終戦 2010-05-04
そうこうしてる内に、日本の敗戦が近づいてきます。
とは言うものの、子供ながら日本が負けると言うこと
は有り得ないと教わってきましたので、日本が勝つ
ことばかりを言っていました。今でもはっきり覚えて
いますが、時のアメリカ大統領がルーズベルトである
ことは知っていて戦争ゲームではいつもルーズベルト
をやっつけていました。
作家堀田善衞の上海日記滬上天下一九四五によれ
ば、上海の街中での中国人の情報では、8月11日
には日本の敗戦が知れ渡っていたそうです。そんな
中で日本人は不安な日々を送り、日本のポツダム
宣言受諾が本当として、誰が勝者なのか確認してい
たことでしょう。蒋介石なのか、毛沢東なのか・・・・
私が同じ路地内の小学6年生(確か記憶では上垣
さん)と遊んで居た時、そこのお姉さんが泣きながら
やって来て「日本が戦争に負けた」と言いました。
明日、天皇陛下の放送があるとのことでした。私は
日本が戦争に負けたことより、お姉さん(殆ど大人に
見えました)が人前で泣いたことの方が強く印象に
残りました。
翌日、何家族かが我が家に集まり、天皇陛下の、
放送を聞きました。大人は泣いていましたが、私は
隣の女の子とおはじきをしていました。聞いても、
意味は判らなかったです。ま、何を言ってるのか
さっぱり判らなかったと言うのが本当のところです。
翌日には、日本軍が駐屯していた陸戦隊本部には
青天白日旗が翻っており、蒋介石軍が上海を抑えた
ことは子供でも判りました。勿論、その旗が蒋介石
軍で五星紅旗が毛沢東軍などと言うことは、ずーっと
後になって、勉強して判ったことです。
この後、虹口地区の日本人は一カ所に集結させられ、
一軒の家に何家族も詰め込まれ(一部屋一家族)、
子供達は、教会での寺子屋に通うことになり、教科書
は、具合の悪い箇所は墨で塗りつぶされてありました。
そんな環境の中でも、教育を放棄しなかった日本人は
凄いと思います。
翌年の4月には、日本に帰ることになりました。引き
揚げ者と呼ばれることになります。
そうこうしてる内に、日本の敗戦が近づいてきます。
とは言うものの、子供ながら日本が負けると言うこと
は有り得ないと教わってきましたので、日本が勝つ
ことばかりを言っていました。今でもはっきり覚えて
いますが、時のアメリカ大統領がルーズベルトである
ことは知っていて戦争ゲームではいつもルーズベルト
をやっつけていました。
作家堀田善衞の上海日記滬上天下一九四五によれ
ば、上海の街中での中国人の情報では、8月11日
には日本の敗戦が知れ渡っていたそうです。そんな
中で日本人は不安な日々を送り、日本のポツダム
宣言受諾が本当として、誰が勝者なのか確認してい
たことでしょう。蒋介石なのか、毛沢東なのか・・・・
私が同じ路地内の小学6年生(確か記憶では上垣
さん)と遊んで居た時、そこのお姉さんが泣きながら
やって来て「日本が戦争に負けた」と言いました。
明日、天皇陛下の放送があるとのことでした。私は
日本が戦争に負けたことより、お姉さん(殆ど大人に
見えました)が人前で泣いたことの方が強く印象に
残りました。
翌日、何家族かが我が家に集まり、天皇陛下の、
放送を聞きました。大人は泣いていましたが、私は
隣の女の子とおはじきをしていました。聞いても、
意味は判らなかったです。ま、何を言ってるのか
さっぱり判らなかったと言うのが本当のところです。
翌日には、日本軍が駐屯していた陸戦隊本部には
青天白日旗が翻っており、蒋介石軍が上海を抑えた
ことは子供でも判りました。勿論、その旗が蒋介石
軍で五星紅旗が毛沢東軍などと言うことは、ずーっと
後になって、勉強して判ったことです。
この後、虹口地区の日本人は一カ所に集結させられ、
一軒の家に何家族も詰め込まれ(一部屋一家族)、
子供達は、教会での寺子屋に通うことになり、教科書
は、具合の悪い箇所は墨で塗りつぶされてありました。
そんな環境の中でも、教育を放棄しなかった日本人は
凄いと思います。
翌年の4月には、日本に帰ることになりました。引き
揚げ者と呼ばれることになります。