愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

「科学的」を決めるのは誰か? そして唯物論と観念論の分岐点はどこにあるか?

2016年10月21日 10時11分54秒 | 科学的社会主義

 日本共産党は、党規約第2条において『党は、科学的社会主義を理論的な基礎とする。』と明記している。
http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Kiyaku/index.html

 そもそも「科学的」とは何だろうか?もっと言えば、「科学」とは何だろうか?私が持っている小学館刊行の『新選国語辞典』では、「科学」という言葉は以下の通りに説明されている。

『種々の事象を、一定の目的・方法・原理に従って、体系的に組み立てたもの。自然科学・社会科学・人文科学があるが、狭義には自然科学をいう』
 そして「科学的」は、以下の通りに説明されている。

『科学、特に自然科学の方法によるようす。実証的・合理的・体系的であるようす』

 以上のように考えれば、「科学」は、様々な事象に対する認識のあり方であり、「科学的」は様々な事象に対する認識の方法だと言えよう。従って、様々な事柄、あるいは人物の言動に対して「科学的」であるかどうかに関しては、特定の職業や属性の人々が決定づけるものではなくて実践と検証によって明らかになる。

 もし、様々な事象に対する認識について「科学的」だと言えるかどうかを自然科学に対しては物理学者や生物学者など各分野の自然科学の学者が決めるとするならば、社会科学については経済学者や政治学者など各分野の社会科学者が決めるとするならば、自然科学や社会科学を職業とするような学者以外は、誰も様々な事象について自然諸科学や社会諸科学の成果に基づいて検証することが不可能になってしまうのである。

 敢えて言おう。

「科学的」であるかどうかを決めるのは科学者だと考えている人々は、一種の主観的観念論者でありながら同時に、なし崩しの客観的観念論者であると。

 観念論の対義語として唯物論という言葉がある。観念論は世界の本源のを精神に求めて何らかの世界創造を認める考え方であり、唯物論は世界の本源を物質に求めて精神を物質の運動の反映とする考え方である。

 様々な事象に対する認識に関して「科学的」であるかどうかを「科学者が決める」と考えている人々は、世界の本源をあらゆる人間あるいは動物などの意識から独立した物質に求めるのではなくて精神に求めているのである。何故ならば、「科学的」であるかどうかを「科学者が決める」と思っている人々にとっては、世界は科学者の「認識」と呼ばれる心の動きから成り立っているのである。では、科学者が何人もいる問題についてはどうなのか。「科学的」であることを科学者が決めると考える人々にとっては、世界は、複数の科学者達の世界に対する共通の「認識」と呼ばれる共有の心の動きの束、または科学者達が共有する感覚の束によって成り立っているのである。だからこそ、「科学的」を決めるのを科学者だと考える人々は主観的観念論者にして、なし崩しの客観的観念論者だと言えるのである。

 100人いれば、100通りの感性や認識のレベルがある。それは、一般人のみならず自然諸科学や社会諸科学の学者についても同様である。従って、本質的には科学者であろうとなかろうと心の動きを共有することは不可能である。もし、共通の「認識」が成り立つとすれば、世界が意識とは独立した物質で成り立っていることが必要な前提条件になる。

 表題を『「科学的」を決めるのは誰か』と私は記したわけだが、以上のように考えれば、「科学的」をどのように考えるのかどうかは、彼あるいは彼女が唯物論者であるのか、それとも観念論者であるのかの決定づける。「科学的」と言えるかどうかをあれこれの職業や属性の人々によって決められるのではなくて客観的実在に対する実践と検証によって明らかになると考える人々は唯物論者である。対して「科学的」であるかどうかを科学者が決めると考える人々は観念論者である。


唯物論哲学は科学的なものの見方の基本です

2009年08月23日 21時48分44秒 | 科学的社会主義

物事の根本的な見かたを見に付けよう - 愛と情熱の革命戦記

 今回の記事は、記事の表題こそ違うものの前記事である上のリンク先の記事の続きです。

 古代ギリシャ時代、アリストテレスなどが生きている時代において哲学とは、自然科学、社会科学の総称でした。現在、物理学、化学、政治学、法律学などが全て古代ギリシャ時代には哲学と呼ばれていました。その後、科学の進歩に伴い、それぞれの分野の諸科学の発達が高度になりました。科学の発達の到達点が高度になるに従い、それぞれの独自性が高まり、自然科学や社会科学が研究対象にごとに独自性を高めていき、細分化していきました。こうして、哲学は、とくに近代以降は根本的なものの見方、思考と存在との関係を根本問題として探求する学問として存在するようになりました。

