戦争遺跡探訪、館山編である。
名称は「館山海軍砲術学校跡地」である。
ここ館山には砲台跡もある。
加えてそれを操る者の訓練も不可欠だったのだろう。
館山海軍砲術学校跡地 → Map
メモリアルの裏に回ると錨があった。
横須賀海軍砲術学校の分校に必要な大きな演習場がないと実施訓練ができない。ということで、砂丘があったり、館空基地が近くにあるここ館山市佐野に砲術学校が作られたという。
結局、あの館山砂丘も戦争遺跡みたいなものなのだな。
戦争遺跡探訪、館山編である。
名称は「館山海軍砲術学校跡地」である。
ここ館山には砲台跡もある。
加えてそれを操る者の訓練も不可欠だったのだろう。
館山海軍砲術学校跡地 → Map
メモリアルの裏に回ると錨があった。
横須賀海軍砲術学校の分校に必要な大きな演習場がないと実施訓練ができない。ということで、砂丘があったり、館空基地が近くにあるここ館山市佐野に砲術学校が作られたという。
結局、あの館山砂丘も戦争遺跡みたいなものなのだな。
そう、戦争遺跡の探訪を館山で泊りがけでしたことがあった。
その中で、わくわく感がこれ以上ないというほど高まり、そしてそれが崖から落ちたようなことがあった。
2019年2月17日のことである。
軍施設入口を彷彿とさせる標柱を発見。 → Map
もう1本は、建物の陰にあった。2本の門構えである。
この道を進めば、洲崎第二砲台にたどり着くのである。
ここまでは下調べ通りだった。
目的地に着いたらどうしようか。
水が溜まっているだろうか。
長靴は用意しなかったな。
植物が茂っていたらどうはらおうか・・・
そんなことを考えながら車は坂を登って行った。
そして急に目に飛び込んできたものがあった。
「えっ!」
・・・
館山自衛隊近くに戦争遺跡がある。
「旧日本海軍補給廠」と呼ばれる建物である。
そこに気は2019年2月17日に行った。
その時の写真がこれである。
旧海軍補給廠 2019.02.17 → Map
現在は造船会社の倉庫として使われているそうだが見学は不可である。
最近googlomapで見たら、ラッキーなことがあった。
その写真がこれである。
ググルさんを見たら、扉が開いていた画像が手に入った。
それにフィルライト明確化をかけたら、中の様子が見えるでないか。
これは非常に幸運なことである。
実物がますます見たくなったのが困りものだが・・・
ゆきたんくの戦争遺跡巡り。
鹿児島県鹿屋市。
特攻隊の飛び立ったところの一つである。
ここに「鹿屋地下壕第一電信室」という施設がある。
映画「永遠のゼロ」を見て初めて知ったが、特攻隊の仕事の完了を見届ける飛行機がある。
「直掩機」というものだが、戦争末期はそれも飛ばせることのできない状況になった。
搭乗員は特攻突入の際、モールス信号の無線キーを押したまま突入した。
「ツー」という音が途切れたところで特攻任務の完了を知らせるのだ。
それを受信していた場所が地下壕電信室なのである。
この部屋で受信が行われていた。2019.12.26 → Map
地下壕入口
戦時中の仕事とはいえ。仲間が亡くなる瞬間を聞かなければならなかったのはつらかったと思う。そしてその多くは、特攻の成功を知らせるものではなかったのだ。
先人のご冥福をお祈りする。
掩体壕とは、飛行機を守るシェルターようなものである。
先日紹介した旧海軍航空隊笠之原基地にある掩体壕だ。
このように延滞に草が生えていると上空から見つけにくいという。 → Map
掩体内部である。ここには零戦が入っていたそうだ。
戦争当時は多くの掩体壕があったという。
現在では、この掩体壕だけが残っている。
強度を得るために、アーチ型をしている。
少ない資材でも、考えて作られたのだという。
鹿児島県鹿屋には海軍の航空隊があった。
そこに行けば何かある。
戦争遺跡の情報に載っていないことも取材できる。
そう思い訪れた現地。
写真で見たものの他には、見つけることができなかった。
それほど見事に残っていなかった。
広大な畑の角地に寂しく残る戦争遺跡。
それが旧海軍航空隊笠之原基地地下道入口だ。
