夢七雑録

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10.2 井の頭弁才天詣の記

2009-01-14 21:46:29 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 参詣を終えた嘉陵は、大宮八幡の裏門を出て西に向っている。その道は甲州街道の裏道にあたり、旧久我山道、現在の人見街道にも重なる道と思われる。道を2km余り行くと下高井戸となり、その先の石地蔵のある場所からは上高井戸となる。さらに行くと、久我山の入口に分かれ道があり、庚申塚があったと記す。この庚申塚と思われるものが現存しており、それには、「これよりみきいのかしら三ち(是より右、井の頭道)」「これよりひたりふちう三ち(是より左、府中道)」と彫られているが、嘉陵はこれを見落としたのか、左の道をとり、現在の久我山橋の上流の小橋で、井の頭上水(神田川)を渡っている。

 井の頭上水から少し上って行くと、玉川上水に出る。現在の玉川上水は、川底を音もなく流れているが、当時の上水は流れが早い川であった。嘉陵の書いた略図にある三つの橋のうち、最初の橋は石橋と記されている。この橋は、宝暦七年に石橋が架けられた旧久我山橋(現在は牟礼橋)と思われる。嘉陵はこの石橋を渡らずに、玉川上水に沿って西に向かっている。現在は上水に沿って遊歩道の細道が続いているが、当時は草が茂る道だったかも知れない。二つ目の橋は長兵衛橋で、渡れば牟礼に出る橋である。三つ目の橋は稲荷橋(現在は井の頭橋)で、ここからは上水を離れて、並木の道をたどる。800mほど行くと大門に出るが、ここには、「井の頭弁才天明静山大盛寺」という標識があったと記す。現在は、参道入り口に、大正時代に再建された黒門が立ち、「神田御上水源 井の頭弁財天」と記した石標が傍らに立っている。その先に石鳥居があり、坂を下れば石橋があったが、道が崩れていたため、池の畔を通って弁財天に行ったと嘉陵は記している。

 井の頭の池は湧水地が七か所あるため、七井の池と呼ばれ、江戸にとっては重要な水源の一つになっていた。井の頭の流れ(神田川)は、水源ではさらさらと流れるだけであったが、玉川の助水(正春寺橋の上流で玉川上水から分流し淀橋の下流で流入する)を入れ、石神井川(実は善福寺川と妙正寺川)も合流して、面影橋の下流では、川幅いっぱいに勢いよく流れていたという。なお、現在の井の頭池は、昔からの水脈が絶たれてしまったため、深井戸による揚水によって、池の水を確保しているとの事である。

 嘉陵が訪れた当時、弁財天の社はまだ整備されておらず、池の周囲の沼地は芦と薄で覆われ、水面も見えないほどだった。将軍家光がこの地に来た時に、自ら小柄で井頭と刻んだコブシの木は既に枯れていたが(枯れた木は、大盛寺に保存されていたが焼失)、家光が挿した楊枝から生じたと伝えられる柳の大木が、社の東側の池の畔にあった。嘉陵はここで、玉川上水で掘ってきた小松を植え、詠んだ歌を拝殿右の板障子に書き付けている。今なら、文化財を損傷したという事にはなるが、当時は咎める人も居なかったのだろう。もっとも、嘉陵の書き付けたものが残っていれば、それも文化財ということになるのかも知れないが。井の頭からの帰りの経路は記載がないが、家に帰り着いたのは、午後10時ごろであった。歩いた距離は50kmほどであったろう。時に嘉陵、数えで57歳であった。

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