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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

社会主義という「夢」は何度でも打ち砕かれる

2011-03-24 19:12:12 | 社会
久しぶりに内田先生ネタ。

兵站と局所合理性について(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2011/03/24_1029.php

当Blogでも被災地の兵站確保について言及していたのだが、内田樹先生に触発されて無駄に持論を展開する。
人手より兵站のプロの手腕に期待

日本帝国陸軍の伝統と言えば、下記3つ。

「奇襲戦法」
→ 劣勢を跳ね返すため確実な方策ではなく、一か八かのギャンブル性の高い方策を選択する。
異常なまでの楽観主義というより、冷静に考えたら勝つ見込みがないのでリスクを無視する。
結果、損害が大きくなる。


「現地調達」
→ 根性論による兵站軽視。
兵站軽視というより、兵站を考えると何もできないから意図的に軽視する。
結果、太平洋戦争では戦闘ではなく餓えや病気によって多くの兵士が死んだ。

「戦力の逐次投入」
→ 達成すべき目標が曖昧もしくは誤っているため、作戦計画がその場繋ぎの妥協の産物になる。
全体目標が無いから各部が個別最適で動き、戦力の集中ができない。
その穴埋めのため後から戦力を逐次投入するが情勢を挽回できず被害が拡大する。

何ゆえこのようなことが起きるか?
原因は全体「戦略」がないからだ。

なぜ「戦略」がないのか?
実現すべき「政策」が曖昧だからだ。

各自個別に「政策」をこしらえて「戦略」を練るから、全体として統合された動きにならない。
戦力運用の基本は「戦力の集中」(つまるところ選択と集中)であり、これができない。

そもそも目的もなく手段が決まるわけがない。
この場合何が起こるかというと、目の前の問題にどう対処するべきかが主要なテーマに成り下がる。

開戦当初の見通しが甘かったのは言うまでもないが、それでも開戦当初はまだ目標が明確だった。
「短期決戦で相手にダメージを与えて和睦に持ち込む」はまだマシだった。
しかし、ミッドウェー海戦で大敗して以降、劣勢になった時点で政策目標を完全に見失った。
柔軟に政策目標を変更することができずに、ついには原爆が落とされるまで曖昧なままだった。
「どうするべきか」が決めることができないのだ。

「兵士は優秀だが将校が馬鹿」という言葉がよく言い表しているように、現場は孤軍奮闘し、個別で見ればそれなりによく戦ったが、全体としては大敗北だった。
「政策目標」と「全体戦略」を欠くことが、どれだけ致命的なことかは太平洋戦争時の日本を見ればよくわかる。

それでいて、今もこの伝統は様々な場面で引き継がれていると思われる。
日本という国は目標が明確なら強いが、目標が曖昧だとトコトン弱い。


どうして日本は「こんな国」になってしまったのか。
それが司馬遼太郎につきまとった生涯の問いだった。
明治40年代まではそうではなかった。日本人はもっと合理的で、実証的で、クールだった。あるときから、非合理的で、原理主義的で、ファナティックになった。
たぶん、その両方の資質が日本人の国民性格には含まれていて、歴史的状況の変化に応じて、知性的にふるまう人と、狂躁的に浮き足立つ人の多寡の比率が反転するのだろう。
おおづかみに言うと、「貧しい環境」において、日本人は知性的で、合理的になる。「豊かな環境」において、感情的で、幼児的になる。
幕末から明治初年にかけて、日本は欧米列強による植民地化の瀬戸際まで追い詰められていた。そのとき日本人は例外的に賢明にふるまった。東アジアで唯一植民地化を回避し、近代化を成し遂げたという事実がそれを証している。
敗戦から東京オリンピックまでの日本人もかなり賢明にふるまった。マッカーサーから「四等国」という烙印を押され、二度と国際社会で敬意をもって遇されることはないだろうと呪われた日本人は、科学主義と民主主義という新しい国家理念を採用することで、わずかな期間に焦土を世界の経済大国にまで復興させた。
近代150年を振り返ると、「植民地化の瀬戸際」と「敗戦の焦土」という亡国的な危機において、日本人は例外的に、ほとんど奇蹟的と言ってよいほどに適切にふるまったことがわかる。
そして、二度とも、「喉元過ぎれば」で、懐具合がよくなると、みごとなほどあっという間にその賢さを失った。
「中庸」ということがどうも柄に合わない国民性のようである。
今度の震災と原発事故は、私たちが忘れていたこの列島の「本質的な危うさ」を露呈した。
だから、私はこれは近代史で三度目の、「日本人が賢くふるまうようになる機会」ではないかと思っている。


