愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

三光作戦②

2008年08月17日 23時00分38秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月12日付


 「ここに来た八路軍(中国共産党の軍隊)は何人だ!」「どんな武器を持っていた!」「どっちへ行ったか!」

 突如、一人の中国人男性に始まった拷問。日本軍の命令は絶対服従でした。通信隊の無線手だった仙波藤吾さん(86)=さいたま市=は、ちゅうちょしながら発電機の転把(てんぱ=ハンドル)を回しました。

 後ろ手でいすに座らされ、両手を発電機のコードで縛られた男性。高電圧の電気が流れると「ヴッ」と声にもならない声を出し、いすごと倒れました。下士官が連れてきた男性は見るからに農民でした。

 「ボロボロの服着てね。破れた布靴は土ぼこりにまみれて。いままさに農作業やってたって感じで。そうういう人たちをたたきながら、引っ張ってくるんです」。兵士にとって「連行=戦果=軍の功労者」になると仙波さんはいいます。

 気を失い、5-10分後、目を覚ました農民に下士官はたたく、けるなどして同じ質問を浴びせました。農民は「わかりません。知りません。」というだけ。

 「仙波、(転把を)強く回せ!」。農民の体に再び電気が流れました。意識が戻った農民の顔は青く、いすに座ることもできません。無言のまま、胸を突き出してきました。

 「生きて帰る望みはないと思ったのでしょう。最後の抵抗は『殺してくれ』という無言の意思表示だった」

 下士官はフラフラになった農民を外に連れ出しました。夕方、仙波さんが目にしたのは、兵舎の片隅に横たわる血にぬれた農民の体でした。度胸をつけるため初年兵に課す、人体氏刺突訓練の対象にされたのだろうと仙波さんはいいます。

 「人様に後ろ指をさされるなよ」「まっとうに生きるんだぞ」―。母の口癖でした。

 「この二つの言葉さえ守れなかった。情けない限りです。」そう話し、食糧を奪った罪を告白しました。

 無線班が過疎のに着いたときです。食材をすべてを徴発する命令が出ました。無線手の任務は通常、後方の通信所から前線の各中隊への連絡や伝達事項の確認です。略奪行為は初めてのことでした。要領も得ないまま、重い軍靴で粗末な家の戸をけ破りました。

 中には、病に伏した老人と看病する老母しかいませんでした。そんな二人から、食糧らしきものが包まれた小さな布をむしりとりました。老母は拝むように手を合わせ「持っていかないで」と懇願しました。

 しかし、仙波さんは「『してやったり』と戦果を得た誇らしさしか感じなかった…」

 約2年間の従軍で犯した拷問と食糧略奪は一度だけでした。それでも仙波さんは悔います。「孫の世代に絶対こんなことはさせたくない」


(つづく)

三光作戦①

2008年08月17日 21時00分02秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月11日付


 ことしも「8・15」がやってきます。戦後63年がたったいまも世界ではたえず、平和憲法を持つ日本では、自民・公明政権がアメリカの戦争に参加していくたくらみを強めています。国内外で筆舌につくしがたい犠牲を強いたあの侵略戦争はどういうものだったのか、今年も、さまざまな角度から、その実相に迫ります。

 人の背丈ほどに伸びた高粱の畑の中。ニコッと笑いかけてきた子どもの顔がいまでも忘れられません。1歳をすぎたばかりと思われる赤ちゃんでした。

 赤ちゃんの傍らには脇腹から血を流した母親が倒れていました。赤ん坊は血に染まったおっぱいを小さな手でなで回していました。母の手はしっかりと赤ん坊の足をつかんでいました。

 「肝がゾッとした。おじげ付いたが嫌な気持ちを吹っ切ってその場を離れた」。坂倉清さん(87)=千葉市=は中国・山東省での罪業を振り返りました。

 「銃ではあったけど、自分の手でやった(殺した)初めての人だった」

 1941年6月、4ヶ月の初年歩兵訓練を終えて、初めて実戦に出たときのことでした。当時21歳。作戦から帰ったあと、頭に浮かんだのは出兵のとき小さかった妹の顔でした。
 
 残虐行為は毎日のように繰り返されました。心は次第にまひしていきました。

 同年8月初旬、小さなでのことです。小隊長が農民らしき5人の中国人を「池に放り込め!」と命令。自ら先頭にいた男をけ落としました。

 「はい上がってくるやつは踏みつぶせ!」小隊長は怒鳴りました。そして、池の周りに兵士たちが群がり、銃床で突いたり、腰の剣を抜いて振り下ろしました。坂倉さんは民家から持ち出したてんびん棒ではい上がってくる男たちを突きまくりました。

 「兵隊は上官の前で点数を稼ぎたいんです。あの頃には初めて人を殺したときのような気持ちは全くなかった」

 家屋の焼き打ちや略奪、拷問など、いわゆる三光作戦は日常茶飯事でした。脱穀したばかりの高粱を燃していたとき、家からおじいさんが出てきました。

 「燃やすな!」と身振り手振りで訴える労人に「撃ち殺すぞ!」と銃を向けた坂倉さん。

 「憎々しい顔をしていてね。自分も百姓出身だから、火をつけながら『なんでそんなことすんだ』と思った。でもやっぱり、みんなやっていると『負けてはいられない』と思ってやってしまった。大勢でやる心理は怖い」

 坂倉さんを「日本鬼子(リーペンクイズ)」に仕立て上げたもの―。自身は幼少時の時の軍国主義教育と「殴る、ける」が常態化していた軍隊教育だったといいます。

 子どもたちに伝えたいことがあります。

 「戦争につながる火種が出たら、小さくてもすぐに消してほしい。私のようにだまされないでほしい。『害』とは被害だけでなく、加害もある。日本の加害行為を知ってほしい。戦争をとめるためには戦争の真実を知らなければいけない」


 (本田真希)

 つづく



カテゴリー:「侵略戦争でなにが行われたか」作成にあたって

2008年08月17日 19時48分30秒 | 雑記帳
 現在、反動支配層が日本国憲法第9条を改悪して日本を戦争のできる国にしようと策動している。

 反動支配層から流布される「南京虐殺」否定など歴史を捏造して、悪くすると侵略戦争美化論まで流布される。

 このような妄言、策謀に対しては、事実に勝る反論はないであろう。そこで、私は、「侵略戦争でなにが行われたか」というカテゴリーには、本文中にブログ管理人の論評などを加えず、しんぶん赤旗が戦地に赴いたもと兵士などの証言を連載した記事をここに掲載する。

 上記の趣旨は、反動支配層に対する反論であると同時に歴史の事実を風化させないために資料を残すというものでもある。