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風林火山の時代考証-2-

2007-06-22 22:20:27 | Weblog
風林火山の時代考証-2-           2007年6月22日

6回講演の第5回目が20日に有りました。講師は東大助教授
小島毅先生でした。タイトルは「川中島の合戦をめぐって」です。
結論を先に言うと、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは、学問
的には無かったようです。時代考証としてあの時代、あのよう
な大合戦で、一軍の総大将が単騎で動くなどと言うことは、
有り得ないことだそうです。ですが、これもまた、一騎打ちが
無かった証拠を見せろと言われると、これも出せないのが事実
です。そうなると、既に江戸時代に語られていた、あの一騎打
ちの話が、大衆に支持されており、現代ではNHKの大河ドラマ
で何回も放送されて、延べ何百万人が見ているあのシーンを、
あれは嘘ですとは、言い難いですね。

両軍の合戦は:
1553年、天文22年
1555年、天文24年
1557年、弘治3年
1561年、永禄4年
1564年、永禄7年  と、12年間にわたり5回行われたそうです。
そして有名な一騎打ちは永禄4年の戦で、場所は川中島の
八幡原とされており、現地に行くと両者の銅像が立っている。
私も何年か前に、見てきたが話の内容を再現した立派な銅像で
ありました。
話:http://nagano.miffylovei.com/archives/50583110.html
この話の基である、『甲陽軍鑑』が既に江戸時代に書かれた
軍旗物でフィクションを盛り込んだ可能性が大である。

小島先生によれば、先生自身の研究ではないが、学内のこの
道の研究者によると山本勘助も実在しなかった可能性が高い
そうだから、夢が無くなる。少なくとも軍師勘助は居なくて、足軽
大将勘助は居たかも知れないとのこと。この時代、軍師は僧侶
がやるものと決まっていたそうだ。それは、戦をするとなると、
兵糧、軍資金、兵隊と総力戦になるので、広い知識を持ったアド
バイザーが必要で、事実上僧侶しかこの役は務まらなかったと
言う。

勿論これに対して異論反論は大いにあろう。勘助に係る貴重な
資料を展示した展示会が開かれている。
http://www.fujisan.ne.jp/iyashi/
勘助ゆかりの地と言われる富士宮市には山本八幡宮も有れば、
勘助の母の墓も有る。
http://www.fujinomiya.gr.jp/
私も是非行って見るつもりだ。

川中島の合戦が、熾烈で、何度も戦われた割には、歴史的には
余り意味をなさないのは、信濃の国の取り合いであったこと。これ
即ち信玄も謙信も、天下人を目指して居なかったことが、最近の
歴史研究で明らかなそうである。
http://d.hatena.ne.jp/paco_q/20070502/1178044395

この戦の1年前、永禄3年、織田信長が今川義元を破った桶狭間
の戦いが、日本の歴史の中で大きな意味を持ち、その後に続く
豊臣秀吉、徳川家康と言う天下人が日本の舵取りをすることに
なるのは周知の事実である。

そうは言いながらも、私も今年の暮に向かって進行する信玄(市川
亀治郎)と謙信(Gakt)の一騎打ちを楽しみにして、日曜日の夜は
風林火山と決めている。


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