ここまでは内田先生と同じ意見だけど、(いつも通り)ここからが違う。


総人口の10%が国土の0.6%に集住し、そこに政治権力も、財貨も、情報も、文化資本もすべてが集中し、それを維持するためのエネルギーも食糧も水もほとんど外部に依拠しているといういびつな一極集中構造が「火山列島」で国家を営んでゆくというプログラムにおいて、どれほどリスキーなものかは小学生にもわかる。
小学生にもわかる「リスクヘッジ」を誰も実行しようとしないのは、一極集中したほうが「効率的だ」と思っているからである。
もちろん「金儲け」にとっての効率である。
その判断は間違っていない。
けれどもそれはいわゆる「局所合理性」に基づけば、ということである。
短期的・局所的に考えれば合理的なふるまいが長期的・広域的に考えると不合理であるということはよくあることである。


これは立場によって意見が変わる。
逆に一極集中せずにリスクヘッジのために分散したとしよう。
この場合、全体が沈む可能性についての考察が可能ではないだろうか。
つまり、一極集中することによって生存を可能にしている側面もあるということだ。
先に述べた「戦力の集中」が鍵になる場合もある。

もちろん、多様性の観点からして、分散しなくてよいと言っているわけではない。
まずもって日本はまったく分散していないわけではない。
東京・名古屋・大阪と一応の分散はしている。
ただ、都市間競争の結果として東京が抜きん出ているというに過ぎない。
これを各都市均等に分散せよとなれば、それこそ国家資本主義になるが、そういうやり方がうまくいったためしがないこともわかっているだろう。
少なくても、東京特区があるわけではないのだから、東京に一極集中していたとしても、それは競争の結果なのである。
仮に国家が競争の結果を是正した方がよいと考えるとして、我々にはどういう選択肢があるだろうか。
大阪特区などを作って分散化を誘導するというアイディアについて考えてみるのは価値あることだとは思う。
それに、原発が東京から離れた位置に建設されるのは、こういったリスクヘッジのためである。


これからの中長期的な国土復興のプランはかなりわかりやすいものとなるはずである。
思いついたことをランダムに列挙する。
(1) すべての原発の即時停止と廃炉と代替エネルギー開発のための国家的プロジェクトの始動
(2) 「できるだけエネルギーを使わないライフスタイル」への国民的シフト
(3) 首都機能の全国への分散
(4) 首都圏に集中している人口の全国への分散
とりあえず、これからだろう。


