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つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

西岡常一・宮上茂隆・穂積和夫「法隆寺」

2021年09月12日 | 斜読

book234 法隆寺 西岡常一・宮上茂隆・穂積和夫 草思社 2008.10  斜読・日本の作家一覧> 

 1980年ごろ、著名な建築を図解し、分かりやすい説明をつけた本が数多く出版された。子ども向けであるが、その道の達人が筆を執り、事実に基づいた説明を書いているので大人にも十分に手応えがある。
 「法隆寺」も昭和の宮大工として名を残す西岡常一氏(1908-1995)と日本建築の研究者として知られる宮上茂隆氏の執筆に、イラストレーターの穂積和夫氏が絵を描いていて、さっそく購入し、奈良の旅の資料とした。(子どもが小学生のころに見せたが早すぎた)。
 日本の木造とヨーロッパの石造を対比させた「木の文化・石の文化」をテーマに出張授業を行う機会があり、図の多いこの本を参考にしようと改めて読み直した。世界最古の木造建築として知られる法隆寺であり、中学の修学旅行や大学の古建築研修で見学し、2008年2月にも訪ねているので基本的なことは分かっているつもりだった。が、読み直して、理解に曖昧な点の多いことに気づいた。
 通り一遍の知識におぼれてしまうと先入観でものをみるようになってしまう。

 2019年3月に法隆寺、中宮寺を訪ねたときも「法隆寺」に目を通し、2021年8月に紀行文奈良の旅を書くときに要所を参考にしたので、2010.10の斜読b234に加筆し、再録した。
 
p4~5 日本には良質な檜が豊富にあったことが木造建築を発展させた・・、神社建築は単純な建物だからもとの通りにつくりかえることができた(伊勢神宮などの式年遷宮)・・、仏教の伝来とともに中国式の複雑なつくりで頑丈で長もちする寺院建築が伝わった・・、日本には奈良時代の堂塔が20余も残っていて、法隆寺の金堂と五重塔が世界最古の木造建築・・などの常識が、簡潔に整理されている。
p6~7 聖徳太子(574-622)が斑鳩に寺(=法隆寺)を造営したいきさつ、先立つ587年の仏教推進派の蘇我氏と反対派の物部氏の戦い、中宮寺建立、政権争い、大化の改新、斑鳩寺炎上が簡潔に記されている。・・教科書で習った日本史の復習だが、簡潔すぎると話の面白さに欠ける。主題が法隆寺だからやむを得ないが、子ども向けには要点を絞る工夫が欲しい。親の務めかな?・・。
p8~11 天武天皇即位後、法隆寺再建が始まる。土地区画による新たな敷地では、南に東、北に金堂の配置が難しく、東に金堂、西に塔の配置になったなどが紹介される。・・塔、金堂の南北配置と東西配置を図解してくれると理解が早い。これも親の務めのようだ・・。

p12~13には再建金堂の展開図が大きく描かれ、北面の西側から文殊菩薩、弥勒浄土、薬師浄土、普賢菩薩が図化されている。同じく東面に十一面観音、釈迦浄土、半跏菩薩、南面は観音菩薩、勢至菩薩、西面は半跏菩薩、阿弥陀浄土、聖観音菩薩が図化されている。
 金堂は入ることができないし、パンフレットなどの文字情報だけでは空想しにくいが、図解に加え菩薩や浄土の配置が説明されると、当時の仏教思想が理解できる・・子どもには補足が必要・・。

p14~15は金堂の礎石作りの話、水平を確かめる水ばかり(p18にも再掲)、水糸の知恵は子どもの興味を引く。
p16~23には木材の切り出し、木材加工の道具、切り出した柱をまず八角形に削り徐々に丸くする手順、円柱の中ほどを上下より太くするエンタシスが図解されている。
p27~28の斗と肘木の複雑な組物は、図解されると理解が早い。p29~30その斗・肘木に垂木、桁をのせ、p18~29屋根の骨組みが出来上がっていく。ところどころ専門的な解説が入るが、図解が理解を助ける。子どもでも分かりやすい。
p30~31で1階の屋根の骨組みが完成、p32~33で2階の骨組みを組み、p34~35で入母屋屋根が完成する。
p36~41は瓦を焼く窯、瓦の種類、瓦の葺き方、瓦の重さを支える工夫が図解される。解説が難しくても図だけで要点は理解できる。

p42~43はいまではほとんど見られなくなった土壁の作り方、p44~45に塗装の色と役割の紹介と、連子窓、高欄=手すり、扉の図解、p46~47に石の加工と基壇の作り方の図、p48~49に室内の塗装と落書きが図解される。
p50~51には室内の壁に描かれる仏教画、p52~53に仏像の安置が図解され、p54~55金堂が完成する。

p56~57金堂の次は塔の建設である。天武天皇の跡を継いだ皇后の持統天皇の時代に着手、塔は金堂の高さの2倍30mで計画された。p58~59吉野から檜を切り出し、いかだに組んで川に流す。
p60~61心柱を支える巨石=心礎を地下に埋め、心礎の上面に穴をうがち、釈迦の遺骨=舎利を納める。心柱が釈迦の象徴になる。
p62~63木材を加工し、p64~65心柱を立て、周りを埋め戻し、基壇をつくる。
p66~67には部材の名称と組み立ての順番が図解され、p68~71に組み立ての断面が図解されていて、五重塔の組み立てを現場で見ている気分になる。
p72~73は心柱の最頂部に立つ相輪の詳細が描かれている。相輪の詳細は肉眼では分からないので、図解を見ると理解できる。
p75~76屋根に瓦を葺き、壁を仕上げ、連子窓、扉を取り付け、p76室内を仕上げる。金堂と同じ工程なので図解は簡略されている。
p77五重塔が完成する。五重目の屋根の大きさは一重目の屋根の半分にしてあり、安定感と天に昇る勢いを感じさせる。

