(1)富士信仰と富士塚
日本古来の山岳宗教が仏教などの影響を受けて大系化された宗教を修験道と称し、その修行者を修験者または山伏と呼ぶ。富士信仰は古くからあったと考えられるが、中世になると、平安末期に富士に登頂した末代上人を開祖とし富士山南麓の村山を拠点とする村山修験によって、修験道を中心とした富士信仰が広まる。富士塚を築いて富士浅間社を勧請する事も行われるようになり、15世紀終りには各地に富士塚が置かれるようになったという。江戸時代の初め、修験者であった長谷川角行は教義を整え信者の組織化をはかって富士講の開祖となる。その後、角行の後継者は正統派を任ずる村上派と身禄派に分派するが、庶民に受け入れやすい教えを説く身禄派がやがて勢力を拡大し、高田富士を嚆矢として多くの富士塚を築くようになる。一般に富士塚と言えば、このような、身禄の流れをくむ富士講によって築かれた富士塚のことを指すようである。
(2)高田富士
高田の植木職人で、登拝経験の豊富な大先達でもあった藤四郎は、身禄の弟子でもあり、身禄の遺文を受けて、富士山の東にあたる江戸の水稲荷境内に、富士山を写した東身禄山、すなわち、世に高田の富士山と呼ばれた富士塚を築いた。富士塚の高さは3丈余(約10m)、富塚という古墳の上に築いたと言われている。江古田の富士塚は古墳の南側を崩して積み上げたとする説があり、これと同じ方法がとられたとすれば、富塚の一部を残して積み上げ、踏み固めを行って、富士の溶岩である黒ボク石で覆ったと思われる。富士山を遠くで眺めれば秀麗な姿をしているが、実際に登ってみれば岩だらけである。大先達として、黒ボク石は現実の富士の姿を現すために必要であったと思われるが、軽量で運びやすいという利点もあった。黒ボク石は、桂川・相模川を経て海路により江戸に運ばれたようである。藤四郎が築いた高田富士は江戸で評判を呼んだらしく、江戸名図会にも取り上げられている。なお、江戸名所図会では、高田富士の完成を安永9年としているが、現在では安永8年(1779)完成が定説のようになっている。
もともとの高田富士は、宝泉寺の北側に位置する水稲荷の境内にあった。水稲荷は、早稲田大学との土地交換により昭和38年には現在地に移転したが、高田富士については解体反対運動があって遅れ、昭和41年になってようやく水稲荷境内の現在地に移転した。移設された高田富士が旧来の姿をどこまで残しているかは不明だが、富塚については高田富士と分離されて水稲荷の社殿裏手に移されている。高田富士は通常非公開で、海の日とその前日(今年は7月17.18日)に行われる高田富士祭りの時だけ公開されている。
富士祭りは夕方からの方が賑やからしく、昼間は人も少ない。入口に置かれている資料などを見てから少し下ると浅間神社に出る。その横から登山路が始まり、ジグザクに坂を上がれば、さほど急なところも無く頂上に達する。周囲は木が茂って眺めは得られない。頂上に祀られている奥宮を拝礼し、鐘を叩いてから別の道で下りると、大先達の藤四郎が船津胎内を発見したことに因む胎内が設えられている。富士塚の麓をたどって浅間神社に戻ると、誰が叩いているのか鐘の音が聞こえてきた。その音を聞きながら外に出た。
(3)池袋富士塚
明治時代、修験道による富士信仰は衰退するが、それぞれの土地に根付いた民間信仰としての富士講は昭和の頃まで存続し、富士塚の築造も行われていた。池袋氷川神社(豊島区池袋本町3-14)の境内にある池袋富士塚については、次のような話が伝えられている。池袋講の先達の家には小さな富士塚があったが、世に出すようにという夢のお告げがあった。そこで講の人たちとも相談し、氷川神社内に富士塚の築造を始めたという。明治45年のことである。池袋富士塚は、高さ5m、東西13m、南北18m。セメントを使って黒ボク石を積み上げている。登山路は電光形で、平成9年に改修されて歩きやすくなっている。この富士塚には、奥宮、小御嶽社、烏帽子岩、経ケ岳、題目碑、合目石、講碑、角行像、天狗像、胎内なども設けられており、数少ない富士塚のひとつとして、平成10年に豊島区の史跡に指定されている。富士講はすでに無いが、7月1日には氷川神社によるお山開きが行われ、通常は非公開の富士塚も公開されている。
<参考資料>「ご近所富士山の謎」「富士塚考」「豊島区の富士講と富士塚」「新宿区史跡散歩」「豊島区史跡散歩」「江戸名所図会」
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