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”富山大空襲を語る” ~ 藤井慶輝先生

2016-08-01 | 富山

 7/30(土)朝、富山市の藤井慶輝先生より電話がかかった。妙福寺の住職さんです。長い間高校で英語を教えておられ、民間教育団体の「新英語教育研究会(略して新英研)」の富山県支部長を務められた。退職された後、「富山大空襲を語り継ぐ会」の会員として地道な活動を続けておられる。
 以下は、先生の電話連絡。知り合いなどに伝えてほしいとのことでした。

 ① 7/30(土)県民会館で、「富山大空襲71周年のつどい」を開くが、その時体験談を語る。
 ② 7/30(土)の富山新聞に、その紹介記事が掲載される。
 ③ 8/1(月)夜6:15のKNBニュースでも、たぶん1,2分だが紹介される。
 ④ 8/5(金)西本願寺高岡教区教務所(八丁道の傍)でパネルディスカッションがあり、パネラーとして参加する。

 「八月二日 天まで焼けた」の本を読まれた方もあろうが、昭和20年8月2日未明の富山大空襲は、広島、長崎の原爆を除けば地方都市では最大の空襲だった。富山市の99.5%が焼けたそうだ。当時私は6歳、防空頭巾を被って家の裏の山田川の土手から真っ赤な東の空を眺めた記憶が鮮明だ。その後どこへ逃げたのか、防空壕に入ったのか、まったく覚えていない。

  藤井先生(89歳)は、当時18歳、旧制富山高校2年生だったそうだ。

 ↓ は、7/30(土)の「富山新聞」記事です。”軍国少年の考え一変”とある。       

  ↓ NHK富山放送局のニュース(ネット版)から。 

 「富山大空襲71年のつどい」:
 およそ3000人が犠牲になったとされる、富山大空襲の記憶を後世に語り継ぐ会が富山市で開かれました。
昭和20年8月2日未明の富山大空襲では、アメリカ軍による爆撃で市外地のほぼ全域が焼失し、およそ3000人が犠牲になったとされています。
それから間もなく71年となる30日、戦争の悲惨さを語り継ぐ活動をしている「富山大空襲を語り継ぐ会」が富山市の富山県民会館で体験者の講演会を開き、参加した約30人が空襲の犠牲者に黙とうをささげました。
このあと、現在の富山大学五福キャンパスにあった旧日本陸軍の富山連隊に大空襲の直前に入隊した、富山市の住職藤井慶輝さん(89)が、みずからの体験を語りました。
藤井さんは、アメリカ軍の焼い弾が落ちる場所が徐々に近づいてきた時の恐怖や、空襲に追い立てられた大勢の人が富山城のお堀で溺れて亡くなったことなどを語りました。
そして「戦争を知らない人には、自分がもし同じ立場になったらどういう気持ちになるか想像することで、戦争の怖さを感じて欲しい」と話し、会場には大きくうなずく人もいました。
講演会に訪れた高齢の女性は「自分も戦争の時代を生きた1人で、空襲の話を聞いてあらためて戦争は怖いと感じました」と話していました。

07/30 17:17

  ↓ は、7/31(日)の北日本新聞の記事。    

 ↓は、BBT富山放送の動画です。語り継ぐ会の様子が映像で見られます。

http://news.bbt.co.jp/topics_detail.phtml?Record_ID=ad3f329c9dfd7727810a416cbc2848bf

 ↓は、「富山中日新聞」のネット版から。

 富山大空襲から71年 死の恐怖 忘れられない      写真     富山大空襲の体験を語る藤井慶輝さん=富山市内で
 空襲前日の一九四五年八月一日、現在の富山大五福キャンパス(同市)にあった旧日本陸軍の富山連隊に入隊。午後十時ごろに空襲警報が鳴り、米軍爆撃機B29の編隊が市の上空を通過した。焼夷(しょうい)弾が雨のように降る中、命からがら逃げ回った-。富山市の妙福寺(みょうふくじ)住職の藤井慶輝(けいき)さん(89)は二日に七十一年を迎える富山大空襲の記憶をたどり、最近の改憲の動きに表情を曇らせる。「戦争を知らない人たちは自分のことに置き換えて戦争の怖さを想像してほしい」と訴える。(伊勢村優樹)

 二日午前零時半ごろにも空襲警報が鳴り、練兵場へ。「タコつぼ」と呼ばれていた、隠れるための穴に入り、ドキドキしながら周囲をうかがっていた時、照明弾が投下された。昼のように明るく、神通川の向こうには黒々とした家並み。そこへ焼夷弾が雨のように落とされ、あちこちに炎が上がった。
 やがて自分の近くに落下するように。生死の境界に立ち、田んぼやあぜ道を走り命からがら山に逃げた。「死の恐怖が骨の髄まで植え付けられ、いまだに忘れられない」
 夜が明けると、隠れようと思った橋の下に背中に直撃弾を受けた兵隊がうつぶせに浮かんでいた。結局、大空襲では三千人近くが死亡、市街地のほぼ全域を焼いた。
 あれから七十一年になる。「富山大空襲を語り継ぐ会」のメンバーでもある藤井さんは空襲の記憶を語り継ごうと、三十日に市内で講演会を開いた。

