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ピーター・トレメイン著「サクソンの司教冠」

2021年07月14日 | 斜読

book532 サクソンの司教冠 ピーター・トレメイン 創元推理文庫 2012  

 偶然、トレメイン著の修道女フィデルマシリーズを知った。1993年に短編が出版され、その後、長編、短編が数多く出版されている。
 著者ピーター・トレメイン(1943-)はイングランド生まれの歴史家、推理作家、伝記作家で、アイルランド、ケルトの歴史文化の権威だそうだ。フィデルマシリーズは7世紀のアイルランド、イングランドが舞台らしい。
 手にしたのは1995年に出版された長編「サクソンの司教冠」で、舞台はローマだった。原題はShroud for the Archbishopで、直訳すると大司教の経帷子になる。サクソン、キリスト教を予習しながら読み始める。

 表紙を開けると物語のさわりが紹介されている。
 664年の夏、アイルランド人フィデルマは、所属修道院の宗規にローマ教皇の認可と祝福を受けるためラテラーノ宮殿を訪れる。
 長旅の途中は、フィデルマシリーズ前作でウィトビア事件を解決したサクソン人エイダルフがカンタベリー大司教指名者ウィガードの秘書官兼通訳として随行していた一行と、同行することができた。
 ところがウィガードがラテラーノ宮殿来客棟の寝室で殺され、アイルランド人ローナン・ラガラッハ修道士が逃げようとして捕まる。
 ローマ教皇の伝奏官ゲラシウス司教は、アイルランドとサクソンの争いを避けるため、フィデルマとエイダルフに調査を依頼する。

 扉の次に歴史的背景が述べられている。アイルランドを補足する。
 アイルランドにケルト人が住み始めたのは紀元前1600年ごろで、この物語の7世紀ごろ、アイルランドには4王国と大王の国の5王国があった。フィデルマはその一つモアン国(現在のマンスター)王の妹であり、キルデアの修道院を経験した修道女の設定である。そのため、物語ではキルデアのフィデルマと呼ばれる。
 アイルランドでは女性が男性と同等に活躍していて、フィデルマは、弁護士、裁判官の資格を持つ‥文中にアイルランドの男女同等の所作や法が登場し、巻末の訳注で解説されている‥。
 ケルト人は432年ごろ伝わったキリスト教を受け入れ、ブリテンなどに布教した。ケルト人のカトリック教会はローマ・カトリック教会と相違が多かった。たとえば、聖職者の結婚は325年ニカイアの総会議で論じられ、5世紀には修道院長、司教などの結婚は禁じられたが、ケルト・カトリック教会では容認された。
 ‥この結婚観の違いが事件の真相の手がかりで、中盤に伏線がさらりと記され、終盤でフィデルマが全容を明かすが、穏便な解決に収める。‥この収め方がフィデルマシリーズの人気の理由であろう。
 なお、ケルト教会は9世紀以降にローマ教会に同化する。

 サクソンも補足する。5世紀、ゲルマン人がブリテン島に侵攻し、それまでの覇者だったローマ人は撤退する。代わってゲルマン系サクソン人がブリテン島に広がり、アングロ・サクソン人の民族基盤となってイングランドを支配する。5世紀~9世紀に7王国が存立し、その一つがケント王国(現在のケント州)である。
 サクソン人もキリスト教を受け入れるが、当初はケルト・カトリック教会の宗規に則っていた。
 597年、ローマ教皇の指示で、アウグスティヌス司教がケント王国カンタベリーで布教を始め、初代カンタベリー大司教にはアウグスティヌスが就く。
 664年、ウィトビア教会会議でケルト・カトリック教会の宗規を廃し、ローマ教会に従うことが決定される。当時、6代カンタベリー大司教はサクソン人では初めてのデウスデーディトゥスだったが、教会会議終盤で病没する。後任の大司教指名者にウィガード司教が選ばれる。史実では、ウィガードは聖別前にペストで死亡する。

 物語では、ウィガードがローマ教皇の叙任を受けるため、664年にラテラーノ宮殿を訪れているとき殺害される設定である。エイダルフは、カンタベリー大司教指名者に随行していたので、カンタベリーのエイダルフと呼ばれる。
 フィデルマ、エイダルフは前作で殺人事件を解決したらしいが、前作を読んでいなくても支障はない。
 「サクソンの司教冠」を読む限り、エイダルフは短絡的に事件をとらえる傾向があり、事件の鍵を拾い集め、科学的に検討し、論理的に組み合わせてパズルを解くのは苦手のようだが、直感的な推理は巧みである。

