5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

仮の水

2008-11-17 22:35:47 |  書籍・雑誌

リービ英雄の「仮の水」を読む。

2008年8月講談社発行で、彼の一番新しい短編小説集である。2006年から2008年にかけて「群像」に発表された「高速公路にて」、「仮の水」、「老国道」、「我是」といった4編を集めたもの。いずれも、中国旅行を題材に、時に応じて中国語と日本語と英語で埋まる作者の意識の揺れを描いたもので、彼の得意とするジャンルだ。

本のタイトルになった「仮の水」では、「真」にたいする「仮または偽」という関係を、旅行中の様々な出来事に絡ませて述べる。

『農家の門に貼られた「丰」の文字が彼の目に留まった。「丰」はなんども彼の頭の中で「豊」に変わり、また「丰」にもどった。「丰」などという字形になってしまったのは、やはりおかしいと思ったとたん、そんな思いを共有していないだろう、満員の車輌に乗り合わせた二百人の視線を再び意識し始めたのであった。』

これは、最初に出てくる列車の窓から見た農村の景色だが、中国の簡体字が気になる作者の心理は、こちらにもよく理解できそうである。彼は日本語の漢字に馴れ親しんでいて、簡体字は「仮の漢字」というべきものなのだ。

作者の前の席に座った赤シャツの男が鉄道警察に捕まるシーンでは、「仮票」という単語が出てくる。「仮票」とは中国語で偽の乗車券の意味。偽乗車券での不正乗車摘発というわけだ。仕事を求めて国内を移動する労働者の多いことからすれば、こうした不正乗車は後を絶たないのかもしれない。

リービ英雄というのは「仮の名前か」と日本人の顔をしていない作者に尋ねた女性ガイドは、中国の固有名詞をすべて日本の「仮名」の発音に変えて話す。甘粛省はカンシュクショウと云う如くにである。

「老外」(ラオワイ)という言葉を発するときの中国人の気持はどんなものだろう。日本人が「ああ、ガイジンだ」という時の微妙に屈折した心理と同じであろうか。紅毛碧眼の人が意外に達者な自国語を話すと判ったときの、ちょっとした安心と落胆の気持もあるのだろうか。

この短編には4作品ともに、西洋人の作者を見た中国人が口に出す、この「老外」が、ひとつの連続したテーマになっているのだ。

次の「仮」は、石門山で出会った修行僧がつかった「仮道士」。「道(タオ)とは何か」が即答できないから仮の道士ということになる。「真」の道は遠い。

小説の題名の「仮の水」とは、昼食のレストランでだされた「偽のミネラルウオーター」のこと。おかげで、食事の後、作者はひどい下痢に悩まされることになる。これも、外国人の旅行者が経験する中国の食事情である。出されたミネラルウオーターのラベルは「西泉」、土の臭いがする「偽物」だったわけだ。

下痢の人間がやっかいになる場所は?

然り、公衆便所である。ひとり三角の使用料金を払おうと出した硬貨を番人の老婆は受け取らない。この街ではコインは未だつかわれていないから「真か仮かわからない」札をよこせ。というわけだ。

地方都市の公衆便所は未だに、例のオープン・しゃがみ型が主流らしい。気の弱い日本人には試練の場だが、超特急の作者は羞恥心も自尊心も横に置いて我慢の子である。後から入ってきた松葉杖の老人に席を譲れといわれて、金属製の「仮の脚」に気づく。

いつもの定位置を譲ってもらってから、年寄りのいう言葉、「少も辛苦、老も辛苦」がいかにも中国的だ。それにしても、最後のシーンが公衆便所の中というのも、なかなかユーモラスな運び。今回の短編では、ときどきにやりでさせられる箇所が随所にあった。


老子のタオから季節労働者の偽乗車券まで、人生にはさまざまな「仮」の部分があるのだ。「真」は少なく「仮」ばかりの世の中。だから、また、面白いということにもなるのだろうか。






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