愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

三光作戦③

2008年08月18日 01時44分21秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月13日付


 「なんと無情なことか、彼らに土下座して謝っても足りない」

 今年5月、地域の年金者組合などが発行した戦争体験の文集に、そう記した和田三郎さん(84)=名古屋市=。1944年1月に中国東北部の満州に渡ってから、湖南省衡陽で終戦を迎えるまでの徴発行為の告白をしています。

 和田さんは後方支援の防空部隊として日本軍に従軍しました。補給はほとんどなく、現地で食糧を調達することは日常茶飯事でした。朝の点呼がすむと、兵隊4-5人が一組となって徴発に出ました。

 朝、中国の農民たちは、白米をてんびんに担いで往来しました。町で現金に換えたり、市場で砂糖や塩と物々交換するためでした。

 「曽野途中を待ち伏せて分捕るわけだ。集団で襲う略奪だ」。使うのは機関砲や高射砲を載せる防空隊の自動車。道の脇に車を寄せ、運転手と助手は車内で、残りの兵士は荷台で待ち伏せました。有無をいわせず、奪った米を荷台に載せ、走り去りました。

 「シーサン(先生)、シーセン(先生)」。そういって農民たちは後を追いかけましたが、その姿は見る見る小さくなりました。

 「日本軍に歯向かうことなんてできない。尋常な農民はただ『堪忍してほしい』って表情してた」。遠くを見つめて話す和田さん。「一般市民は何の罪もない人たち。自分の生活のためてんびんを担いできただけのこと。それを略奪したんだもの…」

 徴発はほかにもありました。「野菜組」は各兵士が携帯する1.5メートル四方の天幕を持って畑に行きます。「イモ、菜っ葉、大根。口に入るものは何でも捕った」。天幕を袋代わりに放り込みました。

 「魚の組」は魚が群れている川の中に銃弾を撃ち込み、衝撃で浮いてくるのを手づかみで捕りました。

 「犬の組」は銃を後ろ手に隠し持ち、どんな犬でも撃ちました。炊事場の裏は犬の残骸(ざんがい)が山を成していました。

 白昼、民家に押し入り、食糧などを奪うこともしました。

 「よその地行って土足で上がって、目ぼしいものを何でも捕ってくるなんて、そんな無茶なことはない。徴発なんて日本軍の勝手ないい分。人間として許されないこと」

 望郷の念は常にありました。「同じ死ぬなら、一歩でも内地の土を踏んでから死にたい」と。上官の制裁に耐え切れず、首をつる初年兵もいました。家族には「戦病死」と告げられました。「"たたかって病で死んだ"なんて…。戦争ほど惨めなものはないよ」


(つづく)


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