夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

浅草寺伝法院の庭園

2016-05-26 19:44:43 | 公園・庭園めぐり

浅草寺の本坊にあたる伝法院の庭園は江戸時代初期の庭園であり、景観が優秀で芸術的価値が高いとして国の名勝に指定されている。この庭園は、通常は非公開だが、寺宝展の開催期間中には庭園の特別拝観が出来る。それ以外の時も鎮護堂から柵越しに覗く事は出来る。

伝法院の庭園は二つの池からなり、北側の池から南西側の池に流れるようになっている。北側の池のある区画は東西に長い矩形、南西側の池のある区画は南北に長い矩形になっている。この様式は鎌倉末期から室町時代にかけての庭園様式とする説がある。

大絵馬寺宝展を観覧したあと庭園に出ると、左側に五重塔とスカイツリーが並んで見える。五重塔は本堂の東南側にあったが戦災で焼失し、西南側に位置を変えて昭和48年(1973)に再建されている。なお、スカイツリーは2012年の竣工である。 

北の池のほぼ半分を占めているのが経ケ島で、説明によると、一字一石の写経が埋められた聖域であり、浅草寺中興の忠豪上人の墓塔や板碑壁もあるという。立入は禁止されている。

北側の池には湧水が何カ所かあったそうである。現在も湧水があるかどうか分からないが、池の水位を維持できる程の湧水量は無いと思われる。伝法院の庭園は回遊式庭園であったようだが、現在の北側の池は回遊が出来ない。

北側の池から西南の池の間は渓流のようになっている。その上を渡ると、大書院前の明るい芝生に出る。芝生を下って行くと州浜があり、その先に雪見灯篭が置かれている。

右側の芝生の向こうに、筒形の塔身の上に一重の笠(屋根)を乗せた石造宝塔があり、相輪が折れたためか宝珠を乗せている。塔身には鳥居の浮き彫りがあるが、宝塔に鳥居を彫る例は他にもあるようだ。この宝塔には寛永3年の銘があるそうだが、もし墓塔だとしたら、ここに置かれた理由は何だろう。灯篭として使っていたのだろうか。

大書院の隣の新書院の前に、古墳時代の石棺という石造物が置かれていた。説明によると、明治初年に本堂裏手にあった熊谷稲荷の塚を崩した際に出土したという。浅草寺一帯は遺跡地になっており、種々の出土品もあるようなので、専門家の話を聞いてみたい気もする。

小堀遠州の孫にあたる小堀政延が延宝3年(1675)に奉納した灯篭があった。説明によると、この灯篭は初め本堂前にあり、その後は念仏堂に移り、さらに現在地に移設されたという。小堀遠州(1579-1647)は大名で伏見奉行などを務め、駿府城、二条城、大阪城、江戸城西の丸や、御所などの建築や作庭に携わった。また、遠州流の茶道の祖でもある。伝法院庭園は小堀遠州の作庭と伝えられているが、この点については、確かな記録が無い事と作風の点から否定的な説がある。

池に沿って南に行くと鎮護堂との境に出る。鎮護堂は明治時代に伝法院の守護として祀ったものだが、現在は一般に公開されるようになり柵が設けられた。境に沿って進み流れを渡る。奥の滝から池への流れのようにも見えるが、本来は池からの排水路の跡かも知れない。

沢渡りで中島に渡ると置灯篭があった。自然石の上に火袋を置き、上に八角の笠を乗せているが、わらび手を欠き、宝珠も仮のものである。年代不詳ながら園内随一の古灯篭という。中島から石橋を渡れば、岬のように池に突き出した大出島に出る。

池越しに大書院と戦後に再建された五重塔を眺める。元の五重塔は位置も少し離れており、塔高も低いので、伝法院庭園からは眺められなかったかも知れない。

小さな流れを渡り池の岸に出て、大書院とスカイツリーを眺める。大書院の前は明るい芝生地になっているが、大書院からの眺めに支障をきたすことから植木の伐採や移植を行ったという。何年か前に来た時には、確かに、木がもう少し茂っていた。

池にはカルガモが来ていた。子連れのカルガモが見られるのも間もなくだろう。ところで、後で気づいた事だが、この庭園の見所になっている枯滝の石組みは、この近くにあるらしい。今回は残念ながら見落としという結果になった。

昔は富士が見えたという望嶽台を、それと気づかずに通り過ぎる。池を見ると、黄菖蒲が今を盛りと咲いている。それにしても静かである。浅草の喧騒はどこへ行ったのだろう。

明和8年の三社船祭礼再興碑を見て先に進むと、天祐庵があった。説明によると、千利休により造られたという不審庵を摸して名古屋の茶人が建てたものを、移築したという。

天祐庵から出口へと向かう途中、囲いの中にあった灯篭のうち左側の一基が、宝篋印塔のようでもあり、そうでもないような妙な形をしている事に気が付いた。説明によると、応永32年(1425)の造立で製作者は不明、特異な形態だという。この宝塔に窓を穿って石灯籠に転用したという事らしい。

帰りがけにもう一度、北の池を見に行く。この池の護岸に寛永8年に焼失した本堂の礎石が使われていたとし、作庭の時期を寛永年間とする説がある。元禄6年(1693)の絵図に描かれている池の図と明治17年の浅草公園の五千分の一測量原図の池とが類似している事から、伝法院庭園の作庭の時期は少なくとも元禄以前と考えられる。なお、現在の北の池は、東南側が削られているので、明治17年当時の池とは形が異なっている。元禄6年の絵図には東岸から大出島に渡る橋が記され、その途中に水上舞台のようなものが記されている。文化年中(1804-1817)の園池図にも、この橋と舞台は描かれているが、現存していない。長い年月の間には、この庭園も何度か改修があったと思われる。伝法院庭園は昭和6年に東京市によって改修され後に一般公開されていた時期もあったが、その後は非公開となり、現在は期日をきめての公開になっている。

 

<参考資料>「探訪日本の庭・関東東北」「浅草寺史談抄」「国指定文化財等データベース・伝法院庭園・詳細解説」

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
« 池上本門寺・松濤園 | トップ | 堀切菖蒲園に菖蒲を見に行く »

公園・庭園めぐり」カテゴリの最新記事