのび育ったよう
です。ただ近所のいじめっ子にいつも泣かされていた
そうです。母の長兄に嫁いできた伯母さんによると、
いつもピイピイ泣いていたそうで、そうするとお爺さん
が、よしよしと言ってご機嫌を取ってくれていたそうで
す。その伯母によると、私はザリガニでもオタマジャク
シでも蛙でもなんでも平気で掴んで家に持ってきた
そうで、「怖い物なにも無かった」そうです。ただ、とん
ぼを取るのに、シオカラトンボやムギワラトンボは採
れるのに、やんまはどうしても採れないので、お爺ちゃ
んにいつも頼んで、銀やんまや鬼やんまを捕って貰っ
ていたそうです。あれは宝物でした。

お爺ちゃんと一緒にとんぼ捕りをした記憶は、しっかり
有ります。多分この頃、私は4~5歳になっていた筈です。
長じてからも、蛇やとかげを平気で捕まえたのを見ると、
これは先天的のものなんでしょう。今でも平気ですが。

次に、私の記憶の中に、初めて父が出てきます。上海
から江戸川区小岩に尋ねてきてくれた父です。その前
にも度々来ていた筈ですが、私の記憶に残らなかった
のでしょう。初めて記憶に残った父は、部屋で相撲を
取ってくれて、ころりころりと負けてくれました。近所の
子供と相撲を取ると、いつも負けるのに、何故か勝てる
ので嬉しかった記憶が有ります。父がわざと負けてくれ
たのだと判るのは、だいぶ後になってからです。

そして父は江戸川に釣りに行き、魚は釣れなくて、裸に
なって泳いでました。人が泳ぐと言うのを初めて見たの
がこの時でした。これははっきり覚えています。

父は一旦上海に帰りました。その後か前か、伯父さんが
尋ねて来たのを覚えています。父の姉のご主人で大工
さんでした。現場が祖父の家の近くだから寄ってみたと
言っていました。その後も遊びに来てくれて自転車に乗
せてくれたことを覚えています。ハンドルとサドルの間の
鉄棒におしりを載せて乗りましたが、痛かった記憶が
あります。

別のお爺さんとお婆さんが尋ねてきたことが有りました。
確か、父の碁盤を取りに来たとかで、にこにこ笑って
いたことを覚えています。それは、父が新しい母を迎え
ることが決まったことを意味していました。勿論当時の
私には、そんなことは理解出来ませんでした。

最初の記憶

2010-05-03 08:52:46 | Weblog
最初の記憶              2010-05-03

人間の最初の記憶はいつ頃なんでしょうか?作家三島
由紀夫は生まれた時の産湯の記憶が有ると言ったそう
ですが、どうなんでしょうか。

私の記憶は、3歳頃、東京は江戸川の近くのものです。
私は1938年上海で、長男として生まれました。イギリス
租界を日本が接収した虹口です。勿論、生まれたばか
りの上海の記憶は有りません。

私を産んだ母はやがて結核にかかり、父は親戚の一人
も居ない上海での母の療養を諦めて、母の実家の小岩
での療養を決意しました。父一人上海に残り、私は母と
一緒に行く訳ですが、病が結核であるため、私は同じ家
に住みながら、母からは遠ざけられていました。

私の最初の記憶は、その頃のものです。だからいつも
祖父がいました。ごくたまに、母の病床の近くへ行った
ことを覚えています。その頃の記憶は、所々、点で存在
し、線では繋がりません。母の顔は、全く覚えて無いの
ですが、後年、20歳過ぎた頃、母の親戚が持っていた
母の写真を見たときに、それが私の脳裏に刷り込まれ
まるで3歳の頃に母の顔を覚えていたかのように思い
出します。

祖父の顔も同様で、成人する頃にはぼんやりとしたもの
でしたが、その後に再会し、祖父の希望で父の実家の
墓にお参りすることになるのですが、そこで認識した顔
が、まるで幼児の頃から覚えていたように、記憶の中に
侵入しています。親戚の伯母さんから「お前は、おばあ
ちゃんに猫っかわいがりされていた」と教わりましたが、
その祖母は終戦直後に死んでいたために、私は大人に
なってから会っていません。そのためか全く記憶に有り
ません。

やがて母が死んで、野辺の送りをしたことを覚えていま
す。誰が居て、どんな所に行ったかは全く無く、ただ何も
無い野っぱらに居た。そんな記憶です。悲しいとか寂しい
とかの感情も覚えていません。幸か不幸か、私は母の
愛情を感受することが出来なかったのかしなかったのか
記憶が無いのです。病が2人を離れさせていたからでし
ょう。でもきっと、25歳でこの世を去らなければならなか
った母は、思い切り我が子を傍に置いて愛することが
出来なくて残念だったと思います。子供の私としてはそう
信じたいです。