ところが、金堂の1階の屋根の四隅の軒が下がってきたので、p78~79金堂の軒を支える柱を立て、裳階と呼ばれる庇を回して外観を整えた。五重塔の1階にも裳階を加えてバランスをとることにした。五重塔だが、裳階に気づかないと六重に勘違いしてしまう。
p80~81は五重塔1階の仏壇の釈迦涅槃の彫刻、p82~83は中門と回廊が描かれている。
p84~85には飛鳥寺、四天王寺の配置図を対比させながら、法隆寺建設に有力者の援助があり、講堂、鐘楼、経楼がつくられ、p86~87いまに残る法隆寺伽藍ができたことが鳥瞰図で図解され、どのように法隆寺がつくられたかが完結する。

 小学6年以上のための図解本なのでもっと専門的な知識を得たい人のため、p88~93に宮上茂隆氏が解説を書いている。
 p94の西岡常一氏のあとがきに、・・使うときには自分が土になりきり、木になりきり、石になりきって仕事に勤める・・と述べている。宮大工の徹底した生き方を感じる。
 建築は出来上がってしまうと作り方の手順や骨組みの詳細は見えなくなってしまう。それを分かりやすく図解した本は子どものみならず大人の理解も助ける。・・解説は難しいので、子どもに読み聞かせるときはあらかじめ目を通し子どもが興味を持つような補足をするとよい・・。
 この本は「日本人はどのように建造物をつくってきたか」が丁寧に解説されている。法隆寺拝観者には絶好の副読本である。  (2010.10+2019.9)

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奈良を歩く7 西大寺

2021年09月09日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く7 2008.2+2019.3 西大寺 称徳天皇・叡尊・四王堂・塔跡・本堂・愛染堂・鐘楼・南門 

 2008.2、唐招提寺をあとにして薬師寺駐車場に戻り、秋篠川と平行する県道9号線を北上し、西大寺に向かった。
 東大寺大仏殿(聖武天皇により751年完成、752年大仏開眼)は教科書でも習うし、何度か拝観した。奈良時代の東大寺は南大門、東西に七重塔、金堂=大仏殿、講堂の配置で、寺域は50町≒50ha≒707×707mと平城京最大の広さだった。
 一方の西大寺についての知識は乏しい。今回は知識の補充に西大寺に寄るつもりでいた。

 西大寺保育園隣の西大寺駐車場に車を止める。案内板が見当たらない。適当に歩いていて、四王堂前に出る。
 古さを感じさせる築地塀の通りが延びている。正面には大屋根の堂宇が見える(写真2008.2)。左右の築地塀の奥にも、木々のあいだに瓦屋根が見える。
 そのまま歩いていくと、石積みの基壇と寄棟屋根の堂宇が建っている(写真2008.2)。基壇には塔跡と記され、堂宇は本堂だった。
 先ほど拝観した法隆寺、薬師寺、唐招提寺の伽藍配置と異なり、境内が雑然としているように感じる。説明書きが見つからず、どこにも人の気配がしない。
 予習をしてから次の機会に出直すことにして、駐車場に戻り、興福寺に向かった。

 話は飛ぶ。2013.3に、お水取りがオプションで付いていた大和西大寺駅に近いかんぽの宿奈良に泊まった。宿から平城京の朱雀門、大極殿が見えたので、平城京が次の旅の候補になった。
 2017.5、東京三井記念美術館の「奈良・西大寺展」で、国宝「金銅透彫舎利容器」、重要文化財「愛染明王像」「文殊菩薩像」を見た。叡尊による西大寺の隆盛ぶりが説明されていた。
 2019.3に平城京を訪ねる奈良の旅でかんぽの宿奈良に泊まった。西大寺は近い。予習をして西大寺を再訪した。

 西大寺に話を戻す。
 758年、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が淳仁天皇に譲位するが、主導権を巡る朝廷内の対立が深まり藤原仲麻呂が反旗を翻す。孝謙上皇は金銅四天王の造立を発願し、勝利する。765年、孝謙上皇は称徳天皇として即位、金銅四天王を祀る西大寺に着手する・・日本史は詳しくないが、権力争いが絶え間ないようだ・・。
 父聖武天皇の東大寺を意識したのか、当初の西大寺は、寺域31町≒31ha≒557×557mと東大寺に次ぐ広さであり、南大門、東西に五重塔(七重塔を計画し断念したらしい)、薬師金堂、その奥に弥勒金堂の配置だったとされる・・金堂を前後に並べるのは珍しい・・。
 しかし平安遷都、堂宇焼失で衰退し、一時は興福寺の支配となる。
 鎌倉時代、叡尊上人が再興し・・三井記念美術館でも叡尊が紹介されていた。叡尊がいなければ西大寺は消滅していたかも知れない・・、南大門、塔、南-北の金堂が配置されたが、寺域は奈良時代の半分以下になったらしい。
 その後も戦乱、火災にあい、堂宇を失う。2008.2で境内を雑然に感じたのは、多くの堂宇を失い伽藍配置が崩れたためのようだ。