かつての飛行場に残る痕跡 2019.12.26 → Map
遺構側面に取り付けられている説明版
この笠之原海軍航空基地は、太平洋戦争末期に連合軍の集中爆撃で全壊した。
地下道の入口であるとともに、地下通路指令室だったところだ。
そう、鹿児島県は鹿屋市の旅である。
土地がら戦争遺跡探訪の旅であった。
まず訪れたのは市の鹿屋航空基地史料館である。
鹿屋航空基地史料館 → Map
の外には、所せましとたくさんの飛行機やヘリが展示してある。
その中でも一大きさを誇り、デンと構えているのが「二式大艇」である。
二式大艇の勇姿
こんなのが空を、、、と思ったが、そこは戦争遺跡おたくのゆきたんく、ここ鹿児島までやってきたボーイングの方が大きいことに気づかないで興奮しているのである。
この型の飛行機は初飛行が1941年のことだからなんと、82年前のことになる。日本でもこういう大きな飛行機を作って、洋上の敵艦隊に備えたのである。その経緯についてはここでは書かない。
間近で見て感動したのだ。
ただ単純に感動したのである。
鹿児島の戦争遺跡。
小塚公園に慰霊塔がある。
ここ鹿屋基地から飛び立った908名の特攻隊員の御霊を祀った慰霊塔である。
鹿児島で初めてフェリーに乗った。
そして桜島に渡る。
桜島に着いてすぐに探索を始める。
車に乗り換え、走って2分。
着いたのは桜島海軍基地であった。
山に壕が掘ってあるのだ。
我々のような者が侵入しないように塞がれている。(フェリーターミナル側) → Map
格子の穴から中を撮影する。綺麗に作られている。
太平洋戦争末期、日本海軍の基地があった場所だ。
壕の中には魚雷保管室や動力室があった。
海軍特攻戦隊の一つ「第五特攻戦隊」の司令部で、近くには通信施設もあり、佐世保鎮守府や南九州一帯に配備された各突撃隊との連絡を行っていた。
との解説があったが、自分で深くお勉強をした訳ではない。
時間のある時に調べなくてはと思う。
掩体壕(えんたいごう)というものがある。
飛行機を格納する施設だ。
体外コンクリートのカバーが飛行機を守る形になっている。
その中まで無蓋(むがい)掩体壕というのがある。
その名の通り蓋がないのである。
時刻も18時近くでこの季節(12/25)だと真っ暗である。
でも行かなくてはいけない。
といことで、掩体壕公園に駆け付けた。
レンタカーのヘッドライトで照らし、近くによる。
隼Ⅲ型甲が中に納まっている。近くに爆弾が落ちても、十分に爆風から守るシェルターになっている。 着陸した飛行機は、すぐに掩体壕に格納し、飛行機の上に枝などをかけてカムフラージュしていたという。
暗いし、寒いし、怖いし、 → Map
照明は車のヘッドライトのみ。
もちろん裏側は真っ暗である。
ちょいと覗いてみる。
見つけてしまった。
視界の奥の方に看板がある。
タコツボとある。
近くに寄ってみる。
傘を片手に、カメラを構えフラッシュを焚く。
再生モードで看板の字を読むと、この奥にタコツボがあるらしい。
飛行機の掩体壕だけではなく、人用の掩壕(えんごう)ということだ。
ゆきたんくは、閉所、高所の恐怖症の他に暗所の恐怖症を持っている。
限界である。
ここから逃げるように後にした。
「通信所」跡から約100m北へ移動。
ここには「戦闘指揮所」がある。
旧陸軍特攻隊「戦闘指揮所」跡 → Map
映画ロケ地「俺は、きみのためにこそ死にに行く。」
映画のロケ地にもなっている場所。(ここにきて初めて知った・・・)
故石原慎太郎氏が制作指揮・脚本を手掛けた2007年の日本映画だ。
今の日本があるのは、、、
映画のロケ地にもなっている場所。
暗くなっての訪問だったので、周囲に何があるかは確認できなかった。
この3日間で回れるだけ回ろうと思っていた。
もちろん、計画も立ててある。
その計画通りに、順番に回っているのである。
まぁ、グーグルマップに表示される営業時間が「24時間」という所を回っているので時刻を守らなくてはならないという縛りはない。
前回の「三角兵舎跡」の次の物件である。
10分後のことである。
この碑が遺跡跡と考えてよいだろう。 → Map
