愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

総選挙

2009年08月30日 21時30分00秒 | JCPの活動、国民運動、国内の政治・経済等

 今、テレビの選挙速報を見ていますが、自公政権崩壊はきわめて現実的な状況になりました。今後どういう新しい状況が生じるかは予断をもって見ることができませんが、私は、新しい状況を踏まえた上でいっそう建設的野党の役割を果たすにふさわしい日本共産党を建設しなければと思っているしだいです。

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本日は総選挙投票日

2009年08月30日 09時33分30秒 | JCPの活動、国民運動、国内の政治・経済等
 みなさんもご存知のとおり、今日は総選挙の投票日です。

 歴史的にも大事な局面です。しっかりと、国民としての権利を行使してより良い日本を築くことに参加しましょう。


 総選挙では、みなさんは、二つの票を行使します。

 一つは、比例代表です。もう一つは、小選挙区です。

 比例代表は、政党名を書きます。小選挙区では候補者名を書きます。

 同時に今日は最高裁判所の裁判官に対する国民審査の日です。

 注意事項は、国民審査では、信任できない裁判官にX(バツ)をつけるやり方です。何も考えずに何も書かないでそのまま投票箱に入れると裁判官を信任したことになってしまいます。白票という概念が国民審査にはありません。どうしても、保留にしたいときは投票所の選挙管理委員に用紙を返却してください。


 より良い、日本の未来を築くためにみなさん棄権しないで投票所へ足を運びましょう。

 足の不自由な方は、家族、知人、友人などに投票所まで連れて行ってもらうように頼んだらいいかと思います。


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きょうが宣言した(BlogPet)

2009年08月29日 08時21分08秒 | JCPの活動、国民運動、国内の政治・経済等
きょうキキが物事は克服したかもー。
それでじじにゃん☆の一般法則論者を告白したかったみたい。
でも、きょうキキが宣言した?
だけど、削減する?
それで撤回した?

*このエントリは、ブログペットの「キキ」が書きました。

ブログ更新をせかされてもね―公職選挙法恨み節

2009年08月28日 08時02分50秒 | 雑記帳

 昨日、職場の労組の仲間からブログ更新ここんところしていないでしょう、といわれました。

 単純に忙しいというだけではなく、"WINDOWS OS"の調子が悪くなってパソコンの動作が不安定になったのでOSを再インストールして必要なソフトをインストールするなどの手間がかかっていました。なにしろ、最近イーモバイルのUSBをつないでもデバイスが接続されていません、というのが多くなってこれではネットも満足にできないという状況がありました。それで、ブログ更新どころではなかったという面があります。

 それにしても、今の時期政治ブログの記事をアップするときには言葉には本当に神経を使います。とくに、公職選挙法の中にあるおかしな規定に悩まされています。

 それにしても、選挙の公示が始まったとたんに文章内容に慎重になり悩まされるというでは、日本は民主国家とはいえませんね。

 選挙の投票日が迫ってくればくるほどに有権者は、どこから誰が出馬しているのかへの関心を強めていくのに、そういう状況になると事実上何もいえなくなる、本当におかしいです。

 現在の公職選挙法の本質的な問題点は、日常の政治活動と選挙活動とを遮断して人々にとって政治と選挙とを遠ざけることにあります。もちろん、こんなおかしな状況にしたのは、現行政権にとって人民が政治を自分のものとして扱って要求に基づき団結して、これが投票行動へ結びつき、財界本位の政権がひっくり返され、労働者本位の政権が成立しては困るということがあるからです。

 しかし、状況を見ると、どんなに現行政権側が悪あがきをしても、政治・社会の変革を止めることはできないのだということが日々明らかになっています。

 日本社会から貧困をなくすために
 戦争と貧困を世界から追放することに貢献する日本を築くために
 一日も早く、民主連合政府(民主主義革命の政府)樹立をめざしていこう