 哲学上の根本問題を解明したのは科学的社会主義の先達であるフリードリヒ・エンゲルスです。そのくだりを引用しましょう。


 すべての哲学の、とくに近代哲学の、大きな根本問題は思考と存在との関係に関する問題である。(エンゲルス著 フォイエルバッハ論 新日本文庫)

 世界の本源が一体なんなのか、世界の本源を思考(観念)に求めるのかそれとも思考と独立した客観的な存在(物質)に求めるのか、これが哲学上の根本問題として扱われています。世界の本源を思考(精神)に求め何らかの世界創造を認める思想が観念論です。存在(物質)を本源的に存在すると考え、思考を存在(物質)の運動の反映であると考えるのが唯物論です。唯物論と観念論の分かれ道はこれだけです。唯物論と観念論の分かれ道について考えるときに思考と存在との関係をどう考えるのかということ以外の事柄を持ち込むと混乱するだけです。

 よく、唯物論に対する観念論からの攻撃の一つとして、「唯物論は物質主義で人の心を軽んじる、無視する」「物質的、即物的利益ばかりを追求する」という類のものがあります。しかし、これと世界の本源を何に求めるのかということとは別個の問題です。

 通常、正常な人間であれば唯物論的なものの見方をしているはずです。以下の問いを記しておきましょう。

 ○あなたは、人間の精神活動(犬、猫などの動物の精神活動にも当てはまります)を脳の働きであることを認めますか?(あなたは、人間の精神活動には脳の助けを必要としますか?)

 ○あなたは、他人の存在を認めますか?

 ○あなたが生まれる前に、地球や宇宙があったことを認めますか?


 赤い字で記した上三つの問いには、普通の人は「はい(Yes)」と答えるのではないでしょうか。どのような人でも、自分の意識に関係なく存在する客観的な状況をふまえて物事を考えるのではないでしょうか。そういう意味では唯物論は常識的なものの見方です。

 観念論には、おおづかみな分類として、主観的観念論と客観的観念論とがあります。

 主観的観念論は、世界の存在を自分の精神、感覚の表象であると考えます。自分の精神と独立した客観的な物質を認めません。突き詰めて言えば、「パソコンが存在するのは、自分の精神のなかにパソコンがありこれが自身の外部に表象された」という考えに主観的観念論は行き着いていきます。

 客観的観念論では、自分自身の意識とは独立して存在する客観的物質の存在を認めます。ここの点では唯物論と共通しています。違いなんでしょうか。客観的観念論では世界の存在を絶対的な性身体の活動が展開したものと考えます。哲学では、ヘーゲル哲学がこれに当てはまります(ヘーゲル哲学では絶対理念の自己展開の姿が世界を創るとしています)。分かりやすい例では、宗教の世界観が客観的観念論に該当します。例えば、旧約聖書では、絶対的精神体である神が「光あれ!」と世界を創造した旨が記されています。
神、絶対理念の存在を取り除けば残るのは唯物論です。そういう意味では、首尾一貫性に欠けます。人間の社会的認識の発展段階で考えると客観的観念論は唯物論の前夜と考えることができます。

 さて、客観的観念論はともかくとして、主観的観念論でものを考える人が本当にいるのでしょうか、こういう疑問が出てくることが予想されます。むき出しの形で、という人はおそらくいないと考えられます。現実には、主観的観念論はあれこれの形をまとい変種として社会に現れてきます。


 ここで主観的観念論の変種をすべて網羅的に取り扱うことはしませんが、現在の日本で主観的観念論の変種としての現れてとしてみなさんが知っているものがあります。「自己責任」論という言葉はよく聞くのではないでしょうか。これは、現在日本社会のなかで振りまかれている主観的観念論の一つです。日本共産党に限らず、反貧困ネットワークなど貧困をなくしていく活動をしている人、現在貧困に陥っている人は必ずといっていいほどたとえば「貧困なのは努力が足りないからだ」というような一見もっともらしい体裁をもった、ときには悪意に満ちた誹謗・中傷に出くわします。よく考えてみると誰でも分かります。努力というのは、極めて主観的なものです。ですから、努力というを客観的に検証するのは極めて困難、不可能といって差し支えはありません。「自己責任」論は、客観的に検証不能な主観的なもの(例えば努力、がんばり)が、本人の置かれた状況をすべて作り出すという論理によって立ちます。ですから、「自己責任」論は非科学的な主観的観念論の最たるものです。

