夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

大沢の里の古民家を訪ねて

2018-11-19 19:49:03 | 東京の文化財

調布飛行場からも近い、大沢の里の水車経営農家と古民家を訪ねてみた。最寄り駅は西武鉄道多摩川線の多磨駅である。多磨墓地前駅だったころには、この駅を利用したこともあるが、現在の駅名に代わってからは初めて下車することになる。

 

(1)武蔵野の森公園

現在の多磨駅の改札は西側にしか無いが、近く駅舎が改装される予定で、東口も造られるようである。駅の東側に回ってみると、すでに駅前広場が出来ており、東に向かう道路が作られていた。東に向かって進み東京外国語大学に沿って先に行くと、武蔵野の森公園に出る。公園内には池も造られていたが、その向こうは調布飛行場で管制塔も見えている。

公園内で暫く待っていれば離着陸する小型飛行機を見ることが出来る。この飛行場は東京都港湾局の管轄で、大島など離島へのプロペラ機が発着する空港である。飛行場の開設は1941年で太平洋戦争中にも利用され、その跡である戦闘機用の掩体壕が今も残っている。

 

(2)大沢の里・水車経営農家

武蔵野の森公園を抜けると水車通りで、案内表示により入っていくと都指定有形民俗文化財の「大沢の里水車経営農家」がある。峯岸家はこの地にあって、文化14年(1817)から代々水車経営をしてきたが、洪水対策として野川の川幅を広げ川底を低くする改修工事が行われた結果、野川の水を取り入れて水車を回すことが困難になり、昭和43年(1968)に水車を停止している。峯岸家は三鷹市に母屋や水車などの建造物を寄贈したが、三鷹市では敷地を買い上げるとともに建造物などの整備を行って、「大沢の里水車経営農家」として、一般公開している。「大沢の里・民家」との共通入館券は200円で、火曜休みである。

旧峯岸家の母屋は東向きで、伝承では文化10年(1813)代に建てられたという。母屋は寄棟造り茅葺の屋根で、座敷、広間、部屋、板の間からなる四間取りになっている。母屋の北側は大正の末に建てられたカッテで、その東側には水車小屋があり、さらに北側には明治時代の土蔵と大正時代の物置がある。

峯岸家の水車は文化5年(1808)の創設といい、その後も度々改造されて多機能な水車になっている。この水車は、玄米や大麦を精白する杵や搗き臼と、粉にする挽き臼を水輪の両側に有する両袖形である。以前は、野川の水を引き入れて差蓋という仕切り板で水量を調節して水輪を回していたが、現在は野川の水を使えないため、敷地内で水を循環させて水車を動態保存しているらしい。

大沢の里水車経営農家を出て野川を飛橋で渡る。写真は飛橋から野川の上流方向を見たもので、左側に旧峯岸家の建物が見える。上流に見える相曽浦橋の西詰(左側)には、箕輪家の水車があったという。この水車は天明4年(1784)の建造で、この辺りでは最も古く、大車と呼ばれていた。峯岸家の水車が新車と呼ばれるのは、大車より後に建造されたからのようである。大車は昭和22年頃までは使用されていたそうだが、現在は無い。

 

(3)大沢の里・古民家

飛橋を渡って野川を上流に向かって少し歩くと、相曽浦橋の手前に「大沢の里古民家」があり、今年11月から公開されている。ここにあるのは旧箕輪家住宅主屋で、創建されたのは明治35年(1902)。三鷹市に寄贈されて三鷹市有形文化財に指定されている。屋根は扠首構造の茅葺屋根だが現在は銅板で覆っている。

旧箕輪家住宅主屋の基礎は礎石の上に土台を載せる工法だが、耐震補強のため現在の工法により復元している。主屋の土壁は荒塗りだけで簡素な仕上げになっている。また、創建当時は釘や金物も使わなかったようである。母屋の間取りは四間取りで、養蚕用の屋根裏部屋が設けられていた。

旧箕輪家の縁側には、現在、ガラス戸があるが、もともとはガラス戸が無く雨戸だけだったようである。なお、箕輪家は湧水を利用して代々わさび栽培を行ってきており、縁側の先にはわさび田があったという。今は、その復活に向けての活動も行われているらしい。

 大沢の里・古民家を出て、人見街道を西に向かえば多磨駅に戻れるが、今回は野川公園を通り二枚橋から東大通りに出て東小金井駅に出た。

 


コメント    この記事についてブログを書く
« 目白から中井までアトリエめぐり | トップ | 成城・旧山田家住宅を見に行く »

東京の文化財」カテゴリの最新記事