 2019.3、元興寺参拝後、近鉄奈良駅から2駅目の大和西大寺駅南口で降り、案内図を見ながら交番を左に曲がる。右に真言律宗総本山西大寺と看板を掲げた白塀が延び、80mほど先に、西大寺東門が四脚門に瓦葺き切妻屋根を乗せて建っていた(写真2019.3)。
 一礼して門を入ると、土塀が延びていて、2008.2の記憶がよみがえる。境内伽藍案内図を見ると、土塀に沿って法寿院、清浄院、華蔵院、増長院などの塔頭寺院が並んでいる(写真2019.3)。江戸時代に再建された塔頭が多く、当時は13院ほどあったそうだが現在は7院が散在して建っている。

 塔頭寺院に並んで、南面した四王堂が建つ(写真2008.2)。1674年の再建で、間口3間、奥行き2間の小さな堂に、寄棟屋根を乗せ、裳階を回している。寄棟屋根に対し裳階が大きすぎるように思う。
 当初は孝謙上皇が発願した四天王が祀られていたそうだが、その後の火災で焼失?、盗まれ?、足下の邪鬼は奈良時代作だが、四天王像はその後の再造だそうだ・・本堂、四王堂、愛染堂、宝物を展示した聚宝館の拝観は16:30終了で、すでに17:30ごろだったため拝観していない・・。

 築地塀の通りを進むと、左に塔跡の石積み基壇、右に本堂、正面に愛染堂が並ぶ。
 称徳天皇は東西に八角形の七重塔を希望したらしいが資金難?で断念し、四角形の五重塔が建てられた。その両塔は焼失する。
 叡尊は東塔を中心にして、南大門-五重塔-金堂の配置で再興する。しかし五重塔も1502年に焼失し、その後の再建がならず、石積み基壇だけが塔跡として残った(写真2019.3)。
 ・・法隆寺などが兵火、火災に遭わず当時の姿をいまに残しているのは奇跡的だということがよく分かる・・。
 石積み基壇は柵が巡らされ、立ち入り禁止である。基壇に上ると本堂がよく見えるのだが・・。

 本堂は叡尊によって再建されたが焼失し、1804年ごろに再建された(写真2019.3、重要文化財)。南門-塔の真っ正面に位置し、間口7間、奥行き5間、本瓦葺きで、南正面に向拝を延ばしているが、寄棟屋根のため目線からは屋根が軽く見えてしまい、本堂の重厚感が感じにくい。
 外部は桟唐戸で仕上げ、連子窓を設けるなど、和洋のつくりが見られる。

 愛染堂は1767年ごろの公家住宅の移築で、塔に向かって東面している。入母屋屋根、桟瓦葺きの堂である(次頁写真2008.2)。
 鎌倉時代作の重要文化財愛染明王坐像(写真web転載)を祀っていることから愛染堂と呼ばれる・・時間外のため拝観していないが、2017.5、三井記念美術館「奈良・西大寺展」で拝観した・・

 南門に向かう右=西に、袴腰の鐘楼が建つ。江戸末期~明治初期に廃寺から移築したそうだ(右写真2019.3)。

 本堂からおよそ100m南に南門が建つ(写真2019.3)。鎌倉~室町時代の再建で、切妻屋根、本瓦葺きの四脚門である。質素なためか南大門ではなく南門と呼ばれる。ここが西大寺の正門だが、通りから奥まっているうえ、周りは住宅が並んでいて正門の重々しさを感じにくい。

 主要な伽藍を見終わった。西大寺の始まりや中興の叡尊の活躍を予習してきたが、兵火、火災、再建、移築などで伽藍配置が雑然とし、伽藍の様式も様々なため、西大寺の特徴、西大寺らしさがつかみにくかった。あるいは西大寺を真に理解するための修行がまだ足りないのかも知れない。
 境内を戻り、東門で一礼し、交番を曲がり、近鉄橿原線をくぐり、秋篠川を渡り、かんぽの宿奈良に戻った。  (2021.9)

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奈良を歩く6 薬師寺玄奘三蔵院伽藍 唐招提寺

2021年09月06日 | 旅行

日本を歩く・奈良の旅>  奈良を歩く6 2008.2+2013.3 薬師寺玄奘三蔵院伽藍 唐招提寺 鑑真・南大門・金堂・講堂・芭蕉・校倉

 2008.2、薬師寺参拝後、食事処を探して北に歩き、蕎麦切りを食べ、そのまま唐招提寺に向かった。唐招提寺は金堂修復中だったため講堂で参拝を終え、薬師寺駐車場に戻り、西大寺に向かった。その日の夜に帰る予定だったから、見残しが多い。
 2013.3、電車・バスで奈良を巡ったとき、近鉄橿原線大和西大寺駅そばのかんぽの宿奈良に泊まったので、2つめの西の京駅に出て見残した薬師寺玄奘三蔵院伽藍、修復を終えた唐招提寺金堂を訪ねた。
  近鉄橿原線西の京駅から、薬師寺は駅の南東200mほどに位置するが、玄奘三蔵院伽藍は北東150mほどに建てられている。

