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2008.2奈良を歩く3 法隆寺 夢違観音・玉虫厨子・百済観音・東大門

2021年08月19日 | 旅行

日本を歩く・奈良の旅>   2008.2 奈良を歩く3 法隆寺 百済観音・玉虫厨子・夢違観音・東大門

 ガイドの案内で参観者は法隆寺回廊の南東隅から境内を出る。右=南に鏡池、左=北に東室(奈良時代、国宝)が建ち、東室に並んで妻室、綱封蔵(こうふうぞう、奈良時代、国宝)が建つ。ガイドは綱封蔵に沿って北に歩く。右=東に食堂(奈良時代、国宝)が建っていて、北奥に宝物を展示した大宝蔵院が建つ。
 話は変わるが、いろいろな国を旅していると一日券のようなパスが用意されていることが多い。このパスでほとんどの美術館を見学することができる。路面電車やバスとも連携している場合もあり、使い勝手がいい。
 奈良は世界遺産に登録された文化観光都市なのだから、行政や協会などが仲立ちになり一日パスなどの導入を考えてくれればいいのだが、日本では独立採算性?が強よすぎるのだろうか、それぞれごとで参拝券や入場券を購入しなければならないことが多い。
 法隆寺は五重塔、金堂などの西院伽藍、夢殿などの東院伽藍と、百済観音像などを展示した大宝蔵院が共通券になっていてやや改善されている。その券で大宝蔵院に入る。

 大宝蔵院は中庭の四方を展示室が囲んだ四角い建物で、百済観音像(飛鳥時代、国宝)、夢違観音像(白鳳時代、国宝)、玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)など、教科書に出てくる宝物が展示されている。しかも中は明るい。できれば目線のいいところに椅子を置いてくれればじっくり鑑賞できる、と思ったりしながら一つ一つをていねいに見て回った。本来、仏像仏画は礼拝の対象である。しかし、明るい展示室に置かれると、美術品の鑑賞になってしまいそうである。仏教芸術に親しむのが仏道入門の第1歩と思い、鑑賞しながら参拝することにした。・・2008.2でも感動したが、2019.3も感動を覚えた。名作の力であろう・・。
 参観は左手の西宝蔵から始まり、中央の百済観音堂を経て、右手の東宝蔵を順に回る。多くの名品、名作、絵画、刀剣などが展示されているが、印象深い3点を記す。

 夢違観音像(白鳳時代、国宝)は、夢を違えてくれる御利益があるということで、不吉な夢を見た人の信仰を集めたようだ(写真web転載)。
 そもそも菩薩とは成仏(=如来)を目指した修行者のことであるが、成仏の域に達しながらも如来にならず菩薩として人々を教え導いてくれる仏たちもおり、観音菩薩もその一人である。
 観音菩薩は人々を教え導く際に、救う相手にあわせ33の姿に変身するとある。無限界の世界の存在であるからもともと形などはなく、人々を教え導くときは人間に近い姿形になるということであろう。
 この夢違観音像は高さ90cm弱の銅製で、顔はややふっくらとし、体も人間のプロポーションに近い。左手には小さな水瓶をもっていて、観音であることをうかがわせる。煩悩の世界に生きる身を導いてくれるのだから大変ありがたいことである。思わず合掌、南無阿弥陀仏・・。

 玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)は、台座となる須弥座(しゅみざ=仏教では世界の中心にそびえる山を意味する)の上に宮殿を模した建物が置かれていて、高さは2.3mほどである(写真web転載)。目線の開口から中を拝むと千体仏がめぐらされていた。
 厨子は仏像や舎利、経典などを治める容器であるから、ここにも阿弥陀如来などがまつられていたのかも知れない。
 縁の透かし彫りの金具に玉虫の羽が敷いてあったことから玉虫厨子の名がついたそうだ。意識して玉虫を見たことがないから定かではないが、ジーと見ていると光線の加減で緑青色に輝いている部分がある。千数百年前、朝日や夕日を浴び燦然と輝いたのではないだろうか。玉虫の羽を厨子飾りに用いるといった発想はやはり異人の知恵であろう。