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唯物論哲学は科学的なものの見方の基本です

2009年08月23日 21時48分44秒 | 科学的社会主義

物事の根本的な見かたを見に付けよう - 愛と情熱の革命戦記

 今回の記事は、記事の表題こそ違うものの前記事である上のリンク先の記事の続きです。

 古代ギリシャ時代、アリストテレスなどが生きている時代において哲学とは、自然科学、社会科学の総称でした。現在、物理学、化学、政治学、法律学などが全て古代ギリシャ時代には哲学と呼ばれていました。その後、科学の進歩に伴い、それぞれの分野の諸科学の発達が高度になりました。科学の発達の到達点が高度になるに従い、それぞれの独自性が高まり、自然科学や社会科学が研究対象にごとに独自性を高めていき、細分化していきました。こうして、哲学は、とくに近代以降は根本的なものの見方、思考と存在との関係を根本問題として探求する学問として存在するようになりました。

 哲学上の根本問題を解明したのは科学的社会主義の先達であるフリードリヒ・エンゲルスです。そのくだりを引用しましょう。


 すべての哲学の、とくに近代哲学の、大きな根本問題は思考と存在との関係に関する問題である。(エンゲルス著 フォイエルバッハ論 新日本文庫)

 世界の本源が一体なんなのか、世界の本源を思考(観念)に求めるのかそれとも思考と独立した客観的な存在(物質)に求めるのか、これが哲学上の根本問題として扱われています。世界の本源を思考(精神)に求め何らかの世界創造を認める思想が観念論です。存在(物質)を本源的に存在すると考え、思考を存在(物質)の運動の反映であると考えるのが唯物論です。唯物論と観念論の分かれ道はこれだけです。唯物論と観念論の分かれ道について考えるときに思考と存在との関係をどう考えるのかということ以外の事柄を持ち込むと混乱するだけです。

 よく、唯物論に対する観念論からの攻撃の一つとして、「唯物論は物質主義で人の心を軽んじる、無視する」「物質的、即物的利益ばかりを追求する」という類のものがあります。しかし、これと世界の本源を何に求めるのかということとは別個の問題です。

 通常、正常な人間であれば唯物論的なものの見方をしているはずです。以下の問いを記しておきましょう。

 ○あなたは、人間の精神活動(犬、猫などの動物の精神活動にも当てはまります)を脳の働きであることを認めますか?(あなたは、人間の精神活動には脳の助けを必要としますか?)

 ○あなたは、他人の存在を認めますか?

 ○あなたが生まれる前に、地球や宇宙があったことを認めますか?


 赤い字で記した上三つの問いには、普通の人は「はい(Yes)」と答えるのではないでしょうか。どのような人でも、自分の意識に関係なく存在する客観的な状況をふまえて物事を考えるのではないでしょうか。そういう意味では唯物論は常識的なものの見方です。

 観念論には、おおづかみな分類として、主観的観念論と客観的観念論とがあります。

 主観的観念論は、世界の存在を自分の精神、感覚の表象であると考えます。自分の精神と独立した客観的な物質を認めません。突き詰めて言えば、「パソコンが存在するのは、自分の精神のなかにパソコンがありこれが自身の外部に表象された」という考えに主観的観念論は行き着いていきます。

 客観的観念論では、自分自身の意識とは独立して存在する客観的物質の存在を認めます。ここの点では唯物論と共通しています。違いなんでしょうか。客観的観念論では世界の存在を絶対的な性身体の活動が展開したものと考えます。哲学では、ヘーゲル哲学がこれに当てはまります(ヘーゲル哲学では絶対理念の自己展開の姿が世界を創るとしています)。分かりやすい例では、宗教の世界観が客観的観念論に該当します。例えば、旧約聖書では、絶対的精神体である神が「光あれ!」と世界を創造した旨が記されています。
神、絶対理念の存在を取り除けば残るのは唯物論です。そういう意味では、首尾一貫性に欠けます。人間の社会的認識の発展段階で考えると客観的観念論は唯物論の前夜と考えることができます。