 教科書で習う玄奘三蔵(602-664)は、唐の建国間もない 630 年ごろ仏法を求めて天竺に向かう。河西回廊を西に進み、高昌国で仏教を説いたあと、天山北路を経由して天竺入りする・・2000.8、シルクロードの旅で高昌故城を訪ね、玄奘三蔵を復習した(中国西北シルクロード13)・・。
 玄奘三蔵は、643 年、天竺で修得した仏法を唐に伝えるため、数多くの経典、仏像とともに天山南路を経由し、645 年、長安で太宗皇帝(598-649)に経典、仏像を献上し、ねぎらいの言葉を受ける(中国西北シルクロード20)。
 天竺などでの玄奘三蔵の見聞をまとめたのが、「西遊記」のもとになった「大唐西域記」である。
 玄奘三蔵が天竺で究めたのは「唯識(ゆいしき)」の教えだそうで、日本では「法相宗」が唯識を究める学派になり、現在は薬師寺と興福寺が法相宗の大本山である。
 1942年、中国・南京で玄奘三蔵の頂骨が発見され、日本仏教会に分骨された。1981年、玄奘三蔵~唯識~法相宗大本山の縁で薬師寺も分骨を受け、1991年に分骨を祀る玄奘三蔵院伽藍が建てられた。
 まだ新しさの残る石敷きの参道の正面に回廊が巡らされている(写真)。朱塗りの丸柱、緑色の連子窓は「青丹よし奈良」のイメージであろう。

 門を入る。回廊を巡らせた中庭の中央に八角形平面の玄奘塔が建つ(写真web転載)。
 朱塗りの丸柱、緑の連子窓は青丹よしを連想させ、八角形の本瓦葺き屋根、八角形の本瓦葺きの庇は八葉蓮華を連想させる。
 「奈良を歩く4 法隆寺夢殿」で述べたように、胎蔵界曼荼羅では大日如来を八葉蓮華の中心とし、東、南、西、北に如来四仏、東南、西南、西北、東北に四菩薩を描いている。
 玄奘塔の八角形の中央に、八葉蓮華の中心の大日如来にイメージを重ねて玄奘三蔵の分骨が祀られているのであろう。シルクロードの旅を思い出しながら、合掌。
 回廊北側の大唐西域壁画殿には、平山郁夫氏(1930-2009)の大唐西域の風景が壁面に余すところなく描かれ、圧倒された。

 2013.3、玄奘三蔵院伽藍から北に350mほど歩くと、鑑真が創設した唐招提寺がある。
 途中の2008.2に薬師寺を出たあと蕎麦切りを食べた食事処を過ぎ、250mほど歩いた右に唐招提寺南大門の堂々たる構えが見える(写真)。
 南大門は、1960年に再建された間口5間、切妻屋根、本瓦葺きで、膨らみを持った素木の丸柱、屋根を支える斗供は、簡潔なつくりに風格をにじませている。
 ・・2008.2では、阪神淡大震災後の調査でたわみ、ゆがみ見つかったため修復工事中で、金堂に覆いが掛けられ、周辺は柵で囲われ立ち入り禁止になっていた。以下は2008.2+2013.3の記録である。

 鑑真(688-763)は教科書でも習う。唐の時代、揚州に生まれた名僧で、揚州大明寺で律を講じていた742年、唐で修行中の日本人僧栄叡、普照が訪れ、奈良の都で律を教えてくれる弟子の紹介を頼んだ。鑑真は弟子とともに自ら渡航しようとするが、船の難破や漂流などで5回の渡航は失敗に終わり、犠牲者も出、鑑真自身も失明する。
 鑑真の熱意はすさまじい。失明にもかかわらず6回目の渡航に挑戦し、ついに753年に薩摩に着き、754年に入京する。同行者は僧17人、画師、彫刻家、刺繍工、石碑工など、のべ185人とされる。
 聖武上皇はその労をねぎらい、東大寺で鑑真を戒師として受戒を授かる。鑑真は、その後、大僧都に任じられるが、759年、高齢のため大僧都の任を降り、大和上として戒律を教示する寺を建て、唐招提寺と称した。律宗総本山唐招提寺の始まりである・・戒律、戒師、受戒、大僧都、大和上などの正確な理解は棚に上げる、ご容赦・・。
 唐招提寺は南大門-金堂-講堂が南北に一列に並ぶ。塔はない。戒律を究める専修道場のためであろう。

 当初の寺は簡素だったようだが、8世紀後半、弟子の如宝の尽力で金堂が建てられた(写真2013.3、国宝)。間口7間、奥行き4間、入母屋屋根、本瓦葺きで、重々しい屋根が揺るぎなさを感じさせる。
 修復時の調査によると元禄年間に改修されていて、屋根が創建時よりも高く手直しされたそうだ。前掲写真から屋根が低い金堂を想像すると、間口が7間のため横長が強調され屋根がつぶれたように見えてしまう。目の高さからバランスを考え、屋根を高くしたのであろう。柱の膨らみ=エンタシスと同じ視覚に基づいたデザインである。屋根が重々しくなったので揺るぎない重厚感が表れている。
 屋根の両端に鴟尾が飾られている。向かって左=西は奈良時代、右=東は鎌倉時代で、国宝である。肉眼では見分けがつかないが模造品で、本物は新宝蔵に保管されている。

