Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

天津133

2005-02-20 11:37:07 | Weblog
天津133                            5220

天津の年越し2態

旧正月の年越しは2005年2月8日でした。それからもう2週間になるの
ですが、同じ天津でも、市内と開発区では、全く様子の違う年越しで
あったことを最近知りました。

天津市内の私の知人は日本の会社の天津事務所のえらいさんで、
市内の超繁華街から一歩引いた場所のホテルの10階に住んでいます。
会社が借りてくれたホテルに住んでる日本のビズネスマンはかなりいます。
それで、彼は、今年の旧正月を中国で過ごすことにして、普段は日本に
住んでいる奥さんをこちらに呼んで、一緒に年越しを迎えたそうです。
年の暮れ1週間ぐらいは、毎晩花火と爆竹が鳴るんですが、大晦日は、
ことのほか派手で、あちこちで打ち上げられ、爆音が鳴り響き、それが彼の
部屋から見渡せるのだそうです。そして旧年から新年にまたがる30分間
ほどは、『まるで湾岸戦争でした』と彼が言っていました。奥さんも大喜びで
見ていたそうです。

天津市内と言えば、建物が密集してしていて、爆竹はなんとかできても、
花火は上げるところが無いように思いますが、ちょっとした空き地、果ては、
道路からボンボン上げるのだそうです。爆竹は中国で禁止されたと聞いて
いましたが、禁止されたのは、北京と上海だけだそうで、それ以外ではどこ
でも派手にやっていました。

爆竹と花火について、こんな話を聞きました。北京と天津の境の辺りに
軍の施設があって、そこで、花火と爆竹を作って、売って、商売にしている
のだそうです。中国の軍は経費を捻出するためでしょうか、ビズネス志向が
強いです。ここ開発区でもあのトヨタ自動車の150万平米の敷地の整地
作業は、軍の関連会社がやっていました。だから、北京では仕方無しに
爆竹を禁止にしたけど、天津では絶対に禁止できないのだそうです。そん
なことをしたら、軍のビズネスが上がったりになってしまうからです。ま、有り
そうな話です。

さて、私はと言えば、市内から60km離れた開発区で静かな年越しを
迎えていました。静かなと言っても爆竹が鳴り、花火が上がるのは同じ
なんですが、なんせここは開発区。一つの工場敷地の広さがでかいです。
隣の工場で爆竹をならしても、遠くでパチパチ鳴っているようにしか聞こえ
ません。夜の10時に部屋を出て、工場の入り口の守衛所に行き、買って
あった爆竹を守衛の兄ちゃんに渡して、火をつけて貰いました。目の前で
鳴る爆竹は流石に大きな音で、100発鳴り続けました。工場で作業を
していた連中も飛び出してきて、おー大爺がやってると言って見ています。
鳴り終わった瞬間、私は「新年快楽」と叫び、拍手をして工場を出ました。

工場を出ると全くの静寂です。人も車も全然通っていません。黄海路と
言う中央幹線道路を南に向かって、つまり外人Barの方に歩いているの
ですが、こんなに無人の街は初めてです。8番街から7番街まで来ました。
ここはまだ工場区なのですが、一角に独身者住宅があるところです。深夜
でもリヤカーのコンロの上でお好み焼きとか、トウモロコシを焼いて売ってる
ところですが、今夜は、それもありません。独身者住宅を見ると、幾つもの
窓に明りがついています。あー、彼らも故郷へ帰らずに、ここで働いて
正月を過ごすのかと、感慨にふけります。5番街の手前で、Taxiが来ました。
手を上げて乗り込みます。3番街まで。結果的には、この時間帯が一番
車が少なかったようで、24時を過ぎてからは、また車は走っていました。

外人Barはフィリピン・マレーシアバンドがやっていましたが、客は少ないです。
江蘇省出身のバーテン・ジャックは帰省し、地元塘沽出身のハリーが
「今晩は、お飲み物は?」と日本語で聞いてきます。赤ワインを頼み、
見回すと、いつも中国人女性と一緒に来る英国人男性が一人でいました。
彼女は?と聞くと、帰省したそうです。いつも来ているスウエーデン、スペイン、
アメリカの男性も来ていました。年越しの瞬間は、バンドが何かパフォーマンス
をするのかと思っていたら、そのまま音楽が続き、一方、店の子たちは全員
外へ出て爆竹をやっていて、なんともちぐはぐなカウントダウンでした。爆竹が
終わって、店の子が中に入ってくると、「Happy new year」「新年快楽」
の挨拶が飛び交います。それを見届けてから店を出て、Taxiで寮に帰り
ました。開発区には湾岸戦争は有りませんでした。