 さて、客観的観念論はともかくとして、主観的観念論でものを考える人が本当にいるのでしょうか、こういう疑問が出てくることが予想されます。むき出しの形で、という人はおそらくいないと考えられます。現実には、主観的観念論はあれこれの形をまとい変種として社会に現れてきます。


 ここで主観的観念論の変種をすべて網羅的に取り扱うことはしませんが、現在の日本で主観的観念論の変種としての現れてとしてみなさんが知っているものがあります。「自己責任」論という言葉はよく聞くのではないでしょうか。これは、現在日本社会のなかで振りまかれている主観的観念論の一つです。日本共産党に限らず、反貧困ネットワークなど貧困をなくしていく活動をしている人、現在貧困に陥っている人は必ずといっていいほどたとえば「貧困なのは努力が足りないからだ」というような一見もっともらしい体裁をもった、ときには悪意に満ちた誹謗・中傷に出くわします。よく考えてみると誰でも分かります。努力というのは、極めて主観的なものです。ですから、努力というを客観的に検証するのは極めて困難、不可能といって差し支えはありません。「自己責任」論は、客観的に検証不能な主観的なもの(例えば努力、がんばり)が、本人の置かれた状況をすべて作り出すという論理によって立ちます。ですから、「自己責任」論は非科学的な主観的観念論の最たるものです。

 「自己責任」論は、現在の日本において支配層の側から意図的に振りまかれた欺瞞に満ちた論理です。なぜ、そのようなものが振りまかれるのでしょうか。それは、人々が日本社会の構造的歪みを客観的検証しながら自分達の置かれた状況を理解しては困るからです。人民の生活苦の原因を彼あるいは彼女の主観的な要素である努力とか晩張り、あるいは心がけの問題に解消して、社会・政治の構造的歪みの問題に目を向けさせないように仕向けて人民を思想的に眠り込ませるための論理としては「自己責任」論は極めて好都合です。ですから、「自己責任」論がとくに小泉内閣の時期に新自由主義とともに大手を振って振りまかれ、少なくない人々が洪水のようにあるれるように流布される「自己責任」論にとらわれていきました。「NPOもやい」などへ相談しに行く人でも例外なく「自己責任」論の呪縛にとらわれているわけです。実際に、相談へかけこんだときの所持金が数十円しかないということが全国的に報告されたのは、まさに「自己責任」論の万円の深刻さを物語っていました。

 小泉内閣の時期と比べると現在では、さまざまな分野での運動の成果が実ったこともあり、貧困、「子どもの貧困」という問題がさまざまな人々によって認識させられるようになってきました。それでも、「自己責任」論を完全に打ち破ったとはいえません。油断大敵です。

 今後も財界・大資本の側からは人民の戦いを押さえ込むべく、さまざまな形で主観的観念論の変種をマスメディアなどを活用しながら総がかりで振りまいてきます。支配層の欺瞞を見抜き、思想的に眠り込まされて自分で自分の首を絞めないようにするためには科学的な世界観である唯物論を見に付けることはとても大切です。また、ある局面だけにとらわれて硬直的なものの見方に落ち込まないためには、世界を変化のなかで捉える弁証法という考え方の基本を身に付けておくことが大切です。

 欺瞞に満ちた反動的なイデオロギーに惑わされないように、多くの方に弁証法的唯物論(唯物弁証法)を学ぶことを私は願うものです。


終わり



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物事の根本的な見かたを見に付けよう

2009年08月20日 23時29分16秒 | 科学的社会主義
 今月の18日にみなさんもご存知のように衆議院総選挙の告示が行なわれました。今回の総選挙の後、民主党中心の政権が成立する可能性が高いといわれています。こういう認識は、私だけではなく、日本共産党中央委員会が都議会議員選挙の結果をふまえて持っている認識でもあります。

