夢七雑録

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東尾久三丁目から町屋二丁目へ

2011-02-24 19:12:53 | 都電荒川線に沿って

 東尾久三丁目の停留所から南に入り阿遮院の前に出る。尾久では最も古い寺で、石神もこの寺の持ちであったという。また、この寺に昔あった大門から、大門という地名が出たと言う説もある。この寺を過ぎて、尾久本町通りのT字路に出る。尾久本町通りは、ここから西に尾久橋通りを越えて続いているが、江戸時代の道は、現・尾久橋通りの手前で左に折れて田端に向かっていた。今回はT字路を左に、東に向かって歩く。左折してすぐ、南に向かう道は、新堀(日暮里)に出る江戸時代の道の名残である。尾久本町通りの道を進んで、山門の赤が目立つ満光寺を過ぎ、信号のある道路を渡る。その先の左に入る道は、下尾久と町屋の境をなしていた江川堀の水路跡と思われる。江戸時代、尾久の田畑を潤していたのは、石神井川から分かれた下郷用水(音無川)から分水した用水で、田端から下尾久への道に沿って流れたあと、枝分かれして流れていた。江川堀はこの用水を荒川(隅田川)に流すものだが、下尾久の村絵図には記載が無い。明治と大正の地図では、荒川(隅田川)に流れ込む水路と、尾久の灌漑用水の間が切れており、江川堀の流路は途切れているように見えるが、より詳細な地図を見ると、細い水路ではつながっていたようである。昭和12年の地図には、満光寺の前から、現・第七峡田小近くの荒川(隅田川)に流れ込む江川堀の流路が記されている。ただし、堀として整備されていたのは下流の一部だけで、他は小川のような流れであったらしい。なお、現在は江川堀の全てが暗渠になっている。江川堀の水路跡を過ぎて少し行くと、町屋二丁目の停留所に出る。

 町屋二丁目の停留所の開業は大正2年で、当初の停留所名は町屋であった。町屋という名から、古くから開けた場所であったという説もあるが、江戸時代から明治・大正にかけての町屋は農村地帯であった。町屋に移住する人が急増したのは、関東大震災以降で、その結果、住宅と商店と町工場が混在して密集する地域になったということである。


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