波打ち際の考察

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波屋山人

表現の自由

2010-02-20 12:11:26 | Weblog
寒い日が続くので、また新大久保の韓国料理屋に通っている。
熱いチゲにご飯を入れてクッパにし、フーフー言いながら食べている。
店員さんの韓国語の響きを耳にしながら、異郷を想像している。

ぼくは韓国に行ったことがないけど、何年か前に韓国人の詩人と少し話をする機会があった。
日本語の堪能な人だったので、会話は日本語。
名刺を交換すると、ぼくの名刺に「俳句詩人」とメモしていた。
「俳句詩人」。なかなかいい言葉だ。俳人ではない。Haiku Poet。
いつか「俳句詩人宣言」という一文でも書いてみよう。

詩人でも音楽家でも画家でも料理人でも、芸術に関わる人は、文化の違う他国の人たちと交流を行うことはそれほど難しくない。
芸術で評価されることについては、あまり文化的制約が強くないからだ。

もちろん、キリスト教文化の影響を強く受けている人は、のびやかでない日本の暗黒舞踏のスタイルは受け入れがたかったかもしれない。
だけど、多くの欧米人が大野一雄などの暗黒舞踏に新しい価値を見出し、賞賛した。
武満徹の音楽も、奈良美智(ならよしとも)の絵も、海外の人はその独特の感覚を高く評価した。

「ある価値観において評価される表現」よりも、
「芸術として価値のある構造」を優先するのが、芸術家であり、フィロソファーなのだ。

宗教や伝統などに基づく価値観と相容れない考え方や行動は、共通の価値観でまとまっている社会の秩序を、崩壊させる恐れがある。
社会秩序の崩壊は、結果的には個人の生命維持の危機にもつながってしまう。

だから、社会秩序を維持発展させていくことを尊重する人は、宗教の価値観や、所属する組織を維持するためのルールを守ろうとする。
それは当然のことだ。

ところが、芸術に魅力を見出した芸術家はそこにとらわれない。
もし、社会秩序を崩壊させる恐れがあっても、そこに芸術的価値が見出せるのであれば、罵声をおそれず、表現を行う場合がある。
芸術家は簡単に国境を越え、秩序を越える。村の掟にはなかなか縛り付けられない。

中世のカブキ者は、圧倒的に派手な装いと演出で脚光を浴びた。
変化のない日々をすごす一般人はとてもカブキ者のような不良な真似はできなかったけど、カブキ者に憧れ、息抜きをしていた。

社会秩序を維持する政府も、人々を秩序の中に押し込めてしまうだけでは、秩序が維持できないことを知っていた。
空の竜巻や海の渦巻きも、周りを板などで囲めば消滅してしまう。
秩序だけの世界は長く維持できない。
混沌があってこそ、秩序を維持するエネルギーを吸い上げることができる。

社会秩序の維持をつかさどる政府は、混沌を秘めた芸能者たちを社会的評価の低い被差別民に位置づけ、利用した。
漫才師、歌舞伎役者、猿回し、ミュージシャン、等々は華やかな人気の職業だが、江戸時代にはエタ頭の支配下にある被差別民だった。
途中で歌舞伎はエタ頭浅草弾左衛門の支配を抜けたけど、それもほんの300年前の話だ。

現在もヤクザやマフィアが芸能界に食い込んでいる。
それは、芸能の社会的立場が、反社会的勢力に近いところがあることも一因だ。
彼らは一般社会の人々に対して、「アウトローに対する差別反対!」などという泣き言を言わない。
一般人から強烈な差別を受けることがあっても、わが道を行っている。

アウトローは、社会的に高く評価されるかどうか、ということを基準に行動していない。
やって楽しいか、稼げるか、表現として価値があるかどうか、などといったことを意識して行動している。
ロックミュージシャンが勲章を欲しがらないのも、社会秩序に絡め取られていない自由人だからだ。

一般社会を発展維持させるのに好適な価値観を持った人たちから見下されたり疎外されても、「稼げればいい」「おもしろければいい」などと考えている被差別民は多かった。

明治以降、民主主義の考え方が入ってきてから「ぼくたちも同じ人間なんだから差別されるのはいやだ」と考える人が増えたが、そういう人は一般人の社会の中に入っていけばいい。

現在の日本社会では多くの人が、自分のことを普通の一般人だと思っている。
社会的に高く評価されると心地よい。社会秩序の維持に反する行為には興味がない。
犯罪者には価値がなく、否定されて当然だと思っている。
だけど、芸術に関心のある人は、もう少し踏み込んで考えている。

以前、「本当は怖い童話」というような本が流行した。
子どもたちが読んでいる童話は、もともとはとても残酷な話だったり怖い話だったりしたが、著作権がないものだから、各出版社が勝手にソフトな内容に書き換えて発売している。

怖くない話、残酷ではない話、道徳的に正しい話、常識的に正しい話、そういった話に囲まれて育った子どもたちは、従順には育つかもしれないけど、芸術家には育ちにくいかもしれない。
社会秩序の維持に役立つ人になり、社会的に高く評価されるようになるかもしれないけど、社会秩序を再生したり社会に活力を与えたりする人にはなれないかもしれない。

よく勉強して官僚や弁護士や医者になり、一般人から高く評価されて安心するのもいいけど、そもそも自分たちにとっての常識とか価値観とか組織とか秩序って何なのだろう、と考えなければ世の中の仕組みがわからない。
常識にとらわれていては、価値あるものを理解して楽しむことも難しい。

