夢七雑録

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新宿の富士塚めぐり

2016-10-01 11:43:11 | 富士塚めぐり

前回に引き続き新宿区内の富士塚(跡)として、花園神社の三光町富士、西向天神の東大久保富士、稲荷鬼王神社の西大久保富士の3カ所をめぐってみた。

 

(1)花園神社の芸能浅間神社・三光町富士

靖国通りから花園神社に入り参拝したあと、境内の北東隅にある芸能浅間神社に行く。昭和3年、花園神社の境内に三光町富士と呼ばれた富士塚が築かれたが、昭和39年には取り壊される。その後、昭和56年に三光町富士の塚の石などを利用して建立されたのが芸能浅間神社で、三光町富士に比べると、現在の塚はかなり小ぶりになっている。

三光町富士を築いたのは、少なくとも天明の頃には活動していた内山講という富士講で、藤圭子の歌碑の裏側にその講碑がある、芸能浅間神社内には、このほかに富士参明藤開山碑や題目石、講碑が置かれている。

(2)西向天神の富士塚・東大久保富士

花園神社を出て北に行き新宿六の交差点を右に、文化センター通りを進む。天神小の先を右に行き突き当りを左に折れると、右手前方に西向天神の富士塚、東大久保富士が見えてくる。右に坂を上がり下から富士塚を眺めるが、手前に小御岳石尊大権現の石碑が見えるものの、頂上辺りは陰になって良く見えない。富士塚を左に見ながら坂を上がり、左側の天神山児童遊園に入る。遊具が置かれているが人影は無い。ここは西向天神の境内地では一段高い位置にあり、西から南にかけては急斜面で、児童遊園とはフェンスで仕切られている。

東大久保富士は斜面を利用して築かれているので、児童遊園から見ると低い塚にしか見えないが、下から眺めると大きな富士塚に見えるようになっている。この富士塚は開山記念碑に相当する参明藤開山碑から天保13年に丸谷講という富士講が築いた事が分かっている。江戸名所図会はこれより前なので大窪天満宮(西向天神)の挿絵には富士塚は描かれていないが、嘉永年間の大久保絵図には不二として記されている。この富士塚は大正14年に改修再築されているが、その事を示す丸谷講の記念碑もある。富士塚はフェンスで囲まれているので登るのは止め、西向天神を参拝してから次の富士塚に向かう。

(3)稲荷鬼王神社の富士塚・西大久保富士

 

抜け弁天から左に職安通りを進み、鬼王神社前の信号で左に入ると稲荷鬼王神社がある。この神社は、当ブログでも取り上げたことがある新宿山ノ手七福神の一社で、恵比寿神を祀る神社でもある。稲荷鬼王神社にお参りしてから左側に入ると、裏門に通じる参道があり、道の両側に分割された富士塚が築かれている。この神社が明治27年に浅間神社を合祀したあと、昭和5年になって丸谷講により境内に富士塚が築造される。この富士塚は、昭和24年に道路拡張工事のため取り壊されるが、昭和34年に社務所建設に際して現在の形に改築される。現在の富士塚は昔の姿を留めていないが、裏門の鳥居を潜って、北側に築かれた塚を一合目から四合目まで目でたどり、引き返して南側の塚を五合目から目でたどり頂上奥宮に達すれば、視覚による富士登拝の疑似体験が出来ることにはなる。

<参考>「新宿区の民俗2、3」「新宿区文化財総合調査報告書4」「ご近所富士山の謎」「富士塚ゆる散歩」


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