愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

三光作戦⑤

2008年08月21日 01時51分03秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月15日付


 日本軍に協力していた村の役人がいいました。「生活が苦しいだろう。労働に行けばお金がもらえる」―。すべて、うそでした。

 1944年9月。14歳だった趙宗仁さん(78)は、中国・北京市郊外の昌平県に行けば、仕事があるとだまされました。7人家族の農家。貧しい生活でした。

 昌平県に着くと、200人の中国人が集められていました。あとで聞いた話では、村ごとに二人ずつつれてくるように割り当てられていたといいます。

 その翌日、趙さんら149人の中国人は天津の港・塘沽へ汽車で移動。到着後、日本の軍隊に引き渡されました。着ていた服を没収され、黒色の綿入りの作業服と綿入りの掛け布団一枚、靴一足を渡されました。

 全員が倉庫のような木造の建物に入れられました。真ん中に通路、両脇につながったベッドが並んでいました。「二人背中合わせで寝返りを打つことができなかった。」建物は鉄条網で囲まれ、その外側も電流の通った金網が張られていました。

 1週間ほどたってから、船に乗せられました。船内で白地に黒い文字で「熊谷組」と書かれた布切れを服に縫い付け、渡されました。

 山口県下関に着いてから福島県で1ヶ月、長野県で3ヶ月、北海道で終戦まで奴隷のように働かされました。

 長野県下伊那郡にあった熊谷組の平岡事業所でのことです。日本人がまだ息のある重病の仲間の体を縛り、木箱に入れて火葬したのを目撃。「とてもつらくなって逃げようと思ったけど、行く当てもないのであきらめた」

 終戦までの約1年、発電所の建設や鉱山で鉱物を掘りました。休日はなく、賃金も一切、支払われていません。
 
 趙さんは、「労工協会とも日本の会社とも、労働協約を結んだことはない。日本での仕事の説明を受けたこともない」と証言します。

 趙さんが連れて行かれた華北労北工協会は、日本政府の政策に基づき、華北での労働者の募集、供給、あっせんを行う機関として設置されました。しかし、実態は「募集」などとは程遠く、捕虜や日本軍が捕まえた農民、趙さんのように行政機関によって連行された者が送り込まれていました。

 政府資料によると、中国人約4万人が日本に強制連行され、35企業の135事業所で過酷な労働を強いられました。うち約7千人が命を落としたといいます。政府はいまだに謝罪も補償もしていません。

 来日した趙さんはいいます。「日本政府と企業に人間でない扱いを受けた。歴史の問題として、日本に課せられた問題として解決のために尽力してほしい」


(「三光作戦」のシリーズはおわります。本吉真希が担当しました)

三光作戦④

2008年08月19日 02時22分45秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月14日付


 八路軍(中国共産党の軍隊)の通信兵だった王子安さん(81)=中国・山東省=は、1944年9月ごろ、同省諸城県内を退却中、日本軍に捕まりました。仲間4人で堀に逃げ込みましたが、銃を突き付けられ、捕虜になりました。

 十数人の日本兵に散々殴られたあと、日本軍の拠点へ20キロほど歩かされました。縄で後ろ手に縛られた手は、はれ上がりました。

 
 軍の拠点に6日間拘留されました。2日間の尋問を受けました。「本当のことをいえ!」。日本兵は王さんに刀を突き付け、殴りました。

 その後、諸城県にある日本軍警察総所に送付されました。かいらい政府の場所だといいます。

 木製の牢(ろう)に、4カ月余り監禁されました。鉄のチェーンが付いた足かせをはめられました。服は脱がされ、下着だけ。「ほとんど裸に近かった」

 氷点下14-15度。「凍傷になって皮膚が腐っても治療してくれなかった」。食事は数日に一回。トウモロコシで作ったバンのようなものが少し。看守に頼めば井戸水がもらえましたが、飲める代物ではありませんでした。

 一人が栄養失調と凍傷で死にました。さらに一人が半身不随になり、亡くなりました。もう一人もどこかへ連れて行かれました。「残ったのは私だけ。それでも、日本に連れて行かれるなんて知らなかったから、まだ希望はあると思っていた」

 45年1月ごろ、同省の青島へ連行されました。大きな倉庫のような所に約千人の中国人が収容されていました。王さんは建物の外に「華北労工房」の看板がかかっているのを見ました。監視役は日本軍の将兵でした。

 日本軍は逃亡を図った中国人を懲罰にかけました。「水の牢屋に入れられた」。20平方メートルほどの広さに深さ50センチくらいの水をためた部屋。「冬だと水は凍る」。一日中、入れられた人もいました。

