Lasing415を知るには・・・、
まずジェームス・B・ランシングを知らなければならない
1927年に、ランシング・マニュファクチャリング社(Lansing Manufacturing Co.)を設立し
ラジオ用のスピーカー製造から初めて、フィールドコイル型の15インチ(38cm)径ウーファーや
コンプレッションドライバーなどを開発・販売していたのだそうである。
当時のアメリカの最大の娯楽産業「トーキー映画」
この音響を、ほとんど一手に請け負っていたのが、かの有名なWE(Western Electric社)であった、
WEは音響機器を「販売」せずリースで映画館に貸し出し供給していた
そのシェアは圧倒的なものであったそうだ
が、
1933年に米ハリウッドの映画会社MGM(Metro Goldwyn Mayer Studios)が
当時のWestern Electric社(以下WE社)製の音響システムに対して不満を挙げた
MGMの音響エンジニア、ジョン・ヒリアード(John Hilliard)や
音響部門長のダグラス・シャーラー(Douglas Shearer)はその音に満足できず、
音が悪い!
美声の声が抜けない、グワン・グワンずれて響く、
遠くまで届かない!何とかしろ~
※注、
と言ったかどうかは分かりません、上記はもちろん私の想像です(笑)
WE側の(たぶん殿様商売であったと思う)対応にも不満があったらしい
そこで、MGM社は、独自のトーキー再生システムの開発を決断する。
その開発リーダーとして白羽の矢が立ったのが、
徐々に実績を上げ始めたランシング・マニュファクチャリング社(以下ランシング社)だったのだ
が、
当時のランシング社は小規模すぎて、オーダーに対応できず
シャラーは先のヒリアードやランシングに加え、
ランシングをMGMに紹介したジョン・ブラックバーン博士(Dr. John Brackburn)や
MGMからロバート・スティーヴンス(Robert Stephens)、
RCAからは有名なハリー・オルソン博士(Harry Olson)等々、
当時の錚々たるオーディオ関連のエンジニアが集結し、「シャーラー・ホーン」システムの開発がスタートし
1935年に「シャーラー・ホーン」システムは。完成する
低音域がオルソン博士が開発したW字型折曲げフロントホーン・バッフルに
(フォールデッドホーンとも呼ばれている)
オープンバック方式で、
ランシングが開発したフィールドコイル型15インチ径ウーファー、
Lansing「15XS」×4基を組合せ
(※注この15XSの改良型がLasing415である、この415がやがて蝶バンパー・FIXエッジはそのままに、励磁からアルニコVマグネットに変わり515シリーズ、515Aへ、バスレフ用になり515B、なれの果ての姿C・E・・、退化し終焉を迎える)
高音域にはイスコイル径2.84インチ、スロート径1.5インチの
Lansing「284」ドライバー
(※注、この励磁284が285・287へと進化し、やがてマグネットの288となり、技術の進歩の名の下に、気を抜き、手を抜き、B・C・G・H・・と退化していく)
これらのユニットを使い、フォールデッドホーンとマルチセルラホーンの組合で、
巨大な2ウェイ構成のシステムが完成した。
「シャーラー・ホーン」システムは、その優秀さが認められ、全米各地のMGM系列館に相当数納入されたそうである
また、オリジナルのシャラホーンシステムはあまりにも巨大だったため、
このクォリティをそのまま継承した小型システムも数種類製造され「販売」された
アイコニック
※横須賀「極道」所有
アイコニック(Iconic)モニターシリーズは、大きく分けて二種類があり、
バスレフポートのモニター用と(※やがてALTEC銀箱となってく)
フロントロードの、500-A型やB形などの劇場用があったようです
(※後にバックロードやコンプレッションフロントロードへ)
この量産販売したアイコニック用に 15Xsを改良したのが、
lansing415です
当時の映画という一大産業で、
アメリカの威信をかけ最先端技術を争いながら、
激しいい開発競争が行われていたことだと思いますが。
MGM社に不満を持たれた、天下のWE社はこれ(シャラ―ホーン)に対向すべく(※自論です)
1936年にTA4181とWE594で構成する、かの有名なTA-7396 BAFFLEを使った
ミラフォニック・サウンドシステムを発表し対向したが
なんと王者WEが負けた!
1937年の映画芸術・科学アカデミー賞を受賞したのは「シャラ―ホーン」のほうだった
(※注、自論で恐縮ですが、年代をみればTA4181+ TA7396、WE594+WE25のミラフォニックが負けたように見えますが、私はミラフォニックがシャラホーンに音で負けてるとは思えません、もしかしたら負けたのは、その時劇場で圧倒的に猛威を振るっていたTA4151A+WE555+15A+596Aの「ワイドレンジシリーズ」だったのでは・・・、と思っています。)
あのWEに一発かませたランシング社であったが、
1939年財務責任者の有能なスタッフを喪ってか経営が急激に悪化し、事業継続のために会社自体の売却を余儀なくされ
その買収に名乗りを上げたのが皮肉にも、
あのWEの音響メンテナンスを受け持っていた、アルテック・サービス社だった、
(この時点ではALTEC社は自社製品を持っていないメンテナンス会社です)
アルテックサービスはランシング・マニュファクチャリング社を(5万ドルで)買収し、
ランシングは5年契約で副社長として就任した
1941年こうしてアルテック・ランシング社が誕生する
(※ランシング社員や機材は会社まるごと買収されたため、それまでの製品は、エンブレムを変えそのまま製造されたようです)
1946年アルテック・ランシング社との契約終了後、
ランシング・サウンド社を設立したそうですが、アルテック社からクレームが入り社名を変更
ジェームス・B・ランシング社(JBL)となったそうです
1949年のアボガドの木事件は周知のとおりです
(ランシングさんのお話はこれまで)
天下のWEをぶち負かすために作られたユニットだったんですね
このユニットが只者ではない理由がわかりました
さて、Lansing415の事はお分かりいただけたことともいますが、もう少し
初期の各ユニットの製造は、ランシング社やRCA社などが担当したようで、
15XSや284なども同一仕様ながらエッジの形状やコーン紙の形状、センターキャップの有無など、数種類のバリエーションがあるようです。
15XSオリジナルは、コーン紙はストレートで頂角が深くセンターキャップ無しです
エンブレムも、オリジナルは15Xsはランシング・マニュファクチャリング社(Lansing Manufacturing Co)で
415のエンブレムも、オリジナルのランシング社のものも僅かにあるようですが
1941年以降のアルテック・ランシング社になってから、その多くが製造されたようで
アルテック・ランシング社のエンブレムがほとんどの様です
※このブログ本文や写真は「WE」ファンにはとっても勉強になる横須賀の「極道」のホームページより勝手に転用しています。ごめんなさい。
この「極道」者の所有される415も後期物とのことでアルテック・ランシング社となっている
「極道」所有のオリジナルエンブレムは、しわくちゃですが、
私の415のエンブレムはなぜか綺麗です、(あまり余計な詮索しないようにね)
汚いエンブレムもきれいなエンブレムも基本データの仕様は同じですから・・・・
さて、どんなサウンドを奏でるのやら、わがなんちゃってWEサウンド・・・・・