 世界を見渡せば、1823年のモンロー宣言以来アメリカ合衆国の裏庭と言われてきたラテンアメリカ諸国で、対米従属から対米自立への道を歩み、貧困克服の流れが大きく前進しています。ベネズエラやボリビア、ブラジルなどを見て分かるように、南米大陸はいまや革命大陸といっていいほどの変化を遂げています。また、アメリカのオバマ大統領がプラハでの演説で「核兵器のない世界」をめざすことを打ち出しました。私や党中央委員会の考えでは、アフガニスタンの問題や在日米軍基地の問題などから、アメリカは帝国主義国であるという認識です。その帝国主義国の大統領が広島や長崎に原子爆弾を落とした道義的責任をふまえながら「核兵器廃絶」を打ち出したことは世界史上画期的なことです。もちろん、アメリカの外交政策、安全保障政策などのなかに旧態依然として変わっていないところがありますが、大局的にはアメリカの社会も大きく変化しようとしています。

 日本はどうでしょうか。やはり、大企業、大資産家ばかりを優遇する政治からおさらばしたいという世論が渦巻いています。そりゃそうでしょう。20代の労働者の約半数は派遣など非正規雇用で人間らしい生活とは程遠い状況におかれ、親の代より豊かになれる見通しがない、将来設計の立てようがない若者が増えています。未来への希望をもてない人が社会全体に増えています。また、生まれた家がもともと貧しかったり、親が失業したことによって教育を受けることから排除される、あるいは医療保険、医療から排除されるなど貧困に苦しむ子ども達が増えています。「子どもの貧困」を根絶することが日本社会における第一級問題として上がっています。人民の生活にとって切実なことに対して、歴代政権、現行政権がなんの展望も示すことができないでいます。それは、現在の政府・政権が従来の枠組みにとらわれここから抜け出せないでいるからです。

 日本を含めて、世界はいま大きく変化しようとしています。月並みな言い方になりますが、私たちが生きている時代はまさに激動の時代というにふさわしい時期です。今後、いままでの10年が1年間にひとまとめにやってくるような局面に私たちは出会うことでしょう。

 そんな、時代において私たちが近視眼的なことにとらわれて考えを誤らないためには、根本的な世界観、ものの見方を身に付けることが大切です。

 世界の根源はなにか、物質と精神の関係はなどすぐに役立つとは言えないかもしれない哲学を学ぶことによって、さまざまな局面に一喜一憂しないで腰の据わったぶれないものの見方を身に付けることができます。

 いまの時代だからこそ私は、多くの人、特に若い人には物事の根本的な見方、世界観を身に付けていただきたいと心から願います。多くの人に、哲学、唯物論哲学を学ぶことをお勧めしたく思うしだいです。


つづく


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 ぽちっと。

科学的社会主義が自然科学と無縁だと?一般法則論者のたわごとよ

2009年08月19日 01時11分19秒 | 自然科学

紹介・「科学的社会主義を学ぶ」不破哲三著・新日本出版社 - 愛と情熱の革命戦記

 上記のリンクをたどればお分かりですが、一般法則論者と名乗る御仁がもはや笑うしかないコメントをよこしてきました。

 コメントの表題に「科学的社会主義は自然科学とは無縁です」とし、あれこれ書いていますが、科学的社会主義を自然科学とは無縁と言い切るようでは、「一般法則論者」と名乗る御仁が科学的社会主義の「か」の字も知らず、思い込みに始まり思い込みに終わっているということを自ら告白しているというほかありません。そんなあなたに「マルクス主義政党のいうことを丸暗記する程度の教養しか今現在お持ちではないようなので」と言われる筋合いはございませんこと。。。オホホ。。。

