愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

ザ・葬式 其の弐

2008年08月31日 00時50分14秒 | 雑記帳




 今度は、自分のハンドルネームで葬式ネタをやってみました。
 カタカナとアルファベットの二つのバージョンをやってみました。結果は上のとおりです。
 俺、どう突っ込んだらいいか分かりません。わけが分からなくて俺の魂が宇宙まで飛んでいきそうです。



平和のための緊急告知

2008年08月30日 12時35分02秒 | 戦争のない世界をめざす
平和を愛するみなさんへ
緊急につき一人でも多くの方のコピペ歓迎

 8月31日(日)都は、防災の名を借りた有事訓練を葛西臨海公園で行います。
 直下型地震を想定した防災訓練といわれていますが、米軍が700人、自衛隊が550人も参加し、消防庁は3分の1、警視庁は昨年の半分に減らされています。
 防災訓練は、都・特別区・周辺市との連携による合同訓練とすべきです。
 江戸川原水協は、抗議とともに監視行動をします。
 万障繰り合わせの上、ご参加くださいますようよろしくお願いいたします。


集合:葛西臨海公園 なぎさ橋 午前8時
(江戸川原水協の旗あり)

「有事訓練」をやめよ!
アメリカ軍は防災訓練に参加するな!



憲法第9条を守る運動をひろげてきましょう

2008年08月28日 02時11分24秒 | 戦争のない世界をめざす
 私がライフワークとしていることには、戦争を世界から根絶していくということと貧困を世界から根絶していくということがあります。世界から戦争をなくしていくために、当面必要なことは、核兵器を廃絶すること、軍事同盟を世界からなくしていくことです。最低限、ここで掲げた二つのことを取り組んで実現することなくして世界から戦争をなくしていくということはありえません。
 では、私たち日本人が上記のことを実践する場合、何をするべきかということを考えていくと日本国憲法第9条を守り、その理念を実践する政治を作ることです。
 皆さん、"9条の会"というのをご存知でしょうか。読んで字のごとく日本国憲法第9条を守るために思想・信条、宗教や世界観の相違を超えてつながって運動を進めていくための団体です。ここでリンクを張っているのは、全国における地域の"9条の会"の交流・連絡センターみたいなものです。日本共産党の中央委員会のように地域の組織を指導する、という性格を持っておりませんのでそこのところは、正確ご理解ください。
 "9条の会"が作られたのは、一つには国会における議員構成が現在では、衆議院、参議院ともに改憲・タカ派の議員で3分の2以上で占められていることがあります。つまり、彼らがその気になれば、いつでも憲法9条を改悪して日本を戦争のできる国にするための「改憲案」を発議できるということです。政治は議会の中の組み合わせだけで動くわけではないので、そう単純ではありませんが。この状況を踏まえて考えれば、たとえ、国会の議員構成が現状のもとでも、草の根の運動によって改憲・タカ派勢力に圧力をかけて憲法改悪の発議を出させないことがとても重要になってきます。ここをなんとしても守り抜いてこそ国会から改憲・タカ派の勢力を締め出すことへの展望がひらけてきます。
 私は、"平井・小松川9条の会"に参加しています。先週の土曜日(2008年8月23日)に平井・小松川9条の会で定例会と暑気払いを小松川区民館にて行いました。もちろん私は、参加しました。今回の定例会と暑気払いでささやかながらうれしいことがありました。それは、地元選出の議員としては今までは日本共産党区議会議員のセバタ勇さんしか来てもらえていなかったのですが、今回はほかの党の議員が来てくれたということです。江戸川区議会では、日本共産党とは、立場が違い、対立する状況がありますが、"9条の会"は思想・信条を問わず、日本国憲法第9条を守る、という一致点で集まるので、議会の中でどういう立場であろうと日本国憲法第9条を守る事で一致できるのであれば、"9条の会"の中では仲間です。今まで会の事務局の人が今回初めて来てくれた議員に平井・小松川9条の会の定例会のお知らせを届け続けていました。そういったことが功を奏したわけです。先週の土曜日に来てくれた他党派議員本人いわく「私のような者が参加していいのだろうかと思っていた」とのことでした。どこの党であれ日本国憲法第9条を守ることで団結するならば、議会などで対立する政党の人でも飛来・小松川9条の会への参加は大歓迎です。
 このたび日本共産党以外の地元選出議員が平井・小松川9条の会に来てくれたことは、地元でも日本国憲法第9条を守る運動に新たな広がりを見せる契機になるかもしれません。否、広げるべきなのです。平和を守ることは、超党派で行うべきことなのだから。