 金堂中央に、本尊国宝盧舎那仏座像が3mを超える高さから見下ろしている(写真2013.3)・・2008.2金堂修復時には仏像は講堂に移されていた・・。
 盧舎那仏座像は、奈良時代に多く用いられた脱活乾漆造(粘土で像の原型を作り、その上に麻布を何枚も漆で張り重ね、乾燥後、内部の土を取り除いて表面を仕上げる方法)で、細かな細工ができ、柔らかな表現が特徴である。
 盧舎那仏座像の右に高さ3.36mの本尊国宝薬師如来立像、左に高さ5.36mの本尊国宝千手観音菩薩立像が並び、参拝者を穏やかな目で見下ろしている。こちらは木心乾漆造(原型を木彫で作り、麻布を漆で張り、仕上げる方法)である。布を張った細工なので、穏やかな表現は変わりなく見える。
 3仏像を守護するように、持国天、増長天、広目天、多聞天の国宝四天王立像と、国宝梵天立像、国宝帝釈天立像が並ぶ。尊顔を一つ一つ拝し、合掌する。

 金堂と講堂のあいだの右=東に鼓楼が建つ(写真web転載、国宝、左後ろが講堂、右端が重要文化財礼堂・東室)。鎌倉時代の1240年に再建された入母屋造り、本瓦葺きの2階建てである。鑑真が唐から請来した仏舎利を安置しているため舎利殿とも呼ばれる。
 
 金堂の北に講堂が建っている(写真2013.3、国宝)。8世紀後半に平城京の東朝集殿を移築し、改造して講堂としたらしい。間口9間、奥行き4間で、当初は切妻屋根、本瓦葺きだったが、鎌倉時代に入母屋屋根に改修された。
 講堂の本尊は重要文化財弥勒如来座像で、鎌倉時代の寄木造りで目鼻がはっきりと表現されている。隣に国宝持国天立像と国宝増長天立像が並ぶ。木彫だが表現が細かく、彫りも深い。奈良時代、鑑真とともに来日した彫刻家の作と推定されている。
 ・・2008.2の金堂修復時には金堂の仏像が講堂に移されていて、講堂の仏像と同居していた。一堂に会した仏像はありがたいことであるが、国宝、重文の仏像に目がさまよってしまった・・。
 合掌して講堂を出る。

 講堂の北に松尾芭蕉句碑が置かれている。芭蕉(1644-1694)が1688年に唐招提寺を訪れ、鑑真和上坐像を拝したときに詠んだ「若葉して御目の雫拭はばや」が刻まれている。
 北原白秋(1885-1942)の歌碑もある。白秋は目を患っていたためか4回も訪れていて、その一首「水楢の柔き嫩葉はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ」の歌が刻まれている。
 失明しても日本に律を伝えようとする鑑真のすさまじいまでの熱意が、俳人、歌人の心を揺さぶるようだ。・・凡人には句も歌も浮かんでこない・・。

 北原白秋歌碑のかたわらを過ぎると、木々を背にして北に宝蔵(左写真2008.2、国宝)、南に経蔵(右写真2013.3、国宝)が建つ。
 経蔵は唐招提寺創建以前のここの屋敷の米倉を改修した高床式の校倉で、日本最古の校倉とされる。
 宝蔵は経蔵より一回り大きい高床式の校倉で、8世紀、唐招提寺創建時に建てられたそうだ。いずれも寄棟屋根、本瓦葺きである。
 校倉も教科書で習う。教科書を復習している気分になる。
 南大門に戻る。2008.2は薬師寺駐車場まで歩き、車で西大寺に向かった。
 2013.3は西の京駅まで歩き、近鉄橿原線で大和西大寺駅まで行き、特急に乗り換えて京都駅へ、京都で夕食をとり帰宅した。
 奈良は奥が深い。奈良の旅は続く。  (2021.9)

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箒木蓬生「日御子」あらすじ2

2021年09月02日 | 斜読

book534 日御子 箒木蓬生 講談社 2012  あらすじ2  斜読・日本の作家一覧>  

 辰韓から、日御子弥摩大国王の思慮を賞賛する親書とともに、30枚の鏡、鉄、加えて朱の願いで馬車のひな形と図面が贈られた。
 日御子は完成したひな形馬車が気にいり、馬当番に決まった炎女と宮郭内を走る。大きな馬車もでき、馬車に乗った日御子は炎女を連れて宮郭内を歩き、眺望台で平野を眺めるのが日課になった。
 炎女は日御子に戦いのむなしさを話し、あずみの三つの掟を伝える。
 日御子は30の倭国の国々に、炎女が起草した親書を送るよう大臣に指示する。親書への反発や中立もあったが、和親の返書は多かった。ただ一つ、弥摩大国の南隣の求奈国とは長年対立していて、使者2名はいつまでも戻らない。
 眺望台で毎日祈りを上げていた日御子が、二人が骸になった言い出す。ほどなく、首をはねられた使者が運ばれ、埋葬を終えたと報告された。
 日御子は眺望台の下に改葬するよう指示し、その日以降毎日、日御子は炎女を供に、眺望台で祈りを捧げる。日御子の祈りはだんだん長くなり、やがて天の声を聞くようになる。

 話を端折る。日御子に4歳下の弟、照日子生まれる。王妃亡くなる。王、元気を失う。
 対立していた求奈国王死去のため、日御子は弟照日子を弔問に向かわせるが、なかなか戻って来ない。重臣が心配する前で日御子が祈りを捧げると、父王の声に代わり「わたしの命と引き換えに戻ってくる、あと2日待て」と言い、日御子は気を失う。
 間もなく父王が息を引き取り、2日後、照日子らが戻る。
 倭国各地から日御子を倭国王にとの親書が届く。日御子は各地を結ぶ王道を整備し、伊都国に出先の役所となる一大率を設置、照日子を長官に任命する。一方で大型船の建造に取りかかる。

