ネット上のある言論が気になって、このエントリを書く。
私は訳あって原発誘致の議論について少し詳しい。
昔、原発賛成派と反対派との激烈な攻防を見たことがあるからだ。
私の義兄弟が原発関係者と他のエントリで言及したが、実は私自身が原発誘致の争いの最中に身をおいたことがある。
原発関係者なら誰もが諦めていることだが、原発反対派を説得することはほぼ不可能だ。
反対派は原発そのものに反対なのだから、説得しようがない。
それを端的にあらわすやりとりをここに掲載しよう。
住民:原発が絶対安心といえるか?!
東電:「絶対」とは言い切れません。ですが安全性は高いです!
住民:ほら見ろ!安全じゃないじゃないか!
東電:「・・・。」
このやりとりの答えは最初から決まっている。
東電関係者が「絶対」と言えば嘘になる。
可能性が0ということは誰にも保証できない。
今回の福島原発の場合、津波の高さの想定が7mで、実際が14mだったことが問題視されている。
ということは今後、原発を建設する際、津波の高さを20mと想定すべきなのだろうか?
だが30mの津波が起きないと保証することはできないから、仮に東電が20mの津波を想定したとしても「絶対」とは言い切れない。
「絶対」などあり得ないのだ。
しかし、住民は「絶対」を求める。
だから、東電関係者がどこかで「絶対大丈夫です!」と言ってしまうことが起きてしまう。
それをもって過去に東電関係者が「絶対大丈夫と言った」などという批判が出てくる。
だがしかし、論理的思考能力を持った人なら誰でも、「絶対」を保証することが不可能であることぐらい理解できる。
住民側が絶対を求める限り、電力会社は原発を建設できない。
こんなことを繰り返していたら、日本という国のエネルギー政策は定まらない。
この難しさは何といっても「均衡ある国土の発展」ドグマから来ているのではないか。
日本国民身は憲法で移住の自由は保障されているが、どこに住んでも同様の社会福祉が提供されることを保証しているとは必ずしも受け取れない。
エネルギー政策の観点からしても、生物多様性の観点からしても、日本人は一度、どこに住むべきかについて国民的議論を巻き起こしてもよいのではないだろうか。
私は訳あって原発誘致の議論について少し詳しい。
昔、原発賛成派と反対派との激烈な攻防を見たことがあるからだ。
私の義兄弟が原発関係者と他のエントリで言及したが、実は私自身が原発誘致の争いの最中に身をおいたことがある。
原発関係者なら誰もが諦めていることだが、原発反対派を説得することはほぼ不可能だ。
反対派は原発そのものに反対なのだから、説得しようがない。
それを端的にあらわすやりとりをここに掲載しよう。
住民:原発が絶対安心といえるか?!
東電:「絶対」とは言い切れません。ですが安全性は高いです!
住民:ほら見ろ!安全じゃないじゃないか!
東電:「・・・。」
このやりとりの答えは最初から決まっている。
東電関係者が「絶対」と言えば嘘になる。
可能性が0ということは誰にも保証できない。
今回の福島原発の場合、津波の高さの想定が7mで、実際が14mだったことが問題視されている。
ということは今後、原発を建設する際、津波の高さを20mと想定すべきなのだろうか?
だが30mの津波が起きないと保証することはできないから、仮に東電が20mの津波を想定したとしても「絶対」とは言い切れない。
「絶対」などあり得ないのだ。
しかし、住民は「絶対」を求める。
だから、東電関係者がどこかで「絶対大丈夫です!」と言ってしまうことが起きてしまう。
それをもって過去に東電関係者が「絶対大丈夫と言った」などという批判が出てくる。
だがしかし、論理的思考能力を持った人なら誰でも、「絶対」を保証することが不可能であることぐらい理解できる。
住民側が絶対を求める限り、電力会社は原発を建設できない。
こんなことを繰り返していたら、日本という国のエネルギー政策は定まらない。
この難しさは何といっても「均衡ある国土の発展」ドグマから来ているのではないか。
日本国民身は憲法で移住の自由は保障されているが、どこに住んでも同様の社会福祉が提供されることを保証しているとは必ずしも受け取れない。
エネルギー政策の観点からしても、生物多様性の観点からしても、日本人は一度、どこに住むべきかについて国民的議論を巻き起こしてもよいのではないだろうか。