波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

Rich Slaves or Poor Independent(豊かな奴隷か、貧しい独立者か)

2011-04-24 17:07:04 | Weblog
ぼくは車を持たない。家も買わない。生命保険にも入らない(都民共済には入ってるけど)。
腕時計もペンケースも鼻かみティッシュも持たない。
出かける時はてぶら。あるいは、小さなバッグをたすきがけにして両手を自由にしている。

朝、風呂に入ってからカモミールティーを飲んで心を落ち着かせる。
風呂ではたわしやタオルを使わない。ストレッチを兼ねて両手で体を洗う。
足はかかとや足裏をこすりあわせて角質をとる。
整髪料はつけない。
襟付きシャツの下にTシャツを着るのはいやだったけど、最近は着てしまうこともある。
下着のストックがなければセミオーダーのチノパンを直接はく。
靴はドクターマーチンのブーツかパトリックのスニーカーが基本だけど、中古で購入したものが多い。

あまり贅沢はしないけど、リーズナブルでおいしいものには興味がある。
昨日注文した長野の馬刺しは、送料も入れて1キロ4千円しない。
脂を注入した人工的な霜降りではなく、天然の霜降りだ。
先日は刺身用のツブガイを買ってきて、刺身にしたりつぼ焼きにして食べた。
危険部位を食べると幻覚が見えるという話をきいたので、おそるおそるためしてみた。
眠くなるだけで何も幻覚は見えなかったけど、甘みがある危険部位はなかなかおいしく日本酒が進んだ。

震災の被害にあった東北地方を応援するために、東北のお酒をどんどん飲んでいる。
ただ、被害の一番大きかったところのお酒はあまり出回っていない。
福島の内陸部、山形、岩手、青森などのお酒を飲んだが、まだ福島や宮城の沿岸部のお酒はまだ飲んでいない。

それはともかく、あいかわらずマイペースな日々をすごしている。
街路樹のけやきの芽吹きや、住宅街の梅の若葉のしなやかさや、道路わきのタンポポやホトケノザやハコベラの活力ある様子を眺めながら、秩序や無秩序、組織と逸脱、何かを排除する指向性を持たなければ複雑な構造物を作り上げることは不可能なのか、などといった混沌としたイメージをかかえている。
言葉で論理的に考えているわけではない。
ただ、言葉にならないイメージを意識下に何年もかかえていると、そのうちに心にフィットする理解を得ることができる。
即答性が求められる現代において、のんきにいろいろ夢想していられるのは、子ども時代にあまりにも暇な田舎の日々を過ごしてきたからだろう。

子どもの頃はずっと死について考えていた。
言葉にはしにくいけど、結局死というものは、竜巻や渦巻きが消えていくようなものだと考えるに至った。

所有欲にあまりとらわれなくなり、金銭欲、色欲にもとらわれなくなってきたけど、それは何かを我慢しているということではない。
ソフトドリンクよりもワインや日本酒の繊細な味のほうが楽しく感じられるようになってきたことと似ている。

ときどき、これからどうしようかと、ふと思う。
家を買うことや保険に入ることや結婚することや会社員になることを当然のように考えて、それを受け入れている人が多い。
だけど、あたりまえのように受け入れることによって、誰かの餌食、言い換えれば誰かに利益を提供する便利な人になっていないだろうか。
金銭的、物質的には豊かな満足のいく生活ができるかもしれないけど、それによって自分の世界観は発達するだろうか。
誰かにとって都合のいい便利な客になって、それで自分の人生がコントロールできるだろうか。

10年20年働いてせっかく1千万2千万ためこんでも、5千万も6千万もするマンションの頭金にして、借金を背負い込む人が多い。
はたして、マンションは買わなくてはいけないものなのだろうか。

マンションも車も保険も服も入浴剤も、売れなければ困る人がいる。
利益を生み出す仕組みをつくりあげた組織は、その仕組みを維持していこうとする。

しかし、ほんとうに必要なもの、ほんとうに価値のあるものだろうか。
自分でコストパフォーマンスを計算して購入しているだろうか。

世の中には高収入を得ている人も多いけど、住宅、車、食事、服などに使うお金が増えるだけという人は多い。
金持ちが、金持ちでない人よりも、知的なことや芸術的なことを楽しんでいるというわけでもない。

「価値」ということについて自力で考えず、自分の所属する共同体の価値観に自分を合わせていると、いつまでたっても集団行動から抜け出せないのではないだろうか。しかも集団の後方。

子どもの頃、母の日に裏山からとってきた観葉植物を鉢に入れて渡したことを思い出す。
家には、ぼくが裏山からとってきたユキノシタや春蘭やピンクのスミレや小さな苗木などがあった。
山にあるときはまったく価値のないものなのに、鉢に入れたとたん、鑑賞の対象にもなれば商品価値を持つものになる。
子ども心に、その変化はとてもわくわくする驚きに満ちたものだった。

大人になってからも、裏山のただの雑木だったカクレミノという常緑樹が住宅やレストランの植木として配置されているのを見ると、平凡な日本人が海外で外国人として注目される、といったような立場の変化を感じた。

ぼくが好奇心を刺激されるのは、やはり価値の創造だろう。価値ある視点の提案。
それができるのは、雑誌だろう。さてさて、これからどうしようか。

とりあえず今から代官山に行って東京地裁の競売に出ている物件を見てみようかと思う。
代官山はいつか住んでみたい土地だ。借金しないで買えるものなら、買いたい。
震災によって多くの人が不動産購入を敬遠する今こそ、ねらい目かもしれない。

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1 コメント

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確かにマンションは高いです (以前コメントを差し上げた人)
2011-04-25 01:57:31
確かに、マンションは買う人を餌食にしているような気がします。前から、私もそう思っていました。
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