(1)は有り得ない。
日本は復興不能になり、沈む。
"中長期的な復興プラン"なのに、なぜ「即時停止」なのか、そこが全くわからない。

(2)は「ライフスタイルの国民的シフト」ではなく、「テクノロジーによるライフスタイルの国民的シフト」を考えるべき。
ネイチャー・テクノロジーなどを参考にすべし。

(3)行政機関の頑健性を保つためには、行政機関のある程度のバックアップ体制は組むべきだろう。

(4)は本末転倒だ。
「均衡ある国土の発展」ドグマを改めるべき。
多様なライフスタイルを認めれば、むしろ首都圏の人口はより集中すると私は思う。
田舎は田舎らしくし、都市は都市らしくすればよい。
それぞれの土地で、それぞれの暮らしがあっていいはず。
むしろ多様なライフスタイルが認められる風土がないから、人々は固定的な人生を歩むことになる。
自分の置かれた状況やお互いへの不平不満を語りながら生きることになる。
田舎から都市に移り住んだり、都市から田舎に移り住んだりといった流動性はもっと高くていいはずだ。
原発建設地にもっと自由度があれば、福島原発のような集中立地も避けられ、問題は軽くすんだはずだし、リアス式海岸の海辺に住むこと自体がなければ津波被害も少なく済んだはずだ。
人々が何を理由にどこに住んでいるのか、それを考えてみなければならない。
そして、人々が自分の意思で、もっと自由に住む場所を決めれるようにしなければならない。
その「人々の意思」をどう導けるか、とうのは国家の役割として十分に有りだろう。

ところで「首都圏に集中している人口の全国への分散」は国家が強制力を持ってやるのかな。

やっぱりどこか社会主義の匂いがする。
私はドラッカーの社会主義観に同意で、こういう話は何か夢物語に見える。

「社会による社会の救済」という人類の夢は打ち砕かれた。

世界に冠たるブランド「FUKUSHIMA」誕生

2011-03-24 15:26:18 | ブログ情報(News Release)
これは決して楽観論ではない。
地に足をつけた現実のお話なのだ。

福島県のアドバイザーに就任され地元住民に対する講演だからという側面もあるが、とても勇気付けられる内容だ。
福島第一原発の電源復旧が進んできたこともあり、ようやくこういった話がでてきた。

山下俊一氏:
長崎大学大学院医歯薬学科薬学総合研究科長、世界保健機構緊急被ばく医療協力研究センター長、日本甲状腺学会理事長

高村昇氏:
長崎大学大学院医歯薬学総合研究科、元世界保健機構テクニカルオフィサー

ともに放射線と健康に関する正しい知識を県民に提供することを目的とした福島県放射線健康リスク管理アドバイザーに23年3月19日付で就任

2011年3月21日14時- 山下俊一氏・高村昇氏「放射線と私たちの健康との関係」講演会
http://ameblo.jp/kaiken-matome/entry-10839525483.html


 いいですか。1ミリシーベルト浴びた。でも翌日は治ってる。これが人間の身体です。100ミリシーベルト浴びた。99個うまく治した。でも、1個間違って治したかもしれない。この細胞が何十年も経って増えて来て、ガンの芽になるという事を怖がって、いま皆さんが議論している事を健康影響というふうに話をします。まさにこれは確率論です。事実は1ミリシーベルト浴びると1個の遺伝子に傷が付く、100ミリシーベルト浴びると100個付く。1回にですよ。じゃあ、今問題になっている10マイクロシーベルト、50マイクロシーベルトという値は、実は傷が付いたか付かないかわからん。付かんのです。ここがミソです。

 にもかかわらず、新聞報道ではバックグラウンドの千倍とか、一万倍とかいう話が出ます。そのために、即それが健康影響を及ぼすというふうに誤解されます。書いてる新聞記者がよくわかっとらん。報道関係もよくわからないのに、我々専門家の意見をつまみ食いして記事を書きます。決して100%信用できるデータではない、コメントではないのですが、我々専門家も悪い。これを否定したり、あるいはきちんと反論して来ませんでした。

 私が敢えて今回、このように皆様方の前に立って、専門家としてできるだけ分かりやすい話をしたいと思う理由は、国民がこの原発事故を通じて初めて、理科音痴が解消されるかなと期待しているからです。皆さん福島県民は原発がここにあるので、よく放射線の事をご存知で、放射能のことも知っているのかなと思ったけれども、何の事はない皆逃げ出している。出て行けと言ったら、皆出て行ってしまった。おかしいという疑問の手を挙げるためには理科音痴を日本国民全部、払拭する必要があります。特に新聞記者はそうです。報道関係は初めて今回、自分たちの科学的知識のなさに困惑しているはずです。付け焼き刃で記事を書いている。でも、これも大事なことです。勉強する、福島の原発事故は日本国民全員に理科を勉強するチャンスを与えました。


