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敬老の日に思う

2016-09-19 21:06:23 | シニアの暮らし-過去と今と
 敬老の日で町内会から紅白まんじゅうをいただく。敬老の祝意の印だが、この班はおそらく70%ぐらいの家庭が対象ではないだろうか。この種のものを食することがないので、味わうことはまんざらでもない。
 ぼくは普段通り、テニスをした。霧雨が続いてそのうち本降りになったが、とにかく90分を終えた。

 65歳以上人口が過去最高で3461人、総人口の27%を占める。改めて高齢化社会の急速な進行を実感する。
 64年に父が60歳で死去したが、早く逝ったと思いつつもその当時の平均寿命だった。当時の建築、土木等の業界は57歳定年だった。ぼくの生活舞台だった近海の漁師は、40代で息子に漁業を教えて譲ってともに漁業をしていた。そんな風景の中で年齢、あるいは老いることを感じ取っていた。

 年齢の、実年齢に対して社会的年齢とでもいうのは、時代とともに変化もする。

 15でねいやは嫁にゆき お里の便りも絶え果てた

 15歳で嫁にゆくということは、今ではありえないが明治期まではまれではなかったようだ。尋常小学校4年だった時代では都市部以外の子どもは大方は働き、はやくから大人にさせられていたのだ。
 この詩は、国民的歌として愛唱されている「赤とんぼ」で、三木露風によって大正10年に発表されてものだ。もっともこの3番の歌詞は教育的配慮からということで教科書には削除されている。

 村の渡しの船頭さんは 今年60のお爺さん
 年はとってもお舟漕ぐときは 元気いっぱい櫓がしなう
 ソレ ギッチラ ギlチチラ ギッチラコ 

 この歌は昭和17年に発表された竹内俊子による「船頭さん」である。川を渡し船で行き来していた頃、船頭の60歳というのは、今の何歳ぐらいをいうのだろう。「年はとってもお舟漕ぐときは元気いっぱい」とあるので、おそらく生業を終えた後の、いわば老後というはないか。今だと70歳80歳代を言うのではないだろうか。

 ここで使った「社会的年齢」という概念はないと思われるが、実年齢に対して相対的に社会が必要とする年齢、あるいは食生活や医療の環境要因でつくられる健康年齢のことを言うことにする。健康年齢は国によって、日本でも地域によって違う。社会的年齢は文化や慣習あるいは制度の要因で変わる。

 明治期では、農漁村の子どもの多くは今でいう児童労働をしていた。『おしん-幼年編』でそれが良く描かれている。あるいは山本有三の『路傍の石』にも描かれている。これらからも10歳ぐらいからは働き手として期待されていたことがわかる。 それは同時に学ぶことと学校が、子どもが子どもとしての暮らしをつくることになる。
 戦争の時も早くから大人にさせられた。勤労動員、さては沖縄における「鉄血勤皇隊」といわれた児童をも兵士にした。

 老いることを長寿としてあるいは敬老という言葉を用いる。還暦、古希、喜寿と加齢で老いることに対して祝意をする文化と慣習がある。これも時代とそれぞれの家庭によってかなりことなる。
 現在はテレビ等のメディアによって、老いの新しい迎え方が話題にされている。「終活」という言葉がつくられ、自らの死期と死後を自分でデザインする、ということだ。テレビではこれに快活に取り組んでいる元気な夫婦が登場する。
 また「迷惑かけたくない」として独り暮らしをする、あるいは身辺の整理をする。死後関係者に手間をかけないように気遣うことが、生きてきた事柄と向き合って生きようとする場合、当人にとってはたして快適な老いの生活なのだろうか。
 さらに健康年齢は個人にとどまらない社会的関心事でもある。健康年齢を長くするため暮らし方、認知症予防など、行政や医療の取り組みも進んでいる。

 「社会的年齢」といえば、制度としての年齢区分をどう受け入れるか、ということがある。定年、65歳の前期高齢者、70歳の医医療費の10%負担、75歳の後期高齢者、といったことは抗うことのできない節目なのでどう柔軟に受け入れるかということがある。これは人間としての学習能力や健康や生き方に対して線引きをしていることではない。
 


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