私的図書館

本好き人の365日

五月の本棚 7

2003-05-25 09:07:00 | 哲学
『子どものための哲学対話』の第二回です。

20代の頃は、「生きる意味」とか、「宇宙の果て」について、友人と徹夜で語り合ったものですが、お互いの意見を発展させて新しい認識を生み出すという、”対話”の魅力に惹かれていたのかもしれません。
ロマン主義の申し子、ヘーゲル先生は、これを『弁証法的発展』と呼びましたが、この対話という方法は、プラトンの時代から物を考える時の有効な手段として使われてきました。特に、ひとに伝える手段として。そのコツは、「自分が何も知らない」という態度を保つこと。
プラトンはこの『無知の知』ということをソクラテスを使ってうまく表現しています。
いい例は、子供に説明すると考えること。幼稚園の園児に国会議事堂に見学に来てもらう。居眠りしている議員や、委員会での怒号のやりとりを見てもらう。(迷惑な話だ)料亭での勉強会に同席してもらい、事務次官殿に、答弁書の通訳をお願いする。不祥事の記者会見も、彼等の前でやればいい。子供には、『暗黙の了解』なんて通用しない。『タブー』も、『常識』も彼等を止められない。

・・・本当は、私達大人が、社会のルールを逆手に取ったそんな横暴を許しちゃいけないんですけど、普段そのルールを利用している手前、声高に言えないんですよね。

「世の中にはね、その世界を維持するためにどうしても信じてもらわなくちゃならない”公式の答え”というものがあるんだ。『学校へは行かなければならない』というのもその一つだけど、でも、どうしても信じられなければ、その学校という”世界”の外にでればいいのさ。」「行かなくてもいいってこと?」「小さな世界には必ずその外ってものがあるからね。」

我々もつい、常識にとらわれてしまいがちですが、『常識』というのも実は狭い世界だったりします。

「『ネアカ』と『ネクラ』って知ってる。表面的な暗さじゃないよ。根だよ、根。根が明るい人っていうのはね、いつも自分の中では遊んでいる人ってことだよ。勉強している時も、仕事をしている時も、目標に向かって努力している時も、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人のことだ。」「たったひとりの時でも?」「そうだよ。根が明るいっていうのはね、なぜだか、根本的に自分自身で満ち足りているってことなんだ。ただ存在しているだけで満ち足りているっていうのは、つまり、上品ってことでもある。逆に、根が暗いっていうのは、なにか意味のあることをしたり、他の誰かに認めてもらわなくては、満たされない人のことだ。つまり、下品な人ってことだね。」「いい人か悪い人かってこと?」「違うよ。いい人か悪い人かなんて、そうたいした区別じゃないさ。少しマシな区別は、ちゃんとした人間かどうかってことだ。これは、未来の自分のために”今”の自分を犠牲にできるか、それとも、”今”の自分のために、自分の未来を犠牲にしちゃうかっていう区別だ。ついでにいうと、他人のために自分を犠牲にできるのが善人で、自分のために他人を犠牲にしちゃうのが悪人なんだけど、善人や悪人になれるのはね、ちゃんとした人だけなんだよ。」「ネクラかネアカかって区別の方がそれより大切なの?」「そうさ。ネクラな人や下品な人がちゃんとした人になるには、なにか人生全体に対する理想のようなものが必要なんだな。自分の外にしか頼るものがないからね。そして自分に言い聞かせなくちゃならないんだ。今やっていることには意味があるんだって。ネアカの人や上品な人は違うよ。そんなものなしに、未来の遊びのための準備それ自体を、現在の遊びにしちゃうことができるんだよ。道徳とかの外の善悪なんて重視しないけど、過程自体を楽しむことができるから、ズルをする必要もないしね。」

二人の対話はまだまだ続きます。
どうです、たまにはこういうことを考えてみるというのも?

考えてみると不思議、ということは、実は私達の周りにはあふれています。なんだかわからなかった。という方も、それでイイんです。他の本もそうですが、「何か自分にとって重要なことが書かれている」と思ったら、それが本当の意味なんです。もちろん、本以外でも。
人間って基本的におもしろいもんです。そしてこの世界も、きっと・・・

この本が、新しい発見と、新しい認識の助けにでもなれば、そしてもちろん、そんなものにならなくったって、「エ!なにそれ?」という、そのひと時の驚きと、喜びのために。
では、今回はこんなところで。






永井 均  著
内田 かずひろ  絵
講談社


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