当Blogでも繰り返し述べているように、理系教育を受けた人なら↓の科学に対する考え方が基本中の基本なのです。
(昔の話ですが、私も同様の内容を大学1年時で叩き込まれたものです。)
報道機関の人々の科学技術に対するポジションが浅すぎるということが問題なのです。


 私たちは科学の力で、この人類の発展と平和を築こうとしてきました。しかし、残念ながら原子力に関しては、原爆という兵器の開発が先行しました。そのために、原子力の平和利用という原発は常に負のイメージをもって推進されてきました。科学に善し悪しはありません。しかし、科学には善悪は判断できないとしても、事故は付き物です。科学の限界も当然あります。ヒューマンエラー、人のエラーも積み重なります。科学は単に原子力工学だけではありません。医学もそうです。あるいは経済学にしてもそうです。政治学もそうです。科学はありとあらゆる学問体系を含みます。その根幹は皆様方が持っている生き様、哲学です。そして、宗教学です。こういうものを全部含めたものが科学です。その科学が作り出した原子力発電所の過ちや事故を、じゃあ誰が清算し、誰が元に戻すことができるのでしょうか。それはやはり、科学の過ちは科学でしかコントロールすることはできません。これは人間の性です。人間の守備範囲である、自分たちが作り出した物に対しては自分たちで責任をとるという必要があります。


こういう発想なんかいいですよね。

今回の事故で「FUKUSHIMA」は世界に知れ渡りました。
今、世界で最も有名なアジアの都市です。
反省はすべきですが、起きてしまったことを悔いても仕方がないのです。
これをビジネス観点で考えれば物凄いアドバンテージ。
今、福島ブランドをひっさげて世界に出て話に行けば、どんな国でも真剣に聞いてくれる。
ピンチをチャンスに!
英雄は逆境にて輝く!!

日本や東北、福島の迅速な復興を考えていきたいと思います。


 これから福島という名前は世界中に知れ渡ります。福島、福島、福島、何でも福島。これは凄いですよ。もう、広島・長崎は負けた。福島の名前の方が世界に冠たる響きを持ちます。ピンチはチャンス。最大のチャンスです。何もしないのに福島、有名になっちゃったぞ。これを使わん手はない。何に使う。復興です、まず。震災、津波で亡くなられた方々。本当に心からお悔やみを申し上げますし、この方々に対する対応と同時に、一早く原子力災害から復興する必要があります。国の根幹をなすエネルギー政策の原子力がどうなるか、私にはわかりません。しかし、健康影響は微々たるものだと言えます。唯一、いま決死の覚悟で働いている方々の被ばく線量、これを注意深く保障していく必要があります。ただ、一般の住民に対する不安はありません。


ここでは20歳と言われていますが、聞く話によると40歳過ぎると感受性がほとんど認められないそうですから、中高年を中心に行列なんかができていると情けなくなる限りです。
放射線が細胞を損傷させるから、人間の体はこれを回復しようとする。
回復しようとする中で稀にエラーが起きる。
このエラーが積み重なると癌化する。
つまり、細胞分裂が活発化どうかの問題で、だから大人への影響は少ないというわけだ。


 しかしながら、それでも不安はある。誰に不安がある?女性、妊婦、乳幼児です。次の世代を背負う子供達に対し、私たちは責任があります。だから、全ての放射線安全防護基準は、赤ちゃんの被ばく線量を基準につくられています。いいですか。子供を守るために安定ヨウ素材の投与、あるいは避難・退避ということの基準は作られています。大人は二十歳を過ぎると放射線の感受性は殆どありません。もう限りなくゼロです。大人は放射線に対して感受性が殆どないということをまず覚えてください。そのくせ、一番心配するのは大人。これは間違いです。特に男は大間違い。我が身を省みれば、自分はタバコを飲んだり、酒を飲んどるのに、放射線より遥かにリスクが高いのに。男はまず心配いらないです。守るべきは女性、女子供、妊婦、乳幼児です。もし、この状態が悪くなるとすれば、逃げるのは妊婦と子供でいいんです。男は戦わなくちゃ。復興に向けてここで福島県民として、会津の白虎隊でしう。それくらいの覚悟はあって然るべきです。