 2月中旬ごろでした。突然、船に乗れとの命令。説明は一切ありません。船の中で日本行きのうわさを聞きました。「絶望の思いだった。もう逃げ出すこともできない。家に帰る希望も消えたと思った」

 戦争が終わって3カ月後の11月。やっと帰国できました。「母と対面したとき、母もうれし泣きしていた。私は『生きて帰ってきたのだから泣かないで』と声をかけた」

 王さんは北海道・神威の炭鉱で働かされました。1日12時間、昼と夜との二交代制。中国人労働者391人中150人が犠牲になりました。

 強制連行した日本政府と強制労働を強いた企業に被害の救済を求めて来日した王さん。63年前のことに話がおよぶと目から涙があふれました。


(つづく)

三光作戦③

2008年08月18日 01時44分21秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月13日付


 「なんと無情なことか、彼らに土下座して謝っても足りない」

 今年5月、地域の年金者組合などが発行した戦争体験の文集に、そう記した和田三郎さん(84)=名古屋市=。1944年1月に中国東北部の満州に渡ってから、湖南省衡陽で終戦を迎えるまでの徴発行為の告白をしています。

 和田さんは後方支援の防空部隊として日本軍に従軍しました。補給はほとんどなく、現地で食糧を調達することは日常茶飯事でした。朝の点呼がすむと、兵隊4-5人が一組となって徴発に出ました。

 朝、中国の農民たちは、白米をてんびんに担いで往来しました。町で現金に換えたり、市場で砂糖や塩と物々交換するためでした。

 「曽野途中を待ち伏せて分捕るわけだ。集団で襲う略奪だ」。使うのは機関砲や高射砲を載せる防空隊の自動車。道の脇に車を寄せ、運転手と助手は車内で、残りの兵士は荷台で待ち伏せました。有無をいわせず、奪った米を荷台に載せ、走り去りました。

 「シーサン(先生)、シーセン(先生)」。そういって農民たちは後を追いかけましたが、その姿は見る見る小さくなりました。

 「日本軍に歯向かうことなんてできない。尋常な農民はただ『堪忍してほしい』って表情してた」。遠くを見つめて話す和田さん。「一般市民は何の罪もない人たち。自分の生活のためてんびんを担いできただけのこと。それを略奪したんだもの…」

 徴発はほかにもありました。「野菜組」は各兵士が携帯する1.5メートル四方の天幕を持って畑に行きます。「イモ、菜っ葉、大根。口に入るものは何でも捕った」。天幕を袋代わりに放り込みました。

 「魚の組」は魚が群れている川の中に銃弾を撃ち込み、衝撃で浮いてくるのを手づかみで捕りました。

 「犬の組」は銃を後ろ手に隠し持ち、どんな犬でも撃ちました。炊事場の裏は犬の残骸(ざんがい)が山を成していました。

 白昼、民家に押し入り、食糧などを奪うこともしました。

 「よその地行って土足で上がって、目ぼしいものを何でも捕ってくるなんて、そんな無茶なことはない。徴発なんて日本軍の勝手ないい分。人間として許されないこと」

 望郷の念は常にありました。「同じ死ぬなら、一歩でも内地の土を踏んでから死にたい」と。上官の制裁に耐え切れず、首をつる初年兵もいました。家族には「戦病死」と告げられました。「"たたかって病で死んだ"なんて…。戦争ほど惨めなものはないよ」


(つづく)

三光作戦②

2008年08月17日 23時00分38秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月12日付


 「ここに来た八路軍(中国共産党の軍隊)は何人だ!」「どんな武器を持っていた!」「どっちへ行ったか!」

 突如、一人の中国人男性に始まった拷問。日本軍の命令は絶対服従でした。通信隊の無線手だった仙波藤吾さん(86)=さいたま市=は、ちゅうちょしながら発電機の転把(てんぱ=ハンドル)を回しました。

 後ろ手でいすに座らされ、両手を発電機のコードで縛られた男性。高電圧の電気が流れると「ヴッ」と声にもならない声を出し、いすごと倒れました。下士官が連れてきた男性は見るからに農民でした。

 「ボロボロの服着てね。破れた布靴は土ぼこりにまみれて。いままさに農作業やってたって感じで。そうういう人たちをたたきながら、引っ張ってくるんです」。兵士にとって「連行=戦果=軍の功労者」になると仙波さんはいいます。