童話や昔話に怖い話や残酷な話、暴力的な話があったのも、それなりに理由があってのことだ。登場人物に子どもとおじいちゃんおばあちゃんが多いことにも、理由がある。
長い歴史の中で、子どものときにそういった本を読むことは重要だと認識されていた。
それを、残酷だから、怖いから、といった現代の価値観で捨て去ってしまうのはもったいない。

芸術家の表現について口を挟む人は、そんなことも念頭に置いてほしい。
そうしないと、一般社会の内部にいて外が見えていない人が、一般社会と外を自由に行き来している人を妨害することにもつながる。

平気で芸術家に対して「世の中のルールを無視している」などと弾劾できる人は、潜在的に芸術家を差別しているとも言える。
芸術家から見れば、「お堅い仕事をしている人は自発的に視野を狭めたりしてお疲れ様」という感覚かもしれないけど、社会秩序の維持発展に忠実な人は、芸術家の価値を無視して平気で否定できるのかもしれない。
(特異なファッションをバカにしたり、暴力やエロを全否定したり、従順でない人を拘束したり)

本当は、芸術家の表現を制約するということはとんでもなく重大なことなのだ。
一般人が自分たちの常識で、自分に理解できていない価値を葬り去ってしまう恐れがあるのだ。

表現の自由がどうのこうの、と言う人はそういうことも意識しておいてほしい。
ぼくは「表現の自由は何があっても守られるべきだ」というような、何かの価値観の信者のようなことは言わない。

「芸術家の表現というかクリエイティブさを、一般人の価値観で否定できるのか?」
「社会秩序とか常識とか価値観とか芸術について考えることなく常識の中で流されて生きている人は、芸術家の考えや芸術作品の価値を理解していないのではないか?」
「一般人の価値観で芸術家の表現を否定するのは、知的な行為とは言えないのでは?」
「社会秩序を維持発展させるための価値観(常識とも言う)によって、価値あるものが否定されてもいいのか?」
「常識の枠内で、政治的に正しい童話や絵本で育った子どもが、創造的になるのか?社会秩序の歯車を増やしたいのか?」
「あなたは、子どもの頃まだ世の中の常識を知らなかったときに見ていた世界を、すっかり忘れてしまったのではないか?」
「世の中の構造を認識したり、多様な価値観を理解することが、社会問題の解消につながるのではないか。差別や暴力や犯罪を禁止することは、問題を隠蔽するだけではないか?」

そんなことを、「社会のルールに反する場合、表現の自由は制約される」とか
「社会的に正しいことに配慮しないとね」など簡単に言い切る人に聞いてみたい。

下記のサイトでは今回回収となった絵本について分析が述べられている。
だけど、なぜ「常識」に沿った絵本を作るべきなのか、根拠が述べられていない。
「常識」で判断してしまっている。

ついでに言うと、今回の「たくさんのふしぎ2月号」回収騒ぎは、反タバコ団体の圧力のかけ方が特に問題視されている。
持論を当事者だけで話し合っておけば、作家も担当編集者も失望しないで済んだだろう。
反タバコ団体は各方面に抗議文を送り、不買運動を行い、自分の主張を通させた。お互いの論理を真摯に検証しようとはしなかった。

さらに、「現代の絵本作家は『ポリティカル・コレクトネス』をわきまえた上で、慎重にも慎重に言葉を選び作品を作る」という認識も、そうとは言えない。
芸術に理解のない編集者はそう指示するかもしれないけど、芸術家のサポート役としては失格だ。

子ども相手だからといって、「社会的に正しいこと」で絡めとってしまえば、社会的に正しいことではない芸術的価値を理解できない人間に育ててしまう恐れがある。
絵本は、社会的常識に絡めとられた創造力のない人間が軽い気持ちで批評できる分野ではないのだ。

これから日本は人口が減少するけど、芸術に関心のある人や芸術に関わる人は増加する。
新たな価値を創造する人や、事業を起こす人や発明を行う人が、日本社会を支えていくことになる。
今まで、社会的に高く評価されていた官僚や弁護士や医者は、ありふれた職になる。
学業成績の優秀な人は、クリエイティブな仕事を志すだろう。
それは、日本社会の維持発展のためにも役立つことだ。芸術家を簡単に切り捨てないでほしい。

芸術家の表現を葬り去ることはどんなに重大なことか、芸術に理解のない反タバコ団体や反差別団体の人も、認識しておくべきだ。
そうしないと、また大きな社会的な反発を招く。
反タバコ団体や反差別団体の人も、絵を描いたり曲を作ったり書を書いたり、何か創造的なことをはじめてみてはどうだろうか。
社会的地位の高い人の高級な趣味としての楽器演奏とかオペラ鑑賞を楽しむのもいいけど、社会的評価が高くないところにも価値を見出せば、日々をより楽しく生活することができるはずだ。

http://homepage3.nifty.com/konacs6p/page007.html
> 作者の紹介をみると、文と絵の太田大輔さんは1953年生まれの木版イラストレーターで、
> カレンダー、広告、挿絵、児童書で活躍とのこと。本格的絵本は今回の「おじいちゃんの
> カラクリ江戸ものがたり」が初めてだそうだ。どうやら児童文学や児童心理を勉強してきた方ではなさそうだ。
> 現代の絵本作家は「ポリティカル・コレクトネス」をわきまえた上で、慎重にも慎重に言葉を選び
> 作品を作る。絵が描ける、文章が書けるで通用するような甘い世界ではない。子供相手と、軽い気持ちで参入できない。



コメント (1)
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