 科学的社会主義と自然科学とは、縁がないどころか極めて親和性が高いです。ここの記事でこのことを若干論証します。

 科学的社会主義の世界観(世界をどう見るか)の特質として弁証法的唯物論(唯物弁証法ともいう)があります。これは、世の中の物事は、連関しあっていて運動し、全ては生成、発展、消滅の過程にあるという見方です。そして、物事には歴史があり、時間の流れがあり、そのなかで物事を相対化して見るいうのが弁証法のものの見方の特質の一つです。また、弁証法的唯物論では、矛盾を物質の運動の契機となる要素であると考えています。誤解のないように申し上げておきますが、ここで使っている「矛盾」という言葉はつじつまが合わないという意味ではありません。物質が生成し、発展し、消滅していく過程を歩む契機となる事柄を「矛盾」といっています。ここでは「矛盾」という言葉を哲学の用語として使用しており、日常生活の言葉の意味とは切り離してください。

 ここで少しまとめておきましょう。






 弁証法の特質

 ○世界における物質は相互に連関していてそのなかで物事を認識します。

 ○物質を、静止したものとしてではなく、変化のなかで捉えます。

 ○一見相容れない対立したようなことが一つの事象の中で相互に働きかけあい、このことによって物質が運動することを捉えます。

 ○対立物の相互浸透







 まずは、物質相互の連関について。

 世界において物質(ここで言う物質とは人間の意識とは独立して客観的に存在しているもの全てを指します。)は、相互に関連しあいながら存在して運動しています。人の身体を考えれば分かりやすいかもしれません。人間の身体には、脳、心臓、胃、腸、肝臓、手、足、筋肉、骨など他にもさまざまな器官が存在しています。それぞれ器官には固有の役割がありますが、その固有の役割を果たしえるのは、人間の身体の中でそれぞれの器官が相互につながりあっているからこそであります。例えば、自己などで私の腕が切り落とされて身体から切り離されてしまったとしたら同でしょうか。もはや、そのような腕は腕としての機能を果たさなくなります。このことは、他の器官についても同じようなことがいえます。それぞれ、固有の役割がありながらつながりあっている、連関しあっていることが分かります。

 では、例えるものを変えて、今度は宇宙まで話を広げてみましょう。私たちが住んでいる地球が太陽の周りをおおむね一定の距離を保ちながら公転しているのはなぜでしょうか。私は、物理学の専門家ではないので詳細なことは述べられませんが、太陽系の惑星の運動は、太陽はもちろん、太陽の周囲を公転している数々の惑星の重力が相互に影響しあっていること抜きにしては考えられません。お互いが引き合い、あるいは星の位置関係によりはじきあうことが太陽系の中で微妙なバランスをとって存在しています。だからこそ、私たちが住んでいる地球だけではなく他の惑星の重力がお互いに影響しあっている、もちろん太陽の重力の役割が大きいわけですが、からこそ一つの惑星が姿を保っていられるわけです。それぞれの星は一見バラバラに存在しているように見えても真実はお互いに連関し影響しあっているわけです。この中身に関しては、私なんかより物理学者や天文学者のほうがよく知っているでしょう。

 世界において、物質は絶えず変化しています。物質が未来永劫同じ状態ということはありえません。世界において物質はすべて生成、発展、消滅の過程にあります。そして、ある物質の消滅はたんなる消滅ではなく次の生成へと結びついていきます。

 例えば、私自身のことで言えば、私が今から34年前にこの世に生まれたわけですが、いまの姿で生まれてきたわけではありません。当たり前ですね。良くも悪くも、生まれてから成長して成人して今に至っているわけです。当然、私自身やがては年老いて死にます。死ねば、私という自我の存在は消滅します。私の肉体が生命体としての活動を終えてしまった後、たんなる消滅かといえばそうではありません。私の身体を作っている物質は世界の中で循環していき何らかの形で次の生成、発展、消滅をつくる糧となります。世界において、物質はこの流れに乗っています。

