いろいろと意見が出揃ってきたので、私も雑感を。
まず、ネット情報検索が日々進化し、日常化してきている今日において、カンニングで解決できるような問題に血眼になって努力するという虚しさを自覚すべきなのである。
先進国、ポスト新興国としてぶち当たる壁は、スタンダードのない世界での競争であり、知識労働社会において求められている資質とは、問題のないところに問題を発見し、そしてその答えの用意されていない問題にどのように答えを見出せるかという能力である。
日本の教育の悲劇は、答えの用意された問題をひたすら解くという新興国に最適化された制度のままになっているということだ。
明治維新後、日本は長らく後進国であったため、先進諸国に追いつくことが最大の懸案であった。
そのため、旧帝大などは優秀な官僚を育てることを目的に設立され、その目的を果たしてきた。
だから東大や京大が未だに優秀な官僚を育てることを目的にしているのであれば、別に今の受験制度でも問題ないが、それが全ての大学において横並びである必要はない。
その大学が育てたい人材、能力に特化した試験を実施すればよいのだ。
(高度研究者を育成するための試験であれば、カンニングでしか問題が解けない者が入学したとて実際には何の役に立たないので、それを事前にわかっている受験生はカンニングしてまで入学したりしない。)
にも関わらず何ゆえ学生は既存の受験路線に乗るかといえば、日本の雇用慣行、特に新卒就職事情によるところが大きく、大学名によるスクリーニングをひたすらに恐れての結果であろう。
いや、大学名によるスクリーニングをかけない企業も多数あるのだから、より正確にいえばリスクを恐れてというよりは、リスクヘッジのためにであろう。
しかし、雇用慣行が変わらない限り、大学側は変われないのであろうか。
否である。
大学が就職率など気にする時代はもうすぐ終わる。
最上位校は就職率などではなく、卒業生がどれだけ世の中に影響を与えたかを競うようになる。
日本の大学入試制度は本当に間違っているのか(My Life After MIT Sloan)
http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/aceefc69a23a6ff72ddcb44e46736afb
まず、ネット情報検索が日々進化し、日常化してきている今日において、カンニングで解決できるような問題に血眼になって努力するという虚しさを自覚すべきなのである。
先進国、ポスト新興国としてぶち当たる壁は、スタンダードのない世界での競争であり、知識労働社会において求められている資質とは、問題のないところに問題を発見し、そしてその答えの用意されていない問題にどのように答えを見出せるかという能力である。
日本の教育の悲劇は、答えの用意された問題をひたすら解くという新興国に最適化された制度のままになっているということだ。
明治維新後、日本は長らく後進国であったため、先進諸国に追いつくことが最大の懸案であった。
そのため、旧帝大などは優秀な官僚を育てることを目的に設立され、その目的を果たしてきた。
だから東大や京大が未だに優秀な官僚を育てることを目的にしているのであれば、別に今の受験制度でも問題ないが、それが全ての大学において横並びである必要はない。
その大学が育てたい人材、能力に特化した試験を実施すればよいのだ。
(高度研究者を育成するための試験であれば、カンニングでしか問題が解けない者が入学したとて実際には何の役に立たないので、それを事前にわかっている受験生はカンニングしてまで入学したりしない。)
にも関わらず何ゆえ学生は既存の受験路線に乗るかといえば、日本の雇用慣行、特に新卒就職事情によるところが大きく、大学名によるスクリーニングをひたすらに恐れての結果であろう。
いや、大学名によるスクリーニングをかけない企業も多数あるのだから、より正確にいえばリスクを恐れてというよりは、リスクヘッジのためにであろう。
しかし、雇用慣行が変わらない限り、大学側は変われないのであろうか。
否である。
大学が就職率など気にする時代はもうすぐ終わる。
最上位校は就職率などではなく、卒業生がどれだけ世の中に影響を与えたかを競うようになる。
日本の大学入試制度は本当に間違っているのか(My Life After MIT Sloan)
http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/aceefc69a23a6ff72ddcb44e46736afb