 炎女の父朱没す、母没す。炎女も年を取り、弟の灯の子ども在に使譯の三つの掟と四つ目の教えを改めて伝え、形見に刀子を渡す。
 炎女は、日御子が耳元で話す「人と人をつなぐのが使譯、その掟、教えを炎女から学んだ、私は天と人をつなぐ使譯」を聞いて感涙し、息を引き取る。
 在は日御子のもとへ参上し、在には双子の息子銘と娘鋏女がいて、求奈国の使譯阿住圭と親交があり、圭の息子録と鋏女の縁組みをしたいと願い出る。日御子は慶事、と答える。

 ここで第2部日御子が幕になる。第1部が安住灰-庄-針の3代、第2部は針の娘で安潜に嫁いだ江女-朱-炎女の3代が軸になる。第2部の終盤に、安潜炎女の弟灯の子ども在、在の子どもの安潜銘と、いずれ阿住圭の息子録に嫁入りする鋏女が登場し、第3部の流れを予感させる。

第三部 魏使は安潜在が息子の銘に回想を語りかけるところから始まる。第1部は祖父灰が孫針に、第2部は祖母江女が孫炎女に回想を話し始めたが、第3部は父在から子銘になった。
 回想は20年前に戻る。日御子が重臣に漢が滅びると告げる。漢のあと、群雄割拠ののち魏、呉、蜀に分立したので、日御子は、いまを逃さず、生口10人を連れ、在を使譯にし、まず楽浪郡の南に設置された帯方郡に向かい、機をうかがって魏に朝貢せよと命ず。
 新たな船には舵、帆が加えられ快調に海を渡り、伽那国を経て、戦禍の残る帯方郡に入る。帯方郡太守は、残党征伐が終わるまで待ち、魏の海船で山東半島まで行き、その先から陸路を使うよう助言する。
 陸路では馬車5台に分乗し、洛陽に着く。明帝は病で謁見はできなかったが、日御子宛の「親魏倭王」の印綬と金、太刀、銅鏡、真珠などの回賜品を授与される。

 明帝が没し、嫡男の斉王が跡を継ぐ。洛陽に滞在していた在たちは、翌々年に開かれた朝賀の席で、改めて印綬、回賜品が紹介されたあと、斉王は帰路に魏の使者を同行させると告げる。
 魏の使者8名とともに陸路で山東半島に行き、さらに大きな魏の海船に乗り、伊都国の一大率に3年ぶりに帰り着く。
 魏の使者たちは途中の倭の国々、島々を調べ、記録していた。また、魏の使者は弥摩大国を見て「田地は千里に布く。一面の緑が美しい」と感嘆する。・・国土の違いも随所に描かれている。
 日御子は70歳になるが、魏の使者に朗々と「倭と魏が遠く離れていても天ではつながっている、天の明帝に感謝を伝える」「親魏を倭国に広める」と話す。

 3年後、日御子は、在の息子で28歳の銘を使譯とし、生口20人と豪華な献上品を持参した魏への使者を送るよう指示する。
 在は銘に使譯の三つの掟、四つ目の教えを始め、代々が竹簡、木簡に書き記した記録を伝えたのち、銘の双子の妹で求奈国の阿住録に嫁いだ鋏女に会いに行く。
 録と鋏女夫婦には3人の息子がいる。録は3人を使譯として育てていて、長男浴は求奈国、次男は東の国、三男は南の国に婿入りさせたいという。浴は、銘の息子治と同じ年で、顔立ちが似ていた。
 求奈国には火山があるため鉄を溶かすことができ、鉄が豊富で、馬も大きく、馬車が有用されている。
 求奈国が高千穂国と手を結び、弥摩大国に進攻する。日御子は在を使譯として帯方郡に仲裁依頼の使者を送る。帯方郡でも、韓半島が連携して魏に反旗を翻していて戦力が避けないが、威嚇のための兵50名を乗せた軍船を手配してくれた。
 軍船が伊都国に着いたとき、在たちは日御子の崩御を知る。続いて在の娘で巫女頭を務めていた鋭女の殉死を知らされる。
 日御子の跡継ぎで内乱が起きる。内乱は求奈国にとって進撃の好機だが、魏の軍船が一大率に停泊しているので攻撃を見合わせる。
 日御子の弟照日子の孫で13歳になる壱与が跡を継ぎ、内乱は収まる。銘の娘沙女が巫女に選ばれる。

 壱与は、魏の軍船帰還にあわせ、銘を使譯とする遣使を指示する。
 銘たち一行は洛陽に着いたが、内戦が収まらず魏帝との謁見は見送られ、返書も回賜品も得られないまま帰国する。
 銘の話を聞いた在は、つねに洛陽の動静をうかがうため朝貢は続けるべきで、重用される生口を育てるために養成所を設け、あずみの三つの掟と四つ目の教えを伝授するよう銘に熱く語る。
 その後、銘たちは生口を連れて2回、洛陽に朝貢したが、魏の帝位を巡る内紛で謁見も回賜品も得られず過ぎていた。
 4度目の朝貢でも謁見、回賜品はなかったが、高官の配慮でこれまでに贈った生口との再会の機会が設けられた。再会した生口は、在に教わった三つの掟と四つ目の教えが生きる支えになった、と銘たちに話す。魏の内紛に、「皇帝は世襲せず、人望と人徳のある者に帝位を継がせれば争いは起きない」とも言う。