バックアップはこまめに

2011-03-24 14:48:03 | ブログ情報(News Release)
今日は久しぶりに朝から絶好調で仕事してるっ!と思っていた矢先、ショッキングなことに午後になって相棒のノートPCがフリーズ。

朝から書き溜めた幾つかのエントリと、仕事の軌跡を失う・・。

調子にのってこまめにバックアップをとらなかったことが祟ってしまった。

低確率のリスクを過小評価してコストをかけなかった結果ですね・・。

やはり普段と違うことをやると予想だにしないことが起きるものだ (T-T)

この不確実性こそ人生の醍醐味。


ということで他Blogのエントリを利用することにする。
ヨウ素に関する情報ですが、↓ここがよくまとまっています。

昨日の時点でも、足立区、葛飾区、江戸川区、荒川区、北区、板橋区、江東区以外の人は基準値を下回っているので大騒ぎする必要がなかったようです。

皆さん冷静に! 東京水道水の放射線について (連れ込むな! 私は急に 泊まれない)
http://ottyanko.at.webry.info/201103/article_9.html

それと東大のチーム中川が発信情報を訂正しています。
水に溶けたヨウ素には揮発効果はないので沸騰させても無意味だそうです。
逆に水分が気化するので濃度が上がってしまうのでやめましょう。


昨日”高揮発性のため、水に含まれたヨウ素は煮沸することで幾分取り除くことができる”、と言いましたが、固体状のヨウ素分子(I2)の場合でした。水中に存在するヨウ素では、揮発効果はほとんどないため、煮沸はお勧めできません。お詫びの上、訂正させて頂きます。申し訳ありませんでした。

ある方にお願いして、煮沸によるヨウ素の濃度変化を検証する実験を、水道水中に含まれるI-131を対象に行いました。その結果、水道水を煮沸すればするほど水蒸気だけが飛んで、I-131が濃縮されました。もし、煮沸しようとされている方がいれば、直ちにやめるようお伝え願います。


最近、当Blogが震災ニュースのまとめサイトみたくなっているなと気づきました。
なんだかんだで震災を利用してアクセスを伸ばしているのは私のようです。

冷静と情熱の間

2011-03-24 00:13:33 | 社会
《東日本大震災》 チェルノブイリで治療したロバート・ゲイル博士会見 [11/03/23](アスパラクラブ)
https://aspara.asahi.com/blog/kochiraapital/entry/sWh2otqZz6


[前略]

まず強調したのは「原子炉が爆発したチェルノブイリや、臨界が起きて至近距離で破壊力の大きい中性子線を浴びたJCO事故と、現時点では放射性物質のほとんどが格納容器内に収まっている福島の状況は全く異なる」ということだった。また、「現場で作業をしている人と、そうではない人のリスクも全く違う」とも。「今の福島のレベルであれば、一般の住民にとっては、喫煙の方がよほど発がんリスクが高い」

会場の記者からは「米国などは原発の周囲80キロ以内から避難するように指示していますが」と質問が出た。ゲイル博士は、「こういうケースでははどうしても安全な側に考える。医学的・科学的な基準というよりも、クレームを避けるための政治的な判断と思う」と答えた。

食品についても、「問題となっている放射性ヨウ素131は半減期(放射線量が半分に減るまでの期間)が8日間と短く、体内に入っても短期間でレベルは下がる。またそもそも基準値は、子どもなど最も影響を受けやすい人が、過剰に摂取した場合で計算しているものだ」として、現時点で過度に心配する必要はない、と述べた。

