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日本の歌の奥深さを聴く

2009-10-01 05:26:01 | 音楽
 日本橋公会堂(千代田区)での本田武久のリサイタルに出かける。めったに行かない都心であり、地下鉄水天宮下車である。いくつかの施設の複合されたもので、外観が大理石で堅牢な明治期の建物のような意匠をほどこしていた。周辺には民間の大ホールがたくさんあるためだろう、400人ほどの小規模のホールであった。
 プログラムは、日本の歌(山田耕筰、雁部一浩、畑中良輔、武満徹)とヘンデル、ハイドン、メンデルスゾーンである。氏はリード(歌曲)を専門にしているためか、声が直接届けられ入ってくる心地よさを感じた。オペラを歌う人には、シャワーのように声を浴びせられるような気がするときがある。
 耳慣れている「赤とんぼ」が、新しい魂を吹き込まれ、心が震える思いになった。たとえば3番の「15で姉やは嫁に行き・・・」は大きな声で表現し「お里の便りも・・」を小さくし、その対比で詩の世界にいざなわれたのだった。
 それに武満徹作曲で谷川俊太郎詩の「死んだ男の残したものは」は、こみ上げてくるものを押さえ切れなかった。
 この詩の世界を声で詩を掘り下げて表現していたので、他の人が歌うものと異なる歌のようにさえ聞こえるのだった。この歌は、60年代のフォークの草分け的人である高石ともやによって歌われ、ベトナム戦争時に反戦歌としても多くの歌手に歌われたし、中学生等の合唱曲としても歌われている。しかしこれまで聞いたどの歌とも違った、私の心に届く声による表現であった。
 大衆歌を歌う歌手は、マイクを通して自分の声で感情をあらわにして歌う。クラッシックは声そのものを聞かせる、声で表現をする、さらに詩と音楽を解釈して歌を届けるのだ。しかしオペラを中心とする人の場合、その声を中心にして歌うので、曲による違いを感じ取りにくい声楽家もいる。本田氏はピアニッシモがとくに美しい声であり、曲ごとの歌の解釈が深く、それを端正に表現をしていた。
 日本歌曲は奥深さを、ライブで聴いてしみじみと感じたのだった。

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