 帰国した銘は、息子治、3歳下の汎にあずみの三つの掟、四つ目の教えをしっかりと教え込む。
 弥摩大国に韓の伽那国から、魏が終わり晋になったとの急使が届く。壱与は、生口30人を連れ、銘を使譯とする使者を晋に送るよう指示する。銘の息子治の同行が許される。
 伽那国に着くと、求奈国の使譯阿住浴が待っていて、銘に父録からの竹簡を渡す。竹簡には、「求奈国が弥摩大国への急襲を計画している。あずみの掟である人を恨まず戦いを挑まない和平のつながりを望んでいる・・」と記されていた。
 安潜銘は息子治に、私は晋使の使譯として洛陽に向かい、晋に和平の仲介を頼む、治は阿住浴とともに弥摩大国に向かい壱与に一大事を知らせ、壱与の親書を持って求奈国王に会い、命を賭して和平を進言するよう話す。

 弥摩大国に戻る船に乗った弥摩大国使譯の安潜治と求奈国使譯の安住浴が肩を組み、あずみに流れる和平への力を予感させて第3部は幕になる。
 回想の始まりは父在が息子銘に話す場面だったが、終幕は銘が息子治に話す場面で終わり、第3部も在-銘-治の3代に渡った。
 人を裏切らない、人を恨まず戦いを挑まない、よい習慣は才能を超えるを脈々と伝える使譯を主人公に、弥摩大国と日御子を仮想した壮大な物語である。残念ながら文明が進化した現代も、戦いは治まっていない。人を恨まず戦いを挑まない社会を望む。 (2021.8)

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箒木蓬生「日御子」あらすじ1

2021年09月01日 | 斜読

book534 日御子 箒木蓬生 講談社 2012  あらすじ1  斜読・日本の作家一覧

 箒木蓬生(1947-)氏の本は「聖杯の暗号(b324)」「カシスの舞(b331)」「ヒトラーの防具(b396)」に次いで4冊目になる。史実をもとに物語を構想し、テーマを掘り下げた壮大なドラマを展開していて読み応えがあり、いつも深く考えされる。

 日本史の勉強で、弥生時代の57年に倭奴国王が後漢に使いを送り光武帝より「漢委奴国王」の金印を受領、(107年に倭国王が後漢に生口160人を献上)、180年ごろ倭国大乱、卑弥呼を邪馬台国王として連合、239年に卑弥呼は魏に朝貢、(生口を献上し)「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡、太刀などを受領、248年の卑弥呼没、(壱与が女王となり晋に遣使)を習った。古代史は謎も多く、諸説もあり、ロマンをかき立てられる。
 著者もロマンをかき立てられたようで、弥摩大国女王日御子を仮想し、使譯として真義を貫いたあずみ一族の生き様を軸に、後漢(25~220)から魏(220~265)を経て晋(265~420)が興るまでのおよそ240年に渡る壮大な物語を構想した。

 あずみはかつて漢から渡来し各地に移り住んだ人々で、住む国ごとに安住、安潜、阿住、安澄など異なった漢字を当てているが、使譯に就いたあずみは、国が別れてもあずみに底流する使譯の三つの掟や木火土金水に従った名付け方は共通し、仲間意識が強い。この掟を信義としたあずみ9代が主人公として活躍する。
 以下にあらすじを2回に分けて紹介する。

第一部 朝貢は、63歳の安住灰が10歳の孫・針に回想を話し、使譯の三つの掟、一つは人を裏切らない、二つは人を恨まず戦いを挑まない、三つはよい習慣は才能を超える、を教えるところから始まる。
 灰はかつていまの北九州に位置する那国王に仕える使譯で、30歳のとき、那国王から漢への朝貢を命じられる。海を乗り切るための船は2年がかりで建造された。左右を6人ずつの水子が漕ぐ10~20人乗りの船3隻ができあがる。灰は、漢に献上する15~18歳の男女10人の生口に漢語や漢の習慣を教育する。
 那国を出た船は、壱岐国、対島国、韓の加奈国を経て漢の楽浪郡に上陸する。灰が草案し木簡に刻んだ那国王の上奏文を読んだ楽浪郡太守は、倭人の朝貢は初めてであり漢再興直後で歓迎する。船は当時の那国では最大級の船だったが、楽浪郡太守が驚くほど漢の船に比べ小さかった。
 楽浪郡から洛陽まで陸路で片道半年かかると聞き、漢の大きさに使者一行は驚く。始めて見た馬車、広い道路、整備された宿駅にも驚かされる。当時の日本では手で食事していたようで、箸で食べる漢の食事にも驚いている。
 生口の一人、最年少の娘が馬車から落ち腕を脱臼するが、治療を受け回復し、言葉は分からなくても人情は通じ合うと安心する。

 楽浪郡、遼東郡、幽州郡、冀州郡、海のような黄河を渡り洛陽に着く。都の大きさに目を丸くする。紙を始めて見て、灰は紙と筆と墨を持ち帰り安住一族の宝にしようと思う。
 光武帝は灰の漢語の上奏文を褒める。献上品の那国の弓を見て光武帝は灰に弓を射させる。見事に的を射貫くが、続いて衛兵が放った漢の弩は威力に優れ、連射し易いことを知る。
 10名の生口に「那国の民として誠心誠意仕えてくれ、いつか那国の使者が来るまで達者で」と話し、涙を流し別れる。
 随所に倭国と漢の文明の差が言及され、回想が終わる。