「食べ物自体に毒性があるわけではない。時間がたてば危険度は下がるのだから、例えば野菜を冷凍保存したり、牛乳をチーズなどに加工したりすれば後で十分食べられる。慌てて捨てる必要はないと思う」

現在、原発周辺で通常より高い放射線量が計測されていることについては「線源(放射性物質)がどこにあるのかが重要だ。大気中や海の中にあるのであれば、時間とともに拡散されていくのでそれほど心配はいらない。しかし、土壌に付着したとすれば、長期間影響が残る可能性はある」と説明した。


原発で作業にあたる方々へ、次のような対応を是非ともしてあげたいですね。


博士が最も重視したのは、原発で作業にあたる方々の安全についてだった。

大量の被曝をすると、「骨髄抑制」と呼ばれる症状が起きる。骨髄は、白血球・赤血球・血小板などの血液中の細胞をつくる重要な機能をもっているが、これが損なわれてしまう。この症状は、ある程度までであれば、骨髄移植をすることで救える。チェルノブイリで、ゲイル博士は骨髄移植を行っている。

移植は他人からでもできるが、遺伝子の違いによるGVHD(慢性移植片対宿主病)と呼ばれる合併症の危険などがあり、場合によっては命にかかわることもある。この危険は、自分のものを使えば避けられる。なので、作業にあたる人は、前もって自分の末梢血幹細胞を採取、保存しておき移植に備えておくべきだ


これまで様々な有識者の見解を紹介してきたが、そのほとんど一致している。
にも関わらず、どうして原発関連のリスクがこれほど注目を集めるのか。

原発のトラブルは何故過剰に恐れられるか(細見ちひろ)
http://agora-web.jp/archives/1286579.html


そして行動経済学の入門書とされる『経済は感情で動く』の中で、著者のマッテオ・モッテリーニは、次の12点を、高く評価されやすいリスクの特徴として挙げている。

1.自分が選んだリスクより、他から強制されたリスク
2.自分でコントロールできない災害などのリスク
3.死者が出るリスク
4.めったに発生しない、マスコミで取り上げられているリスク
5.映像的に悲惨なリスク
6.広い範囲で、すぐ近くで起きたリスク
7.特定の人だけを襲うリスク
8.一度に多くの被害者が出るリスク
9.なじみのない、新しいリスク
10.自然によるものより人工的なもの、先端技術によるリスク(遺伝子組み換えや放射線、原発など)
11.次の世代、子どもたちに影響が及ぶリスク
12.原因不明、謎、何が起きているのかわかないリスク

このような特徴をもつリスクは、合理的に判断される度合いを越えて、高く評価されてしまう可能性がある。解説するまでもなく、12項目のほとんどが今回の原発のトラブルに当てはまるものであることがお分かりいただけるだろう。


タバコは自分でコントロールできるリスクだから過小評価するし、原発は自分でコントロールできず、しかも見えないリスクだから過大評価する。

超ヤバイい経済学』のネタだが、アメリカで9.11テロが起きてから、飛行機テロを防ぐ取り組みが多く行われた。
人々も飛行機を乗るのを避けた。
その結果、何が起こったか。

なんと死者が増えた。
人が死ぬのを避けようとテロを防止する取り組みで、死者が増えたのだ。
なぜかというと、飛行機に乗らなくなった人々が移動のために使ったものが自動車だったからだ。

死亡確率という点では、テロで死ぬ確率が最も低く、その次に飛行機で死ぬ確率、最も死亡確率が高いのが自動車での移動だ。
人々はテロを恐れて、テロを避けるために飛行機を避け、そして車に乗る。
結果、車で死ぬ人が増えて、全体として死者数が増える。

テロによる死を防ごうとして、より多くの人々が死ぬ結果になったのだ。
しかし、テロで人がすれば大騒ぎになるが、自動車事故による死者数が増えてもたいしたニュースにはならない。
実際にはより多くの人々が死んでいるのだが、それを知る由もない。

このようにして、人は不合理に合理的である。