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2022.12ちひろ美術館・東京を歩く

2023年03月17日 | 旅行
日本の旅>  2022.12 ちひろ美術館・東京を歩く


 いわさきちひろ氏の絵はほのぼのとしていて、安らぎを覚える(写真)。小さいころからちひろの絵に接していると優しい心、豊かな心に育つと思う。大人でもストレスが溜まっているときなどにちひろの絵で癒やされると思う。
 本名岩崎知弘(結婚して松本知弘、1918-1974)は福井県武雄(現越前市)の生まれで、小さいときから絵が得意だったらしい。母が東京府立第六高等女学校(現在の都立三田高校)に勤務、知弘も第六高等女学校に進学して絵のうまさが評判になり、母は知弘の絵の才能を認め、東京美術学校(現東京芸術大学)教授・岡田三郎助に師事させる。知弘はさらに中谷泰、丸木俊にも師事する。
 1946年、共産党に入党、1950年に紙芝居「お母さんの話」を出版し、文部大臣賞を受賞、その年、共産党の活動で知り合った松本善明と結婚、1951年、長男が生まれる。そのころは貧しく狭い借家だったので、長野県安曇野に移住していた両親に長男を預ける。
 1952年、現在のちひろ美術館・東京の建つ練馬区下石神井に自宅兼アトリエを建て、親子そろって暮らし始め、ちひろは子育てをしながら子どもを生涯のテーマにした絵を描き続けた。現存する作品は9600点を越え、「おふろでちゃぶちゃぶ」「あめのひのおるすばん」「戦火のなかのこどもたち」など数多くの絵本も出版している。
 1974年、55歳で他界する。


 1977年、自宅兼アトリエの跡地に、内藤廣(1950-)氏の設計でちひろ美術館が建てられ、2002年にいまの形に増改築された。2014年にも来ているが展示模様替えで休館だった(上写真)。
 1997年、両親の暮らした長野県安曇野に内藤廣氏の設計で安曇野ちひろ美術館が建てられた(下写真、HP「2010.10安曇野ちひろ美術館」参照)。
 内藤廣氏の設計は、立地する土地の風土や環境、景観を熟慮し、シンプルでバランスのいいデザインを心がけているように思う。安曇野ちひろ美術館内観写真に見られる混構造も得意で、安定感と親しみやすさを感じる。1992年竣工の海の博物館(三重県鳥羽)、1997年竣工の茨城県天心記念五浦美術館(茨城県北茨木市)、1999年竣工の牧野富太郎記念館(高知市)などを見に出かけ、デザインの卓越さに感心させられた。


 ちひろ美術館・東京は、西武新宿線上井草駅から歩いて7分ほどの閑静な住宅地に建つ。建物を2階建てにし、小さな展示室が庭をはさみながら四方に伸びる配置は住宅地環境への配慮であろう(パンフレット転載)。
 受付でシルバー券800円を購入する。平日だが入場者は多い。子育て中のママが何人もいた。ちひろの絵に描かれる子どものように、明るく健やかに育つに違いない。2階にはこどものへや・授乳室も設けられている。配慮が行き届いている。


 1階にちひろのアトリエが再現されている。決して広くないアトリエだが、ここからほのぼのとした絵が次から次へと生まれた、と思うと感慨深い。
 ちひろは疲れると庭を眺めて無心になり、元気を回復してまた絵筆を取ったそうだ。その雰囲気がちひろの庭に再現されている(上写真)。
 ・・安曇野ちひろ美術館にもちひろがアトリエとして使った小住宅が再現されていて、疲れると野原を散策したなどの説明がされていた(下写真)・・。


 1階に展示室1、2、4、2階に展示室3があり、どれも変形した小さな部屋である。部屋が小さいのでそれだけでくつろいだ、家庭的な感じになる。ちひろの絵にふさわしいと思う。
 展示室に入り、ぐるりと絵を眺め、端から順番に絵を見ていき、気になった絵をもう一度じっくり眺め、ほのぼのとした優しさを受け止める。次の展示室でもぐるりと眺め、順番に見て、気になった絵をじっくり眺める。一通り見終わってから、もう一度展示室をぐるりと回って気になった絵を改めてじっくり眺めた。
 1階に中庭に面して絵本カフェカフェテラスが設けてあったが、女性のグループがちひろの絵を話題に談笑していて、席がふさがっていた。たぶん、内藤氏のデザインが、自分の家で談笑しているような家庭的な気分にさせるのであろう。
 カフェは女性グループに任せ、ちひろの絵が伝えるほのぼのとした優しさを胸に、美術館をあとにする。 
 (2023.3)

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