波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

組合

2011-07-14 00:09:07 | Weblog
協調性がなくて申し訳ないけど、ぼくはあまり組合に興味がない。
でも組合活動のことを知らないわけではない。

大原社会問題研究所とか労農党などの名前を聞いたこともなく、
執行委員長という名称や白紙委任状に何の疑問も持たないのどかな人たちが
たたかう姿勢をもつとは思えなくて、距離を置いているだけなのかもしれない。

亡くなった山登りの師匠は組合の闘士だった。
組合員のために命をかけて働き、心身のバランスを崩した。
たまに一緒に飲みに行く80近い大先輩も、過激な闘争を行っていた。
遊び好きな人だけど、ぼくがアナーキーな一面を見せるとぎろりと目をかがやかす。

きわめて穏やかで暴力革命や政治対立になんの興味も示さないぼくが
やさしく紳士的な元闘士の人たちに親しくしてもらえたのは、
相通じる素朴さと危うさがあったからだろうか。

もし、闘争激しい時代、そう、界隈の畳屋さんが
御社の屋上に赤旗掲げて声を上げていた時代があってね、と記憶をたどっていた
その場にぼくがいたら、かなりの頑固さは示していただろう。
ハトコも学生運動のときはバリケード作ってあばれていたらしいし。

現在の組合にはあまり興味がない。
もう10年以上も前のことだけど、白紙委任状というものの仕組みがよくわからなかった。
欠席する人は、議決を委任します、という紙に自分の名前を書いてサインだけして提出するのだ。
誰々に委任する、という欄はあるけど、そこには何も記入してはいけないと釘をさされる。

委任状は組合大会に出席する人に会場の入り口で手渡しされる。
誰かの委任状を持たされた人は、議案に対して賛成か反対か保留か、誰かの代わりに手を挙げる。
だけど、事実上「賛成」に挙げることが求められる。
「保留」などに手を挙げるぼくは陰口をたたかれる。
選挙実行委員長はさすがに直接理由を聞きにきてくれて、たしかに白紙委任状は一票の平等に反するし、委任する人の名前を書いてはいけないというのもおかしいね、と理解してくれたけど、その後も何も変わっていないのではないだろうか。
社内の狭い世界での旧態依然の行為だから、社外の人の目には届かない。

いまは力みもなく形式主義的でもなく自然でいいなと思うけど
むかしは組合の文書の日本語もひどく、日本語学や国語学を専攻・副専攻した人たちが
「これらの表現は日本語としてあまりにも不適切だ」と苦言を呈しても
理由を述べることなく「問題あるとは思いません」というコメントが返ってくるだけだった。
判断する力がないのに自分の基準で問題なしとする姿勢に官僚的なものを感じ、
そのようなところには染まりたくないと思った。

もっと組合に失望したのは、これももうずいぶん前のことだけど
当時同期の男が執行委員長や書記長をやっていた。
夜9時すぎに組合の集まりを終えて廊下で解放的な声を出して飲みに行く様子を横目に、
ぼくらは11時12時までは毎日働いていた。

同じ部署の社員が椎間板ヘルニアと診断され、別の人は顎関節症と診断され、1人は鬱のようになり休職し、ぼくも沈み込み、展望の見えない日々を送っていたけど、組合はあてにならなかった。
相談しても、問題を解決する気があるような態度には見えなかった。

まったく労働状況が改善されないのであらためて委員長に尋ねると、「あれ、ずいぶん改善されたと聞いたんだけど」というような返事が帰ってきて愕然とした。
いったいだれにそんなことを確認していたのだ。

年に一度の労働状況報告書を提出する前に、組合執行部の彼らの意見も聞いておこうと思い
「残業時間が年間1千時間を超え、サービス残業もウン百時間にはなっているが、支払いを求めて裁判になった場合、組合は支持してくれるのか」
「毎月100時間以上残業し、心身を病んでいる人が何人もいるが、労災認定を求めないのか」
と質問したが、それにたいしての答えははっきりと
「できない」だった。

労働条件が改善されないことに関しても、論理で組合員に向き合おうという姿勢は見られず、不満があるようだととりあえず組合員にあってなだめてガス抜きをしよう、というあいまいな態度だった。
どこの問題先送りの公務員だよ、というような印象だった。

何よりも、労働状況報告書を提出する前に回答を求めたのに、期限が何日もすぎてから、形式的なメールをよこしたことにがっかりとした。

べつにぼくは組合に頼らなくても会社と交渉すれば組合よりは譲歩を得ることができる。
会社と関わりのある弁護士も知っている。
当時は知り合いの元おえらいさんも健在だった。
会社と交渉したいことがあれば自力でできるけど、組合の頭越しに交渉するのもわるいかなと思って一応組合にも話を向けた。
だけど、組合の態度にがっかりしてすっかりやる気を失った。
もっとも、すでにそのときはかなり鬱的状態だったのかもしれない。

昨日、組合の執行委員立候補者を求める集まりで、同期の男が「むかし、同期の委員長にも言ったんだけどさ、組合を一度なくしてしまったもいいんじゃないかな。なくすと絶対たいへんなことになるって。いちど、どうしようもない状態にならないとだめじゃないかな」というようなことを言っていた。
毎年、執行委員のなり手がなくて、押し付けられた若手社員がいやいや行うことが多い。

会社の経営陣に顔を覚えてもらえたり、事務的な手続きを覚えたり、いろいろ得ることは多いだろうけど、労働運動の歴史も意義もあまり考えていない人はむかしながらの「組合活動」には関心がない。

組合があるおかげで経営陣の暴走を食い止められていると言う人がいるけど、実際どの程度食い止められているのだろうか。

もしかしたら、組合がなくなっても何も変わらないかもしれない。
かつてリストラがあったときも、組合は何ができただろう。
あのとき、会社を去っていった人たちは、組合にあきらめの視線しか向けていなかった。
期待なんてしていなかった。
彼らのことを思い出すと、とてももうしわけない。

そういうわけで、ぼくは組合の解体に異論はない。
なくしてしまえばいい、それで問題があればやる気のある有志が立ち上がればいい、と思っている。

だけど、解体を望まない人が現状を維持しようとすることに異論をとなえるつもりもない。
現在ぼくはただの組合観察者だ。
昼休みに1時間もかけて何も話が進まないので、ぼくは手帳のカレンダーを眺め、世界一周旅行のプランを検討していた。
東南アジア、ヨーロッパ、北米を旅したいけど、ニューヨークからロサンゼルスまでは長距離バスで行ってみようかな。土地の広大さを感じるには、長距離バスという手段もわるくないと思う。
大陸横断の長距離バスですごす時間は、無駄じゃないと思う。


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