 例によって、又宇宙にまで話を広げます。

 いまから、100億年ほど前にビッグバンによって私たちの住む宇宙が生まれたといわれいます。この問題についてはさまざまな議論があります。ただ、私たちの住む宇宙にも歴史があり、その中で発展があったことだけは確かなことです。原始の宇宙では高密度、高温で存在するのは素粒子という状態でした。膨張するなかで温度が下がり素粒子同士の結合が始まるなどの仮定を経て、原子が誕生するようになり、次第に原始的な恒星、銀河というのが生じてくるようになります。恒星において核融合反応を繰り返しヘリウムが生成し、寿命を迎えた星は超新星爆発をして物質を宇宙に放散していきます。宇宙に放散した物質を基礎にして新たな星が宇宙に誕生します。こういったことを、繰り返しながらさまざまな物質が宇宙に生まれていきます。こうして私たちの住んでいる宇宙の形が出来上がっていきます。

 人間の身体から宇宙に至るまで物質は全て生成、発展、消滅の過程にあります。

 次に対立物の相互浸透について。

 物質の運動は、相容れない対立した要素がひとつの事象の中で相互に働きかけあい浸透しあうことによって成り立っています。身近で分かりやすい例が、やはり人間、そのほか生物の身体です。生まれる(生成)ということと死ぬ(消滅)ということとはまるで相容れない要素です。しかし、実際のところ人間など多細胞生物は身体の中で生まれるということと死ぬということとが絶えず行なわれています。私がいまこうしてブログの記事を執筆している現在、私の身体を構成する細胞レベルではやはり細胞が生まれながら同時に死ぬ細胞があり、入れ替わっています。だからこそ、私が私自身としての生命活動を維持できるわけです。まさに、生まれる(生成)と死ぬ(消滅)が私の身体の中で相互に浸透しあっているのです。細胞レベルまで考えれば、私は、生まれると同時に死んでいっているのです。これが、止まったら新陳代謝がないということですからね。


 それではまたまた、視点をユニバースに広げてみましょう。

 人間の寿命というのを基準にするととてつもなく気の遠い時間にはなりますが、何百億年という宇宙の歴史のなかでは何十万年というのはそれほどの時間ではありません。そう考えたとき、私たちの住む宇宙においては、絶えず星が生まれては死んでいっています。死んだ星は死ぬ瞬間に超新星爆発という形で星間物質を放出して新たな星を作る礎を築きます。こうした事柄は、宇宙のいろいろなところで絶えず発生しています。ビッグバン以降、私たちの住む宇宙のなかでは星の誕生と死ということとが絶えず生じていています。宇宙全体という大きな枠組みのなかで、生まれる(生成)、死ぬ(消滅)という相容れないことが絶えずお互いに関係しあい、浸透しています。宇宙の歴史はこうして作られています。私たちの住んでいる宇宙の姿は、星の誕生と死というのが大きな枠組みのなかで絶えず起きているからこそ存在しています。

 このようにして考えると、弁証法というものの見方は、決して特殊な認識の仕方ではなくもはや常識的認識の仕方です。

 マルクス、エンゲルスの少し前の時代にヘーゲルという哲学者が弁証法という認識論を再びヨーロッパに取り上げるようになりました。この背景には、生物学の研究が進んでいったことがあります。細胞というものを発見し、細胞というのが絶えず分裂して、生まれて死んでいっている、こういう新陳代謝によって生命体の活動が維持されていることが解明されるようになって行きました。こういう時代背景があって弁証法という認識の仕方が自然科学において再び重要視されるようになりました。

 ヘーゲル、マルクス、エンゲルスが生きていた時代より現在の科学水準はもっと発展しています。今では、宇宙にも歴史があることが解明されています。科学的社会主義の認識論のなかの弁証法というのは、科学の発展が背景にあり、今となっては科学的社会主義者でなくとも、科学的なものの見方をすれば、結局弁証法のものの見方をせざるを得ないところまで科学が発展しています。

 今後も自然科学の発展は弁証法を豊かにしますし、その帰結として科学的社会主義の世界観は発展して豊かになっていきます。

 科学的社会主義と自然科学は、縁がないどころか極めて縁が深く、親和性が高いのです。蛇足ですが、日本共産党中央委員会委員長、議長を歴任して現在党中央委員会付属社会科学研究所所長を務めている不破哲三さんの出身学部が理学部であることは、決して偶然とはいえないと私は考えています。