 市民ら約四十人を前に、空襲の恐怖をはじめ、空襲に追い立てられた大勢の人が富山城の堀で溺れて亡くなったこと、肉親を捜し歩いて黒焦げの死体を見つけた人の気持ち、防火用水に顔を突っ込んだままの男性、妊娠中に亡くなった女性の姿があったことを説明。その上で「戦争を知らない人たちはそのような姿をわが身に置き換えて想像力を働かせて。そうすれば戦争の怖さが分かると思います」と呼び掛けた。

 「今、国会では集団的自衛権の話などが持ち上がり、戦争前夜みたいな状況がある」。だからこそ経験を語り続けなければならないと思っている。「なんとしても七十年の平和が八十、九十年と続いてほしい。そのためには憲法九条を守っていくべきである」

 たくさんのメディアで取り上げられたことがわかります。今日、1日のKNBニュースを見るか、できれば、8月5日(金)のパネルディスカッションにご来場ください。


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8 コメント

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Unknown (なは)
2016-08-01 17:27:54
清姫様
戦争のことは誰も思い出したく無いかもしれませんが忘れてはならないことだと思います。
今の社会を平和で結構だという人が多いようですが、藤井先生の言われるように今こそ戦争の怖さや無意味さを伝えていかねばと思います。
新聞記事も富山放送の動画も見ました。集団的自衛権のどこが問題だ、という人がありますがうっかりしている間に日本はどうなるのかと心配です。
89歳の方の話を聞きたいと思います。
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Unknown (千葉matsu)
2016-08-01 18:29:46
もう富山大空襲から71年も経ちますか、防空頭巾を被せられて穴に入った覚えがあります、私の姉はその時不二越に動員されて富山にいたのですがたまたま休日で城端に帰っていたのです今から思うと富山にいたら亡くなっていたでしょうね、そのお陰でまだ89歳で健在です、あの時家の上空を富山に向かって飛行機の編隊が空が真っ黒になるほど飛んでいった記憶があります、戦争の恐ろしさ子供心にしみこんでいますね。
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Unknown (よっしー)
2016-08-01 18:44:10
清姫さん
今日の夕方のニュースどこの局も富山大空襲のことでしたね。清姫さんに聞いていたので見ていました。みなさん御高齢ですね。当時覚えてるかたも少なくなるんですね
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Unknown (清姫)
2016-08-01 21:48:53
なはさん
71年前の今日の夜中だったのですね。
電灯に覆いをかけ、薄暗い部屋で防空頭巾を被せられたり、水筒を持たされたりしたように思います。寝ていたところを起こされたのかもしれません。
藤井先生は、だんだん話される言葉がわかりづらくなってきています。今のうちに語ろう、と考えておられるかもしれません。5日夜、聞きに来てくださるそうでありがとうございます。山○さんと一緒に行きます。
今日のニュース番組は結構時間をかけ、丁寧に報道していましたね。
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Unknown (清姫)
2016-08-01 21:54:36
千葉matsuさん
お姉さんが富山に動員されておられたのですね。
休日で城端に帰っておられたとは、幸運でした。人の運命はわからないものですね。
そして藤井先生と同じ年齢でご健在とは嬉しいことですね。戦争の恐ろしさや、終戦後の食糧難など、少しでも記憶にあるのは、ほんとに私たちの年齢までですね。2歳下の弟は覚えがないと言います。
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Unknown (清姫)
2016-08-01 21:57:34
よっしーちゃん
ニュース、見てくれてありがとう。KNBだけかと思ったら、各局で取り上げたのですね。
時代が変わってきている、とも思いますよ。
語る人が少なくなるので、今のうちに少しでも多くの人に、とメディアも考えているのでしょう。
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Unknown (茶々姫)
2016-08-02 22:47:59
戦災にあった人の話をよく聞きました。私は美川にいましたので屋根の上でb29の飛行機の飛んでいくのをみていました。富山も福井の空襲も空が真っ赤になっているのをみていたのを覚えています。

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Unknown (清姫)
2016-08-03 15:27:06
茶々姫さん
美川、今白山市だという所ですね。その頃になりますか。
それではよく覚えておられるでしょうね。福井も空襲を受けたのですね。
我が家にも東京からの疎開の人が住まわれ、話を聞きました。
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