夢七雑録

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10.1 井の頭弁才天詣の記(1)

2009-01-08 22:21:42 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十三年九月十五日(1816年11月4日)、井の頭弁才天に詣でるため、嘉陵(村尾正靖)は浜町の賜舎を午前10時に出ている。経路は、市谷御門、尾張殿屋敷前(市谷本村町)、自性院(市谷富久町・自証院)前、三光院稲荷(花園神社)前を通り、左に折れて成子町の通りから青梅街道を中野に向かうルートである。つまり、甲州街道を通らず、内藤新宿も通らずに青梅街道へ出ている。その方が距離も短く、通りやすかったのかもしれない。

 嘉陵は、中野から左に折れて妙法寺に向かうと記しているが、鍋屋横丁から入る妙法寺道を辿ったと思われる。妙法寺の祖師堂には日蓮上人の像が安置されているが、元禄の頃から厄除けに霊験あらたかという評判が立ち、妙法寺に向う参詣客が増えたため、青梅街道から妙法寺へ向かう参道入り口に、茶店が並ぶようになった。中でも鍋屋という店が繁盛していたが、鍋屋横丁の名はそれに由来するという。現在、鍋屋横丁交差点の南東側に由来の碑と説明板が置かれている。現在の妙法寺への参道は、この交差点を南に行き、次の信号で西に行くことになる。現在の道には、参詣道らしい雰囲気はないが、昔の道らしく、うねうねと続き、上り下りも二か所ある。午後1時、嘉陵は堀の内の妙法寺(写真。杉並区堀ノ内3)に着く。まず妙法寺を参詣し、それから、大宮八幡に向ったのだろう。

 嘉陵は妙法寺の門を出て南に行く道をたどっている。村絵図で南に行く道は、左に代田へ向かう道と、右に熊野神社の横を通る道に分かれるが、大宮八幡に行くのは右の道である。坂を下って善福寺川を渡り、田圃の畦道をたどって大宮道に出る。ここに、源義家が鞍を懸けたことから、鞍懸松と称されるようになった変わった形の松があった。松は根元から3mほどで東に曲がり、6mほどで直立しており、枝は梢にしかなかったという。現在は、代替わりの松が、それらしく仕立てられ、大宮八幡の参道途中に聳えていて、下には説明板も置かれている。大宮八幡(杉並区大宮2)の境内は、松や杉の古木が多く、神さびた雰囲気であった。ここで、嘉陵は八幡宮を参拝しているが、この日は十五日にもかかわらず、参詣する者はいなかったと記している。

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