 ウィガード殺人事件の舞台となるラテラーノ宮殿Palazzo Lateranoには、かつてローマ貴族プラティウス・ラテラーヌスの宮殿が建っていた。ラテラーヌスはネロ暗殺計画に関わったとして処刑され、跡地にラテラーノ宮殿が造営され、14世紀に教皇庁がバチカンに移るまで、歴代教皇の住居として使われた。隣接して、サンジョバンニ(聖ヨハネ)大聖堂San Giovanni in Lateranoが建つ。
 フィデルマには初めてのローマである。エイダルフ修道士、2人を手伝う宮殿衛兵隊フーリウス・リキニウス小隊長と、事件解決のため現場のラテラーノ宮殿、七つの丘、テヴェレ川、円形闘技場、カタコンベ、水路橋などなどを調べ歩くとき、7世紀ごろのローマ人の暮らしぶりに重ね、ローマの名所が詳述されていく。訪ねたことのある人には、物語の臨場感が増す。
 
 フィデルマたちは、教皇の専属医師であるギリシャ人アレクサンドリアのコルネリウスに会い、遺体を検分し、検死結果を聞く。ウィガードは、寝台の手前にひざまづき、寝台にうつぶせになって、自分の祈祷用細帯で首を絞められ殺されていた。
 ‥祈るときに疑われずにそばにいて、ウィガードの細帯を取り上げて首を絞めることができるのは誰か?、ローナン修道士はアイルランド人だからサクソン人への恨みでカンタベリー大司教の首を絞めたのか?。‥フィデルマを通して著者から謎かけが出される。

 ウィガードは、サクソン諸王国から教皇への高価な献上品、金貨銀貨の袋を持参していて居間の長櫃に納めていたが、すべて消えていた。来客棟の衛兵隊がローナン修道士を見つけたとき手ぶらだったし、ウィガードはすでに冷たかったと証言する。
 献上品を盗むため先にウィガードを殺し、献上品を運び出しているのに時間がかかり、遺体が冷たくなったのか?。
 ローナンはなぜ献上品のことを知っていたのか?。物盗りのため修道士が大司教指名者を殺すのか?。ウィガードの部屋は3階で、来客棟は衛兵隊が見回っていた。ローナンはどこから進入したのか?、献上品はどのようにして運び出したのか?。‥次々と謎が謎を呼ぶが、まだ手がかりはない。
 ローナン修道士が牢から逃げた、と知らせが入る。

 ウィガードの葬儀模様、アウレリアヌス城壁、地下墓所=カタコンベなどの紹介がていねいだが、割愛する。

 ウィガード殺害当時、来客棟3階にはエイダルフ、ウィガードの召使いであるイネ修道士、スタングランド修道院のパトック院長、パトックの召使いのエインレッド修道士、セッピ修道士、2階にシェピー修道院ウルフラン院長、イーファー修道女が泊まっていた。フィデルマたちは一人ずつ聞き取りを始める。常套手段であろう。
 イネから、ウィガードは身分の低かった聖職者のころ結婚し子どもが2人いたが、ピクト人に妻子が殺されたこと、ウィガードの就寝の手伝いに行ったとき誰かと会うと言っていたことを、聞き取る。‥このときは読み流したが、実は事件を解明する重要な鍵だった。著者はさりげなく伏線を挟み込むのがうまい。

 話を飛ばしてエインレッドの聞き取りで、夕食後、円形闘技場を見学した後、コルネリウスの別荘に招かれ葡萄酒を飲みながら美術品の話を聞き、来客棟に戻って事件を知ったと証言する。‥ここにも読み流すように仕組まれた伏線が仕込まれていた。
 パトックは高圧的で、フィデルマを威嚇し、カンタベリー大司教指名者は自分のほかにいないと豪語するなど、野心を露わにする。
 セッピから、パトックがカンタベリー大司教に叙任されると、セッピがスタングランド修道院長に昇進すること、パトックは女性への欲望が強いこと、パトックは不眠症で悩んでいて、奴隷だったエインレッドは薬師の腕がよかったが主人を殺し死刑になるところだったので買い取り、不眠症の薬師としていつも同行させていること、エインレッドは妹と小さいときに奴隷に売られ、妹が主人の臥所に連れて行かれた翌日、主人の首を絞め殺したこと、を知る。‥これも伏線のように思えたが、事件とのつながりが見えない。