 いきさつは省略するが、那国王が伊都国王により断首され、安住灰一家は伊都国王に仕える。間もなく灰は没す。
 それから10数年後、針の父庄は病いに倒れているので、伊都国王は針が30歳になったら朝貢の使譯を務めるよう命ずる。
 水子20人、生口30人余ずつが乗れる大船5隻が完成する。
 針は5年前に末浦国の娘と結婚していて2年前に江女が生まれた。次の子には男なら沢、女なら沢女と言い残し、出航する。
 針は、灰が葬られている伽那山を見上げ、灰から学んだ三つの掟を新たにする。使者一行は末浦国、壱岐国を過ぎ、雨風をしのぎ、対島国、韓・伽那国を経て、楽浪郡に着く。

 楽浪郡太守は、光武帝から6代目の安帝が即位したばかりのときに160人の生口を連れた朝貢に大喜びし、護衛に弟李玄を同行させる。これは破格の歓迎である。大型馬車20台を連ね、楽浪郡から遼東郡、幽州郡、冀州郡を経て洛陽に着く。
 50年ほど前の灰の使譯の働きが賞賛されていて、針も劣らず重用される。折々に漢人の暮らし、食事、産業などや、同行している使者の様子が細かく描写されている。
 安帝は使者との謁見の最後に、灰のときの生口10人のうちのただ1人の健在者と面会させる。脱臼した娘で、灰を懐かしみ涙する。安帝は老女に160名の生口の指南役を指示する。

 安帝は伊都国王に「漢伊都委国王」の金印、正使に「率善中郎将」、副使に「率善交尉」の銀印、ほかに鏡、太刀などを返礼として贈る。
 陸路で1年ぶりに楽浪郡に戻った使者一行は先に帰国した4隻が伊都国目前で沈没し、水子も2人を残し全員が水死したことを聞く。
 補強した残りの1隻で無事に伊都国に帰り、針は父庄の死と第2子沢の誕生を知らされる。

 韓・伽那国での領土争いが4~5年続いた。伽那国の北に弁韓、北西に馬韓、北東に辰韓が成立し、鉄の原石を産する辰韓と倭国が対立した。伊都国、対島国、壱岐国、那国、末浦国、早良国は援軍を送り、針は楽浪郡に調停を頼む使譯として半年派遣された。針は漢、韓双方から重用された。
 針は、第1子沢、第2子決に使譯の基本である漢字の読み書きを教える。長女の江女は器用でいつの間にか読み書きを覚える。
 その江女に、弥摩大国の使譯である安潜釜の息子永から嫁入りが申し込まれる。16歳の江女は2年後に嫁入りすると答え、家事に励み、竹簡・木簡作りに精を出し、読み書きを修練する。伊都国王から祝賀として鋭利な刀子を授かり、嫁入りに持参する。
 江女の嫁入りの日、針は安住に伝わる3つの掟を江女に伝える。
 
 江女は、弥摩大国が伊都国に比べ実りが豊かで国土も広く、山の上に建つ砦のような宮郭に目を瞠る。
  結婚の宴の翌日、弥摩大国王から針に会いたいとの知らせが入る。宮郭には王、王妃、子どもと巫女200人が暮らしている。巫女頭に案内され国王に会うと、国王は漢に朝貢するのが夢、朝貢に大事なことは何かを知りたいという。針は100人が乗れる船が不可欠と答える。
 伊都国を巡る戦乱に話しが移るが割愛する。針は沢に伽那山に埋めてくれと言い残し息を引き取り、第1部が幕になる。
 
第二部 日御子は、針の娘江女が孫の炎女に語りかけるところから始まる。第1部朝貢で祖父の灰が孫の針に語りかける書き出しと、同じスタイルである。
 倭国の争いは10年以上続き、江女の息子3人のうち2人は戦いで死に、炎女の父である朱は戦場にいる。江女の弟は伊都国で元気だが、那国に婿入りした弟決は戦いで死んだ。江女の舅釜、夫の永も戦いで死んだ。江女は戦いのむなしさを胸に秘める。
 朱は、自分が倒れれば弥摩大国の使譯である安潜の血をひくのはおまえしかいないと炎女に話し、使譯の三つの掟を伝える。
 江女は炎女に、一生懸命働いたあと仕事の中味を変えれば骨休みになると四つ目の教えを諭し、戦いが終われば交易が始まり、交易には使譯が欠かせない、使譯の力を守り続けるようにと話す。

 江女は炎女が10歳のとき没す。炎女は13歳になると使譯の才能を見込まれて巫女に選ばれ、江女が残した竹簡、刀子、紙などをもって登城する。
 炎女は16歳で国王の世話係りになる。18歳のとき、王妃に女児が生まれる。日の出とともに生まれたので、国王は日御子と名付け、日御子に王位を譲り、辰韓に使者を出すので起草文を書くよう炎女に指示する。
 炎女は、木簡のほかに針から江女に残された紙にも漢語でみごとな出来映えの上奏文を書く。
 日御子は炎女が木簡に書く字に興味を覚え、やがて漢字の読み書きを覚える。
 2隻の大型船が建造され、正使、副使ほかの使者と使譯の朱、生口らが乗り、出航する。・・第2部日御子は炎女が主役なので、航行については触れていない・・。 あらすじその2に続く  (2021.8)

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