 一般法則論者と名乗る御仁よ、科学的社会主義と自然科学は縁がないという根拠のない言いがかりはやめていただきたいものです。

 一般法則論者は、神という人間の創造の産物を「存在する」ということを証明すると証して入れ子構造の図解が云々と言葉遊びに終始して、このような言葉遊びをすれば人間の創造の産物である神の存在を証明できると思い込んでいます。なんという哀れなことでしょうか。

 それにしても一般法則論者のブログを拝見してすぐに分かったことはこのブログの管理人はどこぞの反動的俗物だということです。貧乏人根性として列記しているものを見れば、「あればあるだけ使ってしまう→政治家だとバラマキ福祉に走る」と書いてある。だいたい、貧困を防ぐために必要な予算を組み立てて施策を講じることをバラマキ福祉という見方しかできないとは、もはや笑うしかありません。
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/e/fbd7889fe9ec3304a743d9f1df5a63c5
 他にも、「・全ての金持ちは悪いことをして金を稼いでいるので高い税金をかけてその富を取り上げるのは正義に叶うと勝手に決めている/こう主張する人に賛同する」と累進課税制度の意義を曲解して、大資本や大資産家に社会的責任を果たすべきことを放棄する手助けをして貧困拡大に、一般法則論者は奉仕しているのであります。それから、貧乏人根性としてこの御仁が列挙していることは、ぎりぎりの生活状態ではしたくてもできないことです。教養を高めることを含めた最低生計費に収入が満たなければ、自己啓発なるものに投資できないし、将来に備えた貯蓄をすることもできません。そういったことを、まるで考慮しないで貧乏人根性としてあれこれのことを列挙して悪罵するのは、「自己責任」論を振りまく新自由主義と通じるものがあります。

 科学的社会主義に的外れな攻撃を仕掛けてきた
一般法則論者と名乗る御仁が信じる神は、独占資本の利益に奉仕して貧困拡大をもたらすために存在している神であります。

 ならば、この場であえて申し上げましょう。

 大資本、大資産家の利益ばかりに奉仕して
 貧困拡大に奉仕する神なら
 こんな神は殺すにかぎる!!

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平和へ三つの決意 終戦記念日 志位委員長が表明

2009年08月16日 21時51分53秒 | JCPの活動、国民運動、国内の政治・経済等
転載元:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-08-16/2009081601_01_1.html



反戦・平和の87年と結びついた
日本共産党の名 高く掲げ
平和へ三つの決意
終戦記念日 志位委員長が表明




 日本共産党の志位和夫委員長は15日、終戦64周年の記念日にあたって東京・吉祥寺駅前で演説し、“平和への三つの決意”を表明しました。

 志位氏は冒頭、日本の侵略戦争で犠牲になったアジアの2000万以上、日本の310万の人々に哀悼の意を表明しました。

侵略美化許さない
 その上でのべた決意の第一は、日本の侵略戦争を美化、正当化する流れを許さないということです。

 志位氏は、今年もまた靖国神社に2人の首相経験者や現職閣僚を含む自民・民主の国会議員が多数参拝したことを批判しました。「戦前は侵略戦争のシンボルとなり、いまも歴史をゆがめる靖国への参拝は、責任ある政治家がやってはならないことです」と力説。過ちと向きあい、二度と繰り返さない立場にたってこそ、アジア諸国民と本当の友情をつくれると訴えました。

憲法9条守り抜く
 第二は、憲法9条を守り抜くことです。

 志位氏は、9条には「二度と侵略国家にならない」「日本こそが世界平和のさきがけになる」という決意が込められているとのべ、米国によるアフガニスタン戦争への支援である自衛隊のインド洋派兵は、「ただちに中止、撤兵すべき」だと強調。「戦争ではテロはなくせません。9条をもつ日本が外交的解決の先頭に立つことが本当の平和への貢献です」と訴えました。