追伸
 本文中では、議員の名前としては、日本共産党のセバタ勇さんの名前しか出さずほかの政党の議員に関しては、本人の承認を得ていませんのでふせさせていただきます。また、今回初めて、決心して平井・小松川9条の会に来てくれたばかりということも自分としては考慮しています。日本共産党と社会民主党(私の知る限り、平井・小松川地域に社会民主党の組織および関係者がいない)以外は、勝手に議員といえどもネットにさらすのは、地元に関しては、現段階では妥当ではないように私には思えますので、そこのところはご了承ください。

ザ・葬式 小林多喜二

2008年08月27日 01時06分00秒 | 雑記帳
 まぁ、なんというかあれだ。ある意味日本共産党の党員らしい遊び心だと思ってくれ。
 今、カニコーこと「蟹工船」という作品がヒットしています。この作品の原作者は、戦前において日本共産党中央委員会文化知識人対策の責任者をしていた、小林多喜二です。
 実在の人物についてやるのは、自分自身ならともかく、ほかの人の場合著名人であっても少々気が引けるというものです。しかし、小林多喜二の場合すでにこの世を去っているので、まぁ、別に彼を中傷するのではないので、あくまでも遊び心ということでネットにさらしても許容範囲でしょう。
 んでやってみたら、こんな具合です。
 小林多喜二は、1903年10月13日生まれです。享年98歳とのことです。ですから、特高警察の拷問にあうという白色テロにあわなくても、2008年現在ではすでに彼はこの世を去っているのでしょうね。それにしても、参列者は、ほとんど孫で一人、ひ孫がいます。それはともかくとして、アメリカの大統領がいるのには笑えました。小林多喜二が現在生きていたとすれば、彼の年齢は、満104歳です。ということは、享年98歳ということは、このカードによると多喜二は今から6年前にこの世を去っていることになるので、ブッシュ(ジュニア)が小林多喜二の葬式に参列していることになります。
 マジ、ありえねー。
 こんなふうに思うのは、僕だけではないでしょうね。何しろ、日本共産党は、アメリカの世界戦略を日本の政党の中でどこよりも厳しく批判しいます。また、日米安保体制を解消して、日本国憲法第9条を日本国の外交姿勢としていかしていこうという政治姿勢に関してもっともぶれないのが日本共産党ですよ。

 追伸
 ネット上でこんなお遊びをするのは、あのほんわかとした不思議で魅力的な女性の影響でしょう。間違いない。
 

ふにゃっ(0o0*)若返りすぎたにゃ

2008年08月22日 21時04分03秒 | 雑記帳
 再び、ブログ成績表をやってみた。
 性別は実際と逆になっているし、年齢は10歳になってしまった。ふにゃ。
 10歳の女性…女の子というべきか…。もし私が20歳くらいで結婚していたとして、子どもをもうけていたとすれば、この年齢は自分の娘の年齢であってもおかしくにゃい。一体どうなっているのか。
 シャー☆フギャー☆フニゴー☆ミギャー☆

 なんじゃこりゃー……にゃんじゃこにゃー 

日本が侵略戦争で行ったことに関して

2008年08月21日 02時07分11秒 | 戦争のない世界をめざす

 そもそも、一体かつて日本軍がアジア諸国への侵略戦争の際になにをしていったのか…この蛮行に関して当事者の告白を積み上げることにより、本質に迫っていこうという目的があった。もちろん、事実を風化させないために記録として残しておきたかった。新聞では紙がすぐに痛んでしまうということもある。そのために、ブログ管理人である私自身の論評などを一切加えないで取材記事をそのままブログに書き写すという作業を、私はしてきた。見る人にとってはもしかしたら退屈だったかもしれない。ただし、趣旨に関してはご理解願いたい。

