夢七雑録

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池上本門寺・松濤園

2016-05-17 19:44:43 | 公園・庭園めぐり

池上本門寺の旧本坊奥庭であった松濤園が、今年は5月の連休中に特別公開されていたので行ってみた。今回は解説も聞かずに急ぎ足で回ったこともあり、分からない点も幾つかあったのだが、それはまたの機会にという事にして、忘れないうちに投稿する事にした。

松濤園の入口となる朗峰会館の最寄り駅は池上駅か西馬込駅だが、今回は西馬込駅から朗峰会館に行き、帰りは池上駅に出た。ただ、西馬込駅からのルートは、少し分かりにくく、上り下りもあるので、池上駅から行った方が良さそうである。池上駅からの場合、商店街を抜けて呑川を渡り、総門を入って此経難持坂の石段を上がり、仁王門をくぐって大堂に出る。大堂に向かって右へ行き、五重塔の前に出て北に下ると紅葉坂の先に朗峰会館への入口がある。なお、池上会館の屋上から五重塔に出る方法もある。

朗峰会館の建物に入って、受付で庭園の案内図を受け取る。庭に出ると、そこは、池を見下ろす展望台のようになっている。池は南と西と北の三方を台地に囲まれた谷底にある。この谷は東側の本門寺公園弁天池の上流部に当たるが、庭園の東側に土手を設け湧水を溜めて池にしたように見える。明治36年の「日蓮宗各本山名所図会」に、貫主の居間から蓮池が眺められて季節を問わず飽きないとあり、庭園の名はまだ無いと書かれているが、この庭園が松濤園の前身となる本門寺の奥庭という事になるだろうか。現在の松濤園は平成3年に改修されているので、元の奥庭とは違いがあるかも知れない。

松濤園は池泉回遊式庭園ということだが、高低差を利用して庭が作られており、樹木も茂っていて見通しがきかないので、園内を歩き回らないと庭園の全体像を知る事が出来ない。足元に注意しながら池に下り、雪見灯篭のある州浜から池を眺める。向こう側に、つるべ井戸のようなものがあり、水が勢いよく池に流れ込んでいる。この池も昔は湧水を溜めていたのだろうが、都内の湧水の多くが枯渇しているか水量が激減している状況からすると、この池も地下水を汲み上げて池の水位を維持しているのではないかと思われる。池の中に釣瓶井戸の形を設けたのは、茶室のある庭園ゆえの趣向だろうか。この井戸は織部井戸と呼ばれているそうだが、その名の由来を知りたい気もする。

池の中には亀島という島がある。亀と言えば鶴。亀島と向き合っている石がそうなのだろうか。鶴石と言わればそうかと思い、舟石と言わればそうかとも思う程度の知識しか無いので、この奇妙な形の石の正体は、残念ながら分からない。

池から離れて先に進み、小高い場所にある松月亭に行く。年代は分からないが、戦後に建てられたものらしい。近くに石を敷き詰めた流れのようなものがあるが、水は流れていない。

谷に下りて、沢渡りを渡る。今は水が流れていないが、もともとは流れていたのだろう。周辺は木が茂っているので、この渓流を眺めるには園内を歩いて見るしかない。

沢渡りの上流にある松濤之滝を見に行く。今は枯れてしまったが、本来は湧水による滝があったのではないかと思う。昔は池を満たすだけの湧水量があったのかも知れない。

平成4年に完成した浄庵を見に行く。入口には、奇妙な燈籠がある。手を洗う仕掛けにも見えるが、何なのだろう。今回は触らぬことにし、ついでに茶室に入るのも割愛して次に行く。

浄庵の近くに西郷隆盛と勝海舟の会見地を表す石碑が置かれている。海舟日記によると、慶応4年3月13日と14日に勝は西郷と会見しているが、その場所は記されていない。後に勝は田町の薩摩屋敷で会ったと語っており(氷川清話)、西郷から勝に宛てた書簡にも田町とあり、この事の裏付けになっている。この会談を受けて西郷は江戸総攻撃を中止し、京都に向かっている。4月1日からは征東先鋒の旅館に本門寺が充てられている事から(池上長栄山本門寺誌)、この頃には西郷も本門寺に来ていたと思われる。海舟日記によると、4月4日には勅使2名と西郷を含む参謀5名は江戸城に入っているが、なお評議する事項があったのか、4月9日と10日に勝は若年寄の大久保一翁とともに池上に来ており、参謀の海江田、木梨と談判している。しかし西郷については記載が無い。この時の談判の模様については「解難録」にも記載されているが西郷の名は出てこない。なお、翌11日に江戸城及び武器の引き渡しが行われ西郷も式に出席したが、勝は出ていない。

浄庵を下から眺める。大きな石が石垣のように組まれていて、上に位置する茶室を格式高く見せている。この石組みは、改修以前からあったのだろうか。

松濤之滝の下流には、擬宝珠のある反り橋が架かっている。この日は、橋の下に水が無かったが、池の水位が高ければ橋の下にも水があるのかも知れない。

松濤園の根庵と鈍庵は、陶芸家で茶人でもあった大野鈍阿の住まいと茶室を平成になって移設したものという。今回は時間の都合で入るのは取りやめ。法話を聞いてから外に出て、大堂にお参りしたあと、池上駅に向かう。この日、途中の呑川には鯉のぼりが泳いでいた。

松濤園には小堀遠州の作庭という伝承があるので、少し調べてみた。小堀遠州(政一。1579~1647)は、備中松山藩主のちに近江小室藩主で、河内、近江、伏見の奉行をつとめる。官位が遠江守であったため遠州と称した。茶道は古田織部に師事し、遠州流の茶道の祖となる。作事(建築など)や作庭の才能もあり、駿府城、名古屋城天守、二条城、大阪城、御所などの作事奉行を務める。江戸では、将軍の意向もあって、江戸城西の丸、品川御殿、東海寺の作事を小堀遠州が務めている。遠州の作庭と伝わる庭園は少なくないが、遠州の作と確認されているのは、その一部であるらしい。遠州は公儀またはそれに準ずる作事を行っており、また多忙でもあったので、個々の依頼に対応する事は難しかったと思われる。たとえば、桂離宮は遠州の作庭と伝えられているが、直接携わった可能性は低いと考えられている。遠州が作った庭には、切石や花壇や芝生を利用した整形的庭園や、借景を利用した自然風景庭園、亀島や鶴島のある御成の庭園があり、また露地に廃物の石造物を設けた庭があったという。現在の庭園の姿だけから遠州の作庭かどうか判断するのは難しそうである。

 

<参考資料>「池上本門寺名園松濤園案内之図」「東京人2007.6」「海舟日記(3)(勝海舟関係資料)」「氷川清話」「人物叢書・小堀遠州」「日蓮宗各本山名所図会」「池上長栄山本門寺誌」


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