Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

終戦

2010-05-04 20:23:28 | Weblog
終戦                  2010-05-04

そうこうしてる内に、日本の敗戦が近づいてきます。
とは言うものの、子供ながら日本が負けると言うこと
は有り得ないと教わってきましたので、日本が勝つ
ことばかりを言っていました。今でもはっきり覚えて
いますが、時のアメリカ大統領がルーズベルトである
ことは知っていて戦争ゲームではいつもルーズベルト
をやっつけていました。

作家堀田善衞の上海日記滬上天下一九四五によれ
ば、上海の街中での中国人の情報では、8月11日
には日本の敗戦が知れ渡っていたそうです。そんな
中で日本人は不安な日々を送り、日本のポツダム
宣言受諾が本当として、誰が勝者なのか確認してい
たことでしょう。蒋介石なのか、毛沢東なのか・・・・

私が同じ路地内の小学6年生(確か記憶では上垣
さん)と遊んで居た時、そこのお姉さんが泣きながら
やって来て「日本が戦争に負けた」と言いました。
明日、天皇陛下の放送があるとのことでした。私は
日本が戦争に負けたことより、お姉さん(殆ど大人に
見えました)が人前で泣いたことの方が強く印象に
残りました。

翌日、何家族かが我が家に集まり、天皇陛下の、
放送を聞きました。大人は泣いていましたが、私は
隣の女の子とおはじきをしていました。聞いても、
意味は判らなかったです。ま、何を言ってるのか
さっぱり判らなかったと言うのが本当のところです。

翌日には、日本軍が駐屯していた陸戦隊本部には
青天白日旗が翻っており、蒋介石軍が上海を抑えた
ことは子供でも判りました。勿論、その旗が蒋介石
軍で五星紅旗が毛沢東軍などと言うことは、ずーっと
後になって、勉強して判ったことです。

この後、虹口地区の日本人は一カ所に集結させられ、
一軒の家に何家族も詰め込まれ(一部屋一家族)、
子供達は、教会での寺子屋に通うことになり、教科書
は、具合の悪い箇所は墨で塗りつぶされてありました。
そんな環境の中でも、教育を放棄しなかった日本人は
凄いと思います。

翌年の4月には、日本に帰ることになりました。引き
揚げ者と呼ばれることになります。

勝史さん

2010-05-04 07:40:29 | Weblog
勝史さん               2010-05-04

小学校に上がると、子供の世界がグッと広がります。
上海各地に住む日本人の子供達が集まって来ます
から。日本人は、少なくとも私達家族が住む所では、
1区画20軒くらいの家が袋小路の小道を中心にして
外から隔離されるようになっていました。入り口の、
大きな鉄の扉に小さな入り口に鉄の戸が有って、夜
にはそれがロックされます。夜遅く、我が父が鉛筆
の先で、3回ノックすると、母が開ける。隣のお父さん
は、げんこつで4回叩くと、隣のお母さんが開けに行
くと言う具合に自主管理されていました。中に住んで
る人は殆どが日本人でした。ドイツ人が隣に住むよ
うになりましたが、中国人は居ませんでした。そうい
う小さな社会から、外に飛び出ることになります。

その頃私には勝史君と言う友達が出来ました。父親
同士が上海における友人で、それまでも時々家族ぐ
るみで会っていましたが、小学校に入ると、勝史君の
住んで居た地区まで一人で出かけて行って、遊びま
した。私が住む路地には同年の子が居なかったこと
もあって、そこまで出歩くのが楽しみでした。

ある時、と言っても4月に入学して終戦になる間のこ
とです。我が家に勝史君とその友達が遊びに来た
ことが有ります。その時、我が家には母の兄が同居
して居たのですが、昼間のことで仕事に行ってました。
伯父さんの部屋には空気銃が置いてありました。

勝史君が伯父さんの部屋の窓から外を見ていた後ろ
から、友達が空気銃を撃ったのです。玉が入っていて
勝史君の背中の真ん中に当たりました。勝史君の
ギャーと言う鳴き声に母が飛んできて、すぐ病院へ
いきました。玉は1cmほど食い込んでいましたが、
無事摘出され、ほっとしたことがあります。

勝史君、今何処でどうされて居ますか?もしこれを
見て気が付いたら連絡を下さい。

空気銃の持ち主の伯父さんですが、夜な夜な出て
くる鼠を撃つために、空気銃をいつでも撃てるように
置いておいたそうです。その伯父さんが、私が55歳の
頃まで生きていてくれたお陰で、私は上海の我が家の
場所を尋ねる事が出来ました。1993年、私は父が撮っ
てくれた写真と、この伯父さんが教えてくれた道順を
辿り、戦前の上海の我が家を尋ね当てることが出来た
のです。