 大本のしんぶん赤旗では、取材を受けた方の写真が載っている。信じがたいまでの蛮行を繰り返した当時の日本軍ではあったが、一人一人の兵士が極悪人であったか、狂人であったかというとそうではない、一人一人は普通の人であった。取材に応じてくださった方は、おそらく戦争が終わって日本に帰国して所帯を持ったあとは普通の家庭の夫であり父親であった。また、普通のおじいちゃんであった。誰がどう見ても普通の人としか思えない、実際に普通の人であったが、そういう人がしんぶん赤旗の取材で語ったようなことをした。これが侵略軍の本質というものであった。

 侵略戦争を引き起こす政府の本質とその軍隊というものがどのような本質を持っていたかということを私たちは正面から受け止めなければいけない。私たちは、戦争の当事者の証言を聞くことのできる最後の世代である。


三光作戦⑤

2008年08月21日 01時51分03秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月15日付


 日本軍に協力していた村の役人がいいました。「生活が苦しいだろう。労働に行けばお金がもらえる」―。すべて、うそでした。

 1944年9月。14歳だった趙宗仁さん(78)は、中国・北京市郊外の昌平県に行けば、仕事があるとだまされました。7人家族の農家。貧しい生活でした。

 昌平県に着くと、200人の中国人が集められていました。あとで聞いた話では、村ごとに二人ずつつれてくるように割り当てられていたといいます。

 その翌日、趙さんら149人の中国人は天津の港・塘沽へ汽車で移動。到着後、日本の軍隊に引き渡されました。着ていた服を没収され、黒色の綿入りの作業服と綿入りの掛け布団一枚、靴一足を渡されました。

 全員が倉庫のような木造の建物に入れられました。真ん中に通路、両脇につながったベッドが並んでいました。「二人背中合わせで寝返りを打つことができなかった。」建物は鉄条網で囲まれ、その外側も電流の通った金網が張られていました。

 1週間ほどたってから、船に乗せられました。船内で白地に黒い文字で「熊谷組」と書かれた布切れを服に縫い付け、渡されました。

 山口県下関に着いてから福島県で1ヶ月、長野県で3ヶ月、北海道で終戦まで奴隷のように働かされました。

 長野県下伊那郡にあった熊谷組の平岡事業所でのことです。日本人がまだ息のある重病の仲間の体を縛り、木箱に入れて火葬したのを目撃。「とてもつらくなって逃げようと思ったけど、行く当てもないのであきらめた」

 終戦までの約1年、発電所の建設や鉱山で鉱物を掘りました。休日はなく、賃金も一切、支払われていません。
 
 趙さんは、「労工協会とも日本の会社とも、労働協約を結んだことはない。日本での仕事の説明を受けたこともない」と証言します。

 趙さんが連れて行かれた華北労北工協会は、日本政府の政策に基づき、華北での労働者の募集、供給、あっせんを行う機関として設置されました。しかし、実態は「募集」などとは程遠く、捕虜や日本軍が捕まえた農民、趙さんのように行政機関によって連行された者が送り込まれていました。

 政府資料によると、中国人約4万人が日本に強制連行され、35企業の135事業所で過酷な労働を強いられました。うち約7千人が命を落としたといいます。政府はいまだに謝罪も補償もしていません。

 来日した趙さんはいいます。「日本政府と企業に人間でない扱いを受けた。歴史の問題として、日本に課せられた問題として解決のために尽力してほしい」


(「三光作戦」のシリーズはおわります。本吉真希が担当しました)