核兵器のない世界
 第三は、核兵器のない世界をつくることです。

 志位氏は、核兵器廃絶をめぐるオバマ米大統領との書簡のやりとりを報告。「こうした世界の変化をつくった根本の力は、世界の世論と運動、とりわけ被爆者をはじめとする日本国民の平和を願う運動の力です」と訴えました。

 この問題では、米国の「核の傘」―核抑止力への依存を求める自公政権を厳しく批判。「核兵器を使ったらどんな地獄がうまれるか、誰よりも知っているのが日本国民です。その政府が、核使用を前提とした脅しの理論―核抑止にしがみつくのは許されない」と指摘しました。

 日米核密約を廃棄し、名実ともに「非核の日本」になってこそ、日本が世界に核兵器廃絶を訴えるイニシアチブを発揮できると力説しました。

 最後に、反戦・平和と結びついた日本共産党の党名について訴えた志位氏。他のすべての政党が戦後、名前を変えたのは、侵略戦争に加担したためだとのべ、「日本共産党は侵略戦争に反対し、『国賊』『非国民』といわれ弾圧されました。たくさんの先輩が犠牲になったが、平和の旗を命がけで守り抜いたのが、日本共産党です。日本共産党の名前は反戦・平和の87年の伝統と結びついた名前であり、同時に資本主義を乗り越える未来社会へとすすむ理想を刻んだ名前です」と力説しました。総選挙での絶大な支持を訴えると、大きな拍手と「頑張れ」の声援が起こりました。



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追記
 手抜き記事で(´`)>〃スミマセンネェ

総選挙にむけて日本共産党TVCM発表

2009年08月15日 18時18分49秒 | JCPの活動、国民運動、国内の政治・経済等
 日本共産党市田書記局長が総選挙へ向けたTVCMのことで記者会見を行ないました。
テレビCMを発表 市田書記局長が会見(09.8.13)

 「国民が主人公」編をご覧ください。
日本共産党CM「国民が主人公」編(09.8.13)*


 手抜き記事で(-"-;)メンボクナイ

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もう、出て来るなよといいたい。

2009年08月15日 00時28分00秒 | JCPの活動、国民運動、国内の政治・経済等
撤退方針撤回の幸福実現党は候補者削減か - 政治ニュース : nikkansports.com

 北朝鮮をネタに排外主義を煽ることと「敵基地先制攻撃」論なる侵略者の論理を振り回すことしか能のない、幸福実現党という名前の真実の姿=「戦争実現党」が一時、衆議院選挙から撤退する方針を決めたそうですが、候補者から異論が出たために、候補者を削減する形で総選挙を行なうことになりました。小選挙区で候補者を擁立しないところでは保守系候補を推薦するとか……。

 なるほど、自らの党のなかから直接国会議員になる人物がいなかったとしてもそうう方たちで自分達の影響力を政界につくろうという魂胆がよくわかります。

 公権力へ侵食しようというカルト教団、カルト政党としてのおぞましさが全開です。

 こういう勢力が公権力に侵食することがあってはなりません。

 自公政治を総選挙で政権の座から退場させることは、公明党を媒介にして公権力に侵食している創価学会の策動を粉砕することにつながりえます。

 公明党・創価学会というカルト政党・カルト教団の野望を粉砕することができても、幸福実現党というカルト政党が勢力を伸張させるようでは困ります。

 このたびの総選挙で、政権の座から自民党とともに公明党を引きずり落とし、カルト教団の公権力への影響力を取り除く契機にするべきときです。幸福実現党の勢力を伸張させるようなことは決してあってはいけません。

 カルト教団はファシズムの一形態です。カルト教団は民主主義を草の根から破壊します。いま、日本社会は民主主義を発展させていくことができるか、民主主義破壊の方向へ進んでいくかの分岐点です。

 民主主義の発展のためにカルト教団を人民の連帯と運動で包囲して孤立させていき、野放しにさせないようにすることが大切です。


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