 「自己責任」論は、現在の日本において支配層の側から意図的に振りまかれた欺瞞に満ちた論理です。なぜ、そのようなものが振りまかれるのでしょうか。それは、人々が日本社会の構造的歪みを客観的検証しながら自分達の置かれた状況を理解しては困るからです。人民の生活苦の原因を彼あるいは彼女の主観的な要素である努力とか晩張り、あるいは心がけの問題に解消して、社会・政治の構造的歪みの問題に目を向けさせないように仕向けて人民を思想的に眠り込ませるための論理としては「自己責任」論は極めて好都合です。ですから、「自己責任」論がとくに小泉内閣の時期に新自由主義とともに大手を振って振りまかれ、少なくない人々が洪水のようにあるれるように流布される「自己責任」論にとらわれていきました。「NPOもやい」などへ相談しに行く人でも例外なく「自己責任」論の呪縛にとらわれているわけです。実際に、相談へかけこんだときの所持金が数十円しかないということが全国的に報告されたのは、まさに「自己責任」論の万円の深刻さを物語っていました。

 小泉内閣の時期と比べると現在では、さまざまな分野での運動の成果が実ったこともあり、貧困、「子どもの貧困」という問題がさまざまな人々によって認識させられるようになってきました。それでも、「自己責任」論を完全に打ち破ったとはいえません。油断大敵です。

 今後も財界・大資本の側からは人民の戦いを押さえ込むべく、さまざまな形で主観的観念論の変種をマスメディアなどを活用しながら総がかりで振りまいてきます。支配層の欺瞞を見抜き、思想的に眠り込まされて自分で自分の首を絞めないようにするためには科学的な世界観である唯物論を見に付けることはとても大切です。また、ある局面だけにとらわれて硬直的なものの見方に落ち込まないためには、世界を変化のなかで捉える弁証法という考え方の基本を身に付けておくことが大切です。

 欺瞞に満ちた反動的なイデオロギーに惑わされないように、多くの方に弁証法的唯物論(唯物弁証法)を学ぶことを私は願うものです。


終わり



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物事の根本的な見かたを見に付けよう

2009年08月20日 23時29分16秒 | 科学的社会主義
 今月の18日にみなさんもご存知のように衆議院総選挙の告示が行なわれました。今回の総選挙の後、民主党中心の政権が成立する可能性が高いといわれています。こういう認識は、私だけではなく、日本共産党中央委員会が都議会議員選挙の結果をふまえて持っている認識でもあります。

 世界を見渡せば、1823年のモンロー宣言以来アメリカ合衆国の裏庭と言われてきたラテンアメリカ諸国で、対米従属から対米自立への道を歩み、貧困克服の流れが大きく前進しています。ベネズエラやボリビア、ブラジルなどを見て分かるように、南米大陸はいまや革命大陸といっていいほどの変化を遂げています。また、アメリカのオバマ大統領がプラハでの演説で「核兵器のない世界」をめざすことを打ち出しました。私や党中央委員会の考えでは、アフガニスタンの問題や在日米軍基地の問題などから、アメリカは帝国主義国であるという認識です。その帝国主義国の大統領が広島や長崎に原子爆弾を落とした道義的責任をふまえながら「核兵器廃絶」を打ち出したことは世界史上画期的なことです。もちろん、アメリカの外交政策、安全保障政策などのなかに旧態依然として変わっていないところがありますが、大局的にはアメリカの社会も大きく変化しようとしています。

 日本はどうでしょうか。やはり、大企業、大資産家ばかりを優遇する政治からおさらばしたいという世論が渦巻いています。そりゃそうでしょう。20代の労働者の約半数は派遣など非正規雇用で人間らしい生活とは程遠い状況におかれ、親の代より豊かになれる見通しがない、将来設計の立てようがない若者が増えています。未来への希望をもてない人が社会全体に増えています。また、生まれた家がもともと貧しかったり、親が失業したことによって教育を受けることから排除される、あるいは医療保険、医療から排除されるなど貧困に苦しむ子ども達が増えています。「子どもの貧困」を根絶することが日本社会における第一級問題として上がっています。人民の生活にとって切実なことに対して、歴代政権、現行政権がなんの展望も示すことができないでいます。それは、現在の政府・政権が従来の枠組みにとらわれここから抜け出せないでいるからです。

 日本を含めて、世界はいま大きく変化しようとしています。月並みな言い方になりますが、私たちが生きている時代はまさに激動の時代というにふさわしい時期です。今後、いままでの10年が1年間にひとまとめにやってくるような局面に私たちは出会うことでしょう。

 そんな、時代において私たちが近視眼的なことにとらわれて考えを誤らないためには、根本的な世界観、ものの見方を身に付けることが大切です。

 世界の根源はなにか、物質と精神の関係はなどすぐに役立つとは言えないかもしれない哲学を学ぶことによって、さまざまな局面に一喜一憂しないで腰の据わったぶれないものの見方を身に付けることができます。

 いまの時代だからこそ私は、多くの人、特に若い人には物事の根本的な見方、世界観を身に付けていただきたいと心から願います。多くの人に、哲学、唯物論哲学を学ぶことをお勧めしたく思うしだいです。


つづく


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