風林火山の時代考証-3-最終回 2007年7月4日
今日で最後の講演となりました。第6回目「戦国大名と足軽
たち」講師は山梨県立博物館学芸員、西川広平先生です。
この博物館には、山本勘介の内野聖陽さんも、武田信玄の
市川亀治郎さんも訪れて、いろいろな文献や展示物を具に
見分し、驚くほど細かい点まで質問をし、役作りのイメージの
参考にされたそうです。
今回の講演では、私が心に決めていたことが有ります。それ
は、次のことを質問することです。それで今日は前から3列目
の席に座り、一言も聞き洩らすまいと熱心に聴きました。
それは雑兵のことです。歴史小説でもTVドラマでも、武田信玄
はスターです。今回は山本勘介もスターです。あることないこと
華々しく取り上げられドラマに仕立て上げられて行きます。でも
名も無き雑兵達はどんなだったのだろうか?このことが、いつも
頭の中を過ります。
私が知りたかったこととは、こういう雑兵達は、普段は何をして
いたのだろうか。若し、普段は農民で、戦(いくさ)の時に駆り出
されて、戦(たたかい)に従事させられるのなら、その徴兵には
何かルールは有ったのだろうか。例えば○○村の吾作は、前回
の戦に駆り出されたから今回は出なくて良いとか。出るなら給料
はどうなるんだろうかとか、主(あるじ)が駆り出された家の留守
家族には何か手当が出るのだろうかとかです。
講演が終わり、何か質問は?となって真先に手を上げて、この
ことを聞きました。先生の答えは明快でした。曰く。雑兵と言う
のは普段は農作業をしていて、戦時には戦に駆り出されると
言うふうに理解されてきましたが、(TVドラマなどでも、そういう
設定が多いように思う)最近の研究で、そうでは無いことが判って
きました。農民は領主、お館様には、年貢を払います。雑兵、
つまり兵士は年貢を払わないで良い替わりに、何かあれば、領主、
お館様の為に働く、そういう役割分担がはっきりしていたそうです。
つまり、農民は農民で兵役の義務は無かったということになります。
西川先生の研究では、武蔵相模を治めていた北条家の記録を
調べた結果、農民を戦に徴用したのは2回だけとのこと。1回目
は、1569年武田家が攻めてくることになった時、武蔵相模存亡の
危機であると訴えて、農民にも戦に参加して貰ったそうです。それ
も戦場での戦では無く、後詰め、兵が出た後の城を守って貰う役目
だったとのこと。
2回目は1590年、豊臣が攻めてきた時、この時は、関東全体の危
機であると言うことで、農民の参戦を要請し、しかも20日間に限る
と言う時限立法で実現したとのことである。こういうことを教えて
貰って判ることは、案外、農民って強かったんだな、更に、昔でも
結構、合理的に処理してたんだなと言うことです。聞いて良かった。
今日で最後の講演となりました。第6回目「戦国大名と足軽
たち」講師は山梨県立博物館学芸員、西川広平先生です。
この博物館には、山本勘介の内野聖陽さんも、武田信玄の
市川亀治郎さんも訪れて、いろいろな文献や展示物を具に
見分し、驚くほど細かい点まで質問をし、役作りのイメージの
参考にされたそうです。
今回の講演では、私が心に決めていたことが有ります。それ
は、次のことを質問することです。それで今日は前から3列目
の席に座り、一言も聞き洩らすまいと熱心に聴きました。
それは雑兵のことです。歴史小説でもTVドラマでも、武田信玄
はスターです。今回は山本勘介もスターです。あることないこと
華々しく取り上げられドラマに仕立て上げられて行きます。でも
名も無き雑兵達はどんなだったのだろうか?このことが、いつも
頭の中を過ります。
私が知りたかったこととは、こういう雑兵達は、普段は何をして
いたのだろうか。若し、普段は農民で、戦(いくさ)の時に駆り出
されて、戦(たたかい)に従事させられるのなら、その徴兵には
何かルールは有ったのだろうか。例えば○○村の吾作は、前回
の戦に駆り出されたから今回は出なくて良いとか。出るなら給料
はどうなるんだろうかとか、主(あるじ)が駆り出された家の留守
家族には何か手当が出るのだろうかとかです。
講演が終わり、何か質問は?となって真先に手を上げて、この
ことを聞きました。先生の答えは明快でした。曰く。雑兵と言う
のは普段は農作業をしていて、戦時には戦に駆り出されると
言うふうに理解されてきましたが、(TVドラマなどでも、そういう
設定が多いように思う)最近の研究で、そうでは無いことが判って
きました。農民は領主、お館様には、年貢を払います。雑兵、
つまり兵士は年貢を払わないで良い替わりに、何かあれば、領主、
お館様の為に働く、そういう役割分担がはっきりしていたそうです。
つまり、農民は農民で兵役の義務は無かったということになります。
西川先生の研究では、武蔵相模を治めていた北条家の記録を
調べた結果、農民を戦に徴用したのは2回だけとのこと。1回目
は、1569年武田家が攻めてくることになった時、武蔵相模存亡の
危機であると訴えて、農民にも戦に参加して貰ったそうです。それ
も戦場での戦では無く、後詰め、兵が出た後の城を守って貰う役目
だったとのこと。
2回目は1590年、豊臣が攻めてきた時、この時は、関東全体の危
機であると言うことで、農民の参戦を要請し、しかも20日間に限る
と言う時限立法で実現したとのことである。こういうことを教えて
貰って判ることは、案外、農民って強かったんだな、更に、昔でも
結構、合理的に処理してたんだなと言うことです。聞いて良かった。
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