三光作戦④

2008年08月19日 02時22分45秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月14日付


 八路軍(中国共産党の軍隊)の通信兵だった王子安さん(81)=中国・山東省=は、1944年9月ごろ、同省諸城県内を退却中、日本軍に捕まりました。仲間4人で堀に逃げ込みましたが、銃を突き付けられ、捕虜になりました。

 十数人の日本兵に散々殴られたあと、日本軍の拠点へ20キロほど歩かされました。縄で後ろ手に縛られた手は、はれ上がりました。

 
 軍の拠点に6日間拘留されました。2日間の尋問を受けました。「本当のことをいえ!」。日本兵は王さんに刀を突き付け、殴りました。

 その後、諸城県にある日本軍警察総所に送付されました。かいらい政府の場所だといいます。

 木製の牢(ろう)に、4カ月余り監禁されました。鉄のチェーンが付いた足かせをはめられました。服は脱がされ、下着だけ。「ほとんど裸に近かった」

 氷点下14-15度。「凍傷になって皮膚が腐っても治療してくれなかった」。食事は数日に一回。トウモロコシで作ったバンのようなものが少し。看守に頼めば井戸水がもらえましたが、飲める代物ではありませんでした。

 一人が栄養失調と凍傷で死にました。さらに一人が半身不随になり、亡くなりました。もう一人もどこかへ連れて行かれました。「残ったのは私だけ。それでも、日本に連れて行かれるなんて知らなかったから、まだ希望はあると思っていた」

 45年1月ごろ、同省の青島へ連行されました。大きな倉庫のような所に約千人の中国人が収容されていました。王さんは建物の外に「華北労工房」の看板がかかっているのを見ました。監視役は日本軍の将兵でした。

 日本軍は逃亡を図った中国人を懲罰にかけました。「水の牢屋に入れられた」。20平方メートルほどの広さに深さ50センチくらいの水をためた部屋。「冬だと水は凍る」。一日中、入れられた人もいました。

 2月中旬ごろでした。突然、船に乗れとの命令。説明は一切ありません。船の中で日本行きのうわさを聞きました。「絶望の思いだった。もう逃げ出すこともできない。家に帰る希望も消えたと思った」

 戦争が終わって3カ月後の11月。やっと帰国できました。「母と対面したとき、母もうれし泣きしていた。私は『生きて帰ってきたのだから泣かないで』と声をかけた」

 王さんは北海道・神威の炭鉱で働かされました。1日12時間、昼と夜との二交代制。中国人労働者391人中150人が犠牲になりました。

 強制連行した日本政府と強制労働を強いた企業に被害の救済を求めて来日した王さん。63年前のことに話がおよぶと目から涙があふれました。


(つづく)

三光作戦③

2008年08月18日 01時44分21秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月13日付


 「なんと無情なことか、彼らに土下座して謝っても足りない」

 今年5月、地域の年金者組合などが発行した戦争体験の文集に、そう記した和田三郎さん(84)=名古屋市=。1944年1月に中国東北部の満州に渡ってから、湖南省衡陽で終戦を迎えるまでの徴発行為の告白をしています。

 和田さんは後方支援の防空部隊として日本軍に従軍しました。補給はほとんどなく、現地で食糧を調達することは日常茶飯事でした。朝の点呼がすむと、兵隊4-5人が一組となって徴発に出ました。

 朝、中国の農民たちは、白米をてんびんに担いで往来しました。町で現金に換えたり、市場で砂糖や塩と物々交換するためでした。

 「曽野途中を待ち伏せて分捕るわけだ。集団で襲う略奪だ」。使うのは機関砲や高射砲を載せる防空隊の自動車。道の脇に車を寄せ、運転手と助手は車内で、残りの兵士は荷台で待ち伏せました。有無をいわせず、奪った米を荷台に載せ、走り去りました。

 「シーサン(先生)、シーセン(先生)」。そういって農民たちは後を追いかけましたが、その姿は見る見る小さくなりました。

 「日本軍に歯向かうことなんてできない。尋常な農民はただ『堪忍してほしい』って表情してた」。遠くを見つめて話す和田さん。「一般市民は何の罪もない人たち。自分の生活のためてんびんを担いできただけのこと。それを略奪したんだもの…」