 気を失い、5-10分後、目を覚ました農民に下士官はたたく、けるなどして同じ質問を浴びせました。農民は「わかりません。知りません。」というだけ。

 「仙波、(転把を)強く回せ!」。農民の体に再び電気が流れました。意識が戻った農民の顔は青く、いすに座ることもできません。無言のまま、胸を突き出してきました。

 「生きて帰る望みはないと思ったのでしょう。最後の抵抗は『殺してくれ』という無言の意思表示だった」

 下士官はフラフラになった農民を外に連れ出しました。夕方、仙波さんが目にしたのは、兵舎の片隅に横たわる血にぬれた農民の体でした。度胸をつけるため初年兵に課す、人体氏刺突訓練の対象にされたのだろうと仙波さんはいいます。

 「人様に後ろ指をさされるなよ」「まっとうに生きるんだぞ」―。母の口癖でした。

 「この二つの言葉さえ守れなかった。情けない限りです。」そう話し、食糧を奪った罪を告白しました。

 無線班が過疎のに着いたときです。食材をすべてを徴発する命令が出ました。無線手の任務は通常、後方の通信所から前線の各中隊への連絡や伝達事項の確認です。略奪行為は初めてのことでした。要領も得ないまま、重い軍靴で粗末な家の戸をけ破りました。

 中には、病に伏した老人と看病する老母しかいませんでした。そんな二人から、食糧らしきものが包まれた小さな布をむしりとりました。老母は拝むように手を合わせ「持っていかないで」と懇願しました。

 しかし、仙波さんは「『してやったり』と戦果を得た誇らしさしか感じなかった…」

 約2年間の従軍で犯した拷問と食糧略奪は一度だけでした。それでも仙波さんは悔います。「孫の世代に絶対こんなことはさせたくない」


(つづく)

三光作戦①

2008年08月17日 21時00分02秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月11日付


 ことしも「8・15」がやってきます。戦後63年がたったいまも世界ではたえず、平和憲法を持つ日本では、自民・公明政権がアメリカの戦争に参加していくたくらみを強めています。国内外で筆舌につくしがたい犠牲を強いたあの侵略戦争はどういうものだったのか、今年も、さまざまな角度から、その実相に迫ります。

 人の背丈ほどに伸びた高粱の畑の中。ニコッと笑いかけてきた子どもの顔がいまでも忘れられません。1歳をすぎたばかりと思われる赤ちゃんでした。

 赤ちゃんの傍らには脇腹から血を流した母親が倒れていました。赤ん坊は血に染まったおっぱいを小さな手でなで回していました。母の手はしっかりと赤ん坊の足をつかんでいました。

 「肝がゾッとした。おじげ付いたが嫌な気持ちを吹っ切ってその場を離れた」。坂倉清さん(87)=千葉市=は中国・山東省での罪業を振り返りました。

 「銃ではあったけど、自分の手でやった(殺した)初めての人だった」

 1941年6月、4ヶ月の初年歩兵訓練を終えて、初めて実戦に出たときのことでした。当時21歳。作戦から帰ったあと、頭に浮かんだのは出兵のとき小さかった妹の顔でした。
 
 残虐行為は毎日のように繰り返されました。心は次第にまひしていきました。

 同年8月初旬、小さなでのことです。小隊長が農民らしき5人の中国人を「池に放り込め!」と命令。自ら先頭にいた男をけ落としました。

 「はい上がってくるやつは踏みつぶせ!」小隊長は怒鳴りました。そして、池の周りに兵士たちが群がり、銃床で突いたり、腰の剣を抜いて振り下ろしました。坂倉さんは民家から持ち出したてんびん棒ではい上がってくる男たちを突きまくりました。

 「兵隊は上官の前で点数を稼ぎたいんです。あの頃には初めて人を殺したときのような気持ちは全くなかった」

 家屋の焼き打ちや略奪、拷問など、いわゆる三光作戦は日常茶飯事でした。脱穀したばかりの高粱を燃していたとき、家からおじいさんが出てきました。

 「燃やすな!」と身振り手振りで訴える労人に「撃ち殺すぞ!」と銃を向けた坂倉さん。

 「憎々しい顔をしていてね。自分も百姓出身だから、火をつけながら『なんでそんなことすんだ』と思った。でもやっぱり、みんなやっていると『負けてはいられない』と思ってやってしまった。大勢でやる心理は怖い」

 坂倉さんを「日本鬼子(リーペンクイズ)」に仕立て上げたもの―。自身は幼少時の時の軍国主義教育と「殴る、ける」が常態化していた軍隊教育だったといいます。

 子どもたちに伝えたいことがあります。

 「戦争につながる火種が出たら、小さくてもすぐに消してほしい。私のようにだまされないでほしい。『害』とは被害だけでなく、加害もある。日本の加害行為を知ってほしい。戦争をとめるためには戦争の真実を知らなければいけない」


 (本田真希)

 つづく