 百済観音像(飛鳥時代、国宝)は大宝蔵院の中ほどにある。身の丈2m強の木像で、まだまだ鮮やかな色が残る(写真web転載)。
 当初は虚空菩薩とされていたそうだ。虚空菩薩は胎蔵界曼荼羅虚空蔵院の中尊だそうで、知恵や功徳が虚空(=広大無限)な菩薩のことである。しかし、いきさつは分からないが明治政府が明治30年1897年に国宝に指定したときは観世音菩薩・朝鮮風となり、昭和26年1951年に国宝指定されたときに百済観音とされたそうだ。
 和辻哲郎も「古寺巡礼」で百済観音と記している。
 観音菩薩は阿弥陀如来の脇侍として、大慈大悲をもって救世することが本誓とある。般若心経でも冒頭に観自在菩薩として表れ、一般にも観音様として親しまれている。凡人には虚空菩薩も観音菩薩も見分けがつきにくいからどちらでも良さそうだが、観音菩薩はいくら使ってもなくならない功徳水の入った水瓶をもつとあるから、左手に水瓶をもつこの木像は観音菩薩になる。

 百済観音像の材質は楠とある。朝鮮には良質の楠はとれないそうだ。だから百済観音とはいっても、百済でつくられたとは言いがたい。4~7世紀ごろ、朝鮮半島西南で栄えた百済は日本とさかんに交流していた。日本への仏教の伝来も、日本における仏寺のつくり方も、百済抜きでは考えられないし、その当時の日本の王朝の安定に仏教、仏寺が大きな力となっていたのだから、大勢の百済人が日本の政治や文化、技術を支えていたと考えるのは的を射ていよう。
 たぶん、観音菩薩、虚空菩薩も百済の匠が手ほどきしたであろうし、先進文明である朝鮮風にすること、さらには隋や唐風にすることが当時は先端であり、あこがれであったであろうから、あえて異人風であることが目指された、のではないだろうか。
 そのためか、面長で、体はほっそりとし、胴に対し足が長く、日本人離れしている。まだ残っている彩色から想像すると極彩色だったようで、伸びやかで、軽やかで、色鮮やかな観音像を見て、当時の人々は神々しく感じ、思わず帰依を願って合掌したのではないだろうか。私も、南無阿弥陀仏・・・。

 ほかにも橘夫人持仏及び厨子(白鳳時代、国宝)、地蔵菩薩像(平安時代、国宝)、百万灯(奈良時代、重要文化財)、飛天図(飛鳥時代、重要文化財・・2000年8月、敦煌莫高窟で見た飛天図を思い出す・・)など、見応えのある名品が展示されている。

 鑑賞+参拝していると、段々記憶が錯綜してくる。大宝蔵院を出て南に歩くと茶所=無人休憩所があり、一息する。・・2019.3でガイドをお願いしたとき、2時間コースにしましょうかと言われた。南大門から大宝蔵院を出るまでがだいたい2時間である。2008.2のときはガイド無しの急ぎ足だったが1時間半はかかった。飛鳥時代の名刹に浸るには相応の時間が必要である・・。
 ガイドの案内は2時間コースなのでここで終わりだが、私たちはこのあと夢殿や中宮寺も見学すると言ったら、次の予定がないからと道案内をしながら、見どころを教えてくれた。毎日ガイドで歩いているので病気知らずだという。中宮寺で別れるとき、よくよくお礼を伝えた。感謝、お元気で!。

 築地塀の通りを東に向かうと、途中に東大門(写真、奈良時代、国宝)が建つ。もとは南面していて、現在地への移築されたそうだ。間口3間、切妻屋根、本瓦葺きの八脚門を抜けると夢殿が見える。  (2008.7+2021.8)

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