 ウルフランは傲慢に、姉はケント王国王女、自分は東アングリア・アンナ王の王女と言い放つが、首に巻いたスカーフが外れ首の赤い傷跡が見えてしまう。‥首の赤い傷跡は奴隷に特有である。
 イーファーは神経質におびえ、フィデルマに何かを探られまいとしているように答えるので聞き取りを終える。

 前後して、フィデルマたちは、来客棟に盗品が隠されていないか各部屋を調べるが盗品は見つからない。中庭側の部屋の外には10cmに満たないの張り出しがある。すぐ隣の外事局の入っている建物には30cmほどの張り出しがついている。‥これも重要な伏線になる。
 次に、聖ヘレナがエルサレムから持ち帰った18段の石段やキリスト磔刑の十字架など見ながら、ラテラーノ宮殿を抜け、アクア・クラウディア水路橋近くのローナンの宿に向かう。
 ローナンの部屋は実に質素で持ち物も限られ、盗品は無かった。フィデルマは、寝台の下から文字の書かれたパピュルスの切れ端を見つける。
 ローナンが働く外事局の上司ギリシャ人のオシモ・ランドーは、ローナンはおとなしい修道士で殺害犯ではないと断定し、フィデルマの見つけたパピュルスはアラム語で、図書館、聖なる病、フィルス、値段、交換などの単語が書かれていると教える。

 現場検証、関係者の聞き取りを終えるが事件の手がかりはつかめず、動機も見えてこない。行き詰まっているフィデルマに、ローナンからアイルランドの文字で、地下墓所で会いたいと手紙が来る。
 地上の墓地に着いたフィデルマは遠くにパトックとエインレッドを見かける。2人を避け地下墓所に降りたフィデルマは、首を祈祷用細帯で絞め殺されたローナンを見つける。ローナンはアラム語の書かれたパピュルスの切れ端を持っていた。近くには、ウィガードの長櫃にあった聖餐杯が落ちていた。
 アラビア人の声が近づいてきたので、パピュルスと聖餐杯を鞄にしまい地上に出ようとしたとき、誰かに頭を殴られて気を失い、パピュルスと聖餐杯を取られる。地上に運び出されたフィデルマはコルネリウスの声で気がつく。遠くからウルフランがイーファーを呼びつける声も聞こえる。
 ‥ローナン殺しはだれか?、パピュルスと聖餐杯はどこへ?、パトック、エインレッド、コルネリウス、ウルフラン、イーファーはなぜ墓地にいるのか?、著者は謎かけを楽しんでいるようだ。

 少し飛ばして、リキニウスは、パトックが椅子駕籠を雇いスラム街となったティヴェレ川沿いのかつての石工の街マルモラータに行けと指示するのを聞きつける。フィデルマ、エイダルフはリキニウスの小型馬車で追跡する。なんとパトックは売春宿の湯槽で、全裸の娘と抱き合っていた。
 ‥パトックの本性を押さえたが、事件とは無縁である。

 宮殿に戻ると、オシモが水路橋から身を投げて即死、の連絡が届く。フィデルマたちは、オシモの住まいに向かおうと聖ヘレナ礼拝堂を抜けるとき、エインレッドと修道女が抱き合っているのを目撃する。‥この伏線は何を意味するのか?。
 オシモの部屋はローナンの部屋の向かいだった。オシモの部屋からアレクサンドリア図書館の学術書2冊、ローナンへの愛の書き付け、聖餐杯の脚が見つかる。女将の話で、オシモの部屋からコルネリウスがアレクサンドリア図書館学術書3冊を持ち出したことが分かる。

 事件の全容を確信したフィデルマは関係者全員を集め、殺人+盗難事件の謎を解いていくが、ネタバレになるのであとは読んでのお楽しみに。
 7世紀のケルト、サクソン、ローマにおけるキリスト教の様相、当時のヨーロッパ情勢がよく理解できたし、ローマを思い出しながら新たな知見を加えることもできた。
 著者は、当時のキリスト教の様相を詳らかにしつつ、立身の欲望のために魂を悪魔に売ってはいけないと警告しているようだ。 (2021.7)

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