建造物は残っていないが、この地でモールス信号のボタンを押したまま敵艦へ向かって行った特攻機の信号音を聞いていたのだろう。
つらい仕事だったと思う。
2012年に初めて知覧に行った。
特攻基地の一つとして、学ばなければならないと思ったからだ。
それはもうホームページに造ってあるが、2回目の2019年の訪鹿は今まで見れなかった所を見て回ることができた。
土地勘が1回目とは全く別ものになっているからだ。
学者さんで何度も行かれている方はなお更だと思う。
2019年12月25日~27日までの3日間の探索だった。
特攻平和記念館にも行ったが、今回は別の所に触れようと思う。
「三角兵舎跡」を見に行った。
特攻平和記念館の敷地の中には、見学用の三角兵舎があるがそれではなく実際にあった所の跡地に行った。
画像処理で明るく見えるが、実際には真っ暗に近かった。
時刻は17:30である。・・・ → Map
この建物が兵舎跡ではない。
階段を上って高台に上がると、東屋があった。
そこには、「三角兵舎地区の記録」という資料が展示してあった。
照明もない。夕刻にここを訪れる人はいないのだろうな。
その横には掲示板があった。
この掲示板の奥の土地に9棟の三角兵舎が建てられていた。
前回の投稿では書き忘れたが、三角兵舎とはその名の通り、家屋の屋根の三角部分が土地に載っているの三角に見えるのだ。
住居部分は半地下で地面の下なので、外から見ると三角の兵舎に見えるのだ。
そして、これ、特攻隊員たちが出撃するまでの起居していた場所である。
そう、日付を書いてなかった。
2019年6月1日のことである。
うん、さらに進む。
切通の先には、愛のトンネルがある。
砲台施設である。猿島全体の弾薬を貯蔵する大本の弾薬庫として利用されていたという。
反対側から見るとこんな感じ。明るい所から撮っているからはっきりと写る。
ここから順路に従って歩いて行くと、機銃を取り付けた砲台跡が転座いしている。
台座跡。ボルトが残っている。
そこを抜けると、待ちに待った「仮面ライダーファン」の聖地にたどり着く。
ブラック将軍が、ゲルショッカーの団結式をした所だ。
草木ぼうぼうだが、この一番高い所にブラック将軍がいたのだ。 → Map
望楼部分。
内側から。
もう、耐久度がどれくらいあるのか・・・
台の上に上ることは叶わなかったので中を見させてもらった。
あのテレビの中にあった、場所に自分がいることの嬉しさ。
小学校5年だったかな。
でもリアルタイムで行っていたら、そんなに感動はしなかっただろう。
いや、この基地から飛び降りていたかもしれないかな。
忙しさにかまけて、ホームページのネタが腐り始めている。
1 神奈川県横須賀市
2 鹿児島県知覧市と鹿屋市
3 長野県長野市・松代
4 広島県呉市、広島市、江田島市
5 栃木県那須烏山市
6 埼玉県桶川市、越谷市、入間市、ふじみ野市
7 東京都北区
まだまだあるんだよ。
なんのネタか。
全部戦争遺跡ネタ。
これはまずいと思ったので、蔵出しをしていく。
時間を見てホームページつくりはするが、少し忙しいね。
今日は神奈川県の横須賀に触れる。
そのネタの中でも、仮面ライダー1号2号世代の聖地である猿島に触れる。
ゲルショッカー結成の地でもある。
まずは、発電所。
明治28年(1895年)に建てられた。
現在も現役で島の電力供給に使われている。
当時は石炭を燃やして蒸気で発電していたという。
島高台中央の照明の電気だったという。
ハンドホール。
電気供給のケーブルを確認するための穴。
案内の方に教わったことは、手が入るから「ハンドホール」、人が入るから「マンホール」というのだそうだ。
そしてながらかな坂道をの登っていくと切通が見えてくる。
切通というとものものしくなってくる。
その切通には、4つの兵舎と弾薬庫がつくられていた。
切通を抜けてすぐの施設。
記憶の新しいうちに、整理しないから弾薬庫か兵舎だか分からなくなってしまう。
まぁ、作りから兵舎だろう。
近くに同じような施設があり、この二つの間にトイレ跡があった。
続く。