 徴発はほかにもありました。「野菜組」は各兵士が携帯する1.5メートル四方の天幕を持って畑に行きます。「イモ、菜っ葉、大根。口に入るものは何でも捕った」。天幕を袋代わりに放り込みました。

 「魚の組」は魚が群れている川の中に銃弾を撃ち込み、衝撃で浮いてくるのを手づかみで捕りました。

 「犬の組」は銃を後ろ手に隠し持ち、どんな犬でも撃ちました。炊事場の裏は犬の残骸(ざんがい)が山を成していました。

 白昼、民家に押し入り、食糧などを奪うこともしました。

 「よその地行って土足で上がって、目ぼしいものを何でも捕ってくるなんて、そんな無茶なことはない。徴発なんて日本軍の勝手ないい分。人間として許されないこと」

 望郷の念は常にありました。「同じ死ぬなら、一歩でも内地の土を踏んでから死にたい」と。上官の制裁に耐え切れず、首をつる初年兵もいました。家族には「戦病死」と告げられました。「"たたかって病で死んだ"なんて…。戦争ほど惨めなものはないよ」


(つづく)

三光作戦②

2008年08月17日 23時00分38秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月12日付


 「ここに来た八路軍(中国共産党の軍隊)は何人だ!」「どんな武器を持っていた!」「どっちへ行ったか!」

 突如、一人の中国人男性に始まった拷問。日本軍の命令は絶対服従でした。通信隊の無線手だった仙波藤吾さん(86)=さいたま市=は、ちゅうちょしながら発電機の転把(てんぱ=ハンドル)を回しました。

 後ろ手でいすに座らされ、両手を発電機のコードで縛られた男性。高電圧の電気が流れると「ヴッ」と声にもならない声を出し、いすごと倒れました。下士官が連れてきた男性は見るからに農民でした。

 「ボロボロの服着てね。破れた布靴は土ぼこりにまみれて。いままさに農作業やってたって感じで。そうういう人たちをたたきながら、引っ張ってくるんです」。兵士にとって「連行=戦果=軍の功労者」になると仙波さんはいいます。

 気を失い、5-10分後、目を覚ました農民に下士官はたたく、けるなどして同じ質問を浴びせました。農民は「わかりません。知りません。」というだけ。

 「仙波、(転把を)強く回せ!」。農民の体に再び電気が流れました。意識が戻った農民の顔は青く、いすに座ることもできません。無言のまま、胸を突き出してきました。

 「生きて帰る望みはないと思ったのでしょう。最後の抵抗は『殺してくれ』という無言の意思表示だった」

 下士官はフラフラになった農民を外に連れ出しました。夕方、仙波さんが目にしたのは、兵舎の片隅に横たわる血にぬれた農民の体でした。度胸をつけるため初年兵に課す、人体氏刺突訓練の対象にされたのだろうと仙波さんはいいます。

 「人様に後ろ指をさされるなよ」「まっとうに生きるんだぞ」―。母の口癖でした。

 「この二つの言葉さえ守れなかった。情けない限りです。」そう話し、食糧を奪った罪を告白しました。

 無線班が過疎のに着いたときです。食材をすべてを徴発する命令が出ました。無線手の任務は通常、後方の通信所から前線の各中隊への連絡や伝達事項の確認です。略奪行為は初めてのことでした。要領も得ないまま、重い軍靴で粗末な家の戸をけ破りました。

 中には、病に伏した老人と看病する老母しかいませんでした。そんな二人から、食糧らしきものが包まれた小さな布をむしりとりました。老母は拝むように手を合わせ「持っていかないで」と懇願しました。

 しかし、仙波さんは「『してやったり』と戦果を得た誇らしさしか感じなかった…」

 約2年間の従軍で犯した拷問と食糧略奪は一度だけでした。それでも仙波さんは悔います。「孫の世代に絶対こんなことはさせたくない」


(つづく)