愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

日本が侵略戦争で行ったことに関して

2008年08月21日 02時07分11秒 | 戦争のない世界をめざす

 そもそも、一体かつて日本軍がアジア諸国への侵略戦争の際になにをしていったのか…この蛮行に関して当事者の告白を積み上げることにより、本質に迫っていこうという目的があった。もちろん、事実を風化させないために記録として残しておきたかった。新聞では紙がすぐに痛んでしまうということもある。そのために、ブログ管理人である私自身の論評などを一切加えないで取材記事をそのままブログに書き写すという作業を、私はしてきた。見る人にとってはもしかしたら退屈だったかもしれない。ただし、趣旨に関してはご理解願いたい。

 大本のしんぶん赤旗では、取材を受けた方の写真が載っている。信じがたいまでの蛮行を繰り返した当時の日本軍ではあったが、一人一人の兵士が極悪人であったか、狂人であったかというとそうではない、一人一人は普通の人であった。取材に応じてくださった方は、おそらく戦争が終わって日本に帰国して所帯を持ったあとは普通の家庭の夫であり父親であった。また、普通のおじいちゃんであった。誰がどう見ても普通の人としか思えない、実際に普通の人であったが、そういう人がしんぶん赤旗の取材で語ったようなことをした。これが侵略軍の本質というものであった。

 侵略戦争を引き起こす政府の本質とその軍隊というものがどのような本質を持っていたかということを私たちは正面から受け止めなければいけない。私たちは、戦争の当事者の証言を聞くことのできる最後の世代である。


三光作戦⑤

2008年08月21日 01時51分03秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月15日付


 日本軍に協力していた村の役人がいいました。「生活が苦しいだろう。労働に行けばお金がもらえる」―。すべて、うそでした。

 1944年9月。14歳だった趙宗仁さん(78)は、中国・北京市郊外の昌平県に行けば、仕事があるとだまされました。7人家族の農家。貧しい生活でした。

 昌平県に着くと、200人の中国人が集められていました。あとで聞いた話では、村ごとに二人ずつつれてくるように割り当てられていたといいます。

 その翌日、趙さんら149人の中国人は天津の港・塘沽へ汽車で移動。到着後、日本の軍隊に引き渡されました。着ていた服を没収され、黒色の綿入りの作業服と綿入りの掛け布団一枚、靴一足を渡されました。

 全員が倉庫のような木造の建物に入れられました。真ん中に通路、両脇につながったベッドが並んでいました。「二人背中合わせで寝返りを打つことができなかった。」建物は鉄条網で囲まれ、その外側も電流の通った金網が張られていました。

 1週間ほどたってから、船に乗せられました。船内で白地に黒い文字で「熊谷組」と書かれた布切れを服に縫い付け、渡されました。

 山口県下関に着いてから福島県で1ヶ月、長野県で3ヶ月、北海道で終戦まで奴隷のように働かされました。

 長野県下伊那郡にあった熊谷組の平岡事業所でのことです。日本人がまだ息のある重病の仲間の体を縛り、木箱に入れて火葬したのを目撃。「とてもつらくなって逃げようと思ったけど、行く当てもないのであきらめた」

 終戦までの約1年、発電所の建設や鉱山で鉱物を掘りました。休日はなく、賃金も一切、支払われていません。
 
 趙さんは、「労工協会とも日本の会社とも、労働協約を結んだことはない。日本での仕事の説明を受けたこともない」と証言します。

 趙さんが連れて行かれた華北労北工協会は、日本政府の政策に基づき、華北での労働者の募集、供給、あっせんを行う機関として設置されました。しかし、実態は「募集」などとは程遠く、捕虜や日本軍が捕まえた農民、趙さんのように行政機関によって連行された者が送り込まれていました。

 政府資料によると、中国人約4万人が日本に強制連行され、35企業の135事業所で過酷な労働を強いられました。うち約7千人が命を落としたといいます。政府はいまだに謝罪も補償もしていません。

 来日した趙さんはいいます。「日本政府と企業に人間でない扱いを受けた。歴史の問題として、日本に課せられた問題として解決のために尽力してほしい」


(「三光作戦」のシリーズはおわります。本吉真希が担当しました)