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2017.4新潟・村上1 町屋通りを歩く

2018年01月06日 | 旅行

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 2017年4月、埼玉県幸手の「NPO日光街道幸手を感じる会」から、「黒塀復活による情緒あふれる街づくり」の講演を依頼された。打ち合わせを兼ねて幸手の町を歩きながら主催者に黒塀復活の訳を聞いたら、新潟県村上で進められている黒塀プロジェクトがヒントになったという。

 webに黒塀プロジェクトの詳細が紹介されているが、実感が伴わない。講演するのだから自分の目で確かめ、実感を持って話さなければ説得力に欠ける。講演は5月なので、講演の構成を練り、資料を作る時間を考え、4月下旬、日帰りで村上の黒塀を訪ねることにした。
 上越新幹線で新潟駅へ、羽越本線に乗り換え、およそ50分で村上駅に着く。途中、新発田を通る。新発田にはY君がいる。地元だから村上についても知っているだろうと連絡したら、案内してくれることになった。

 土曜、大宮駅10:22発の上越新幹線ときに乗る。12:23に新潟駅着、同12:33発の羽越本線特急いなほに乗り換え途中新発田駅でY君と合流し、13:39に村上駅に降りた。
 プラットホームには何匹もの塩引鮭が出迎えていた。まだこのときは、村上が鮭の産地だったことを知らなかったから、鮭の歓迎は観光客への暗喩になる。

 駅舎は地方駅に共通するありふれた印象だが、外観はレトロ調に改修されていた。駅前広場は整備中なのか、中途半端な使われ方で、空き地の中ほどに車輪をはめ込んだ汽車の碑が立ち、向こう側に自転車置き場が並んでいる。中途半端な印象は、かつてここに貨物ホームがあったが撤去し、そのまま未整備が続いたためらしい。

 財政のめどが付かなければ、この中途半端な印象に慣れてしまう。慣れは恐ろしい。駅を利用する人々に中途半端さが移りかねない。暫定的な広場整備を期待したい。
 駅舎内には観光案内が無かった。駅前をぐるりと見回すと、町屋を転用した観光案内所があった(写真)。町屋は町の歴史を感じさせる。引き戸を開けると、奥からスタッフが親しげに話しかけてくれた。
 黒塀プロジェクトと町屋散策を伝えると、地図やパンフレットを広げながら、行き方や所要時間などを教えてくれた。お勧めのランチを聞いたら、2時に近いから町並みの食事処は閉まっている可能性があるので、駅前の石田屋がお勧めだという。

 さっそく石田屋に向かう(写真)。通りに妻面を向けた木造2階建ての旅籠屋で、1階が食事処になっている。外観は防火のため?のモルタル?漆喰?をねずみ色に仕上げていて、重々しい感じになっているが、中は改修されていて、すっきりとした雰囲気だった。すっきりした空間からも食事がおいしく感じられる。海の幸満載の海鮮丼を食べた。鮭、イクラも盛られていて、とてもおいしかった。メニューには酒びたしなど、鮭料理が並んでいる。

 Y君によれば、古くから三面(みおもて)川で人工ふ化が進められていて、大量の鮭が遡上するようになり、近年は、小学生の児童による鮭の稚魚の放流も行われているそうだ。子どものころから鮭の育成にかかわれば、日々の食生活に関心が高まるだろうし、知らず知らず産業振興を後押しすることになる。とてもいいことだ。

 地図を広げ三面川を探したていたら、イヨボヤ会館が目についた。イヨボヤとは鮭のことで、イヨボヤ会館には鮭のミニふ化場があり、昔の漁法が展示され、鮭料理を味わったり、鮭の加工品の販売がされているそうだ。町屋の通りには大型バスの駐車場がないため、団体客は瀬波温泉+イヨボヤ会館のコースになってしまうらしい。黒塀プロジェクトは観光客を町屋散策に誘う効果もあったようで、最近は個人旅行、フリーのツアーで町屋散策を楽しむ人が増えている、そんなことを海鮮丼を食べながら聞き知った。

 観光案内所の説明では、駅から400~500m先の肴町上交叉点を右に曲がると町屋の通りで歴史をいまに残す町屋がおよそ900mほど続き、大町の交叉点を左に折れて数百m歩いた左に黒塀プロジェクトの黒塀通りがあるとのことだった。片道20分ぐらいの散策になるらしい。

 石田屋を出て歩き始めると、足下に「町屋散策はこちらから」のプレートがはめ込まれていた(写真)。このあたりの歩道は最近整備されたようで、電柱も撤去され、見通しがいい。歩道に埋め込まれたプレートの字は大きくて見やすいが、「町屋まで500m~1400m」などの情報があるともっと頼りになると思う。
 ところが、少し歩いたら道しるべを見失った。景観への配慮で道しるべを最小限にしたのか?、予算がなく道しるべを節約したのか?、担当者の独りよがりか?。いろいろなところでも道しるべを見失うことが多い。道しるべは、初めての来訪者が目的地に辿り付けなければ無意味である。初めての来訪者になったつもりで計画を練って欲しい。

 今回は観光案内所でくれた地図があるし、Y君が先導してくれるから心配は無い。

 歩道にはさらに与謝野晶子(1878-1942)の「いづくにも 女松の山の裾ゆるく 見ゆる瀬波に 鳴る雪解かな」も埋め込まれていた(写真)。

 晶子は与謝野鉄幹(1873-1935)とともに各地を訪れ歌を詠んでいる。二人を崇拝する?、歌仲間?の長岡の商人が、鉄幹亡き後の1937年、晶子を瀬波温泉に招待した。滞在中に晶子は45首の歌を詠んだそうで、瀬波温泉には歌碑があるそうだ。
 晶子は町屋まで足を伸ばさなかったらしいが、村上市は晶子にあやかろうと歩道に歌を埋め込んだのであろうか。この歌のプレートがなければ晶子が瀬波温泉に滞在したことは分からなかったからまったく無意味ではないが、歌に詠まれた風景は瀬波である。
 同じ村上市内とはいえ町屋とは風景が異なり、歌のイメージがわいてこない。町屋散策の来訪者に瀬波まで足を伸ばしてもらおうという作戦か?、それとも担当者の勇み足であろうか。  

 大通りを歩く。車の往来も人通りも少ない、静かな町である。肴町上の交差点まで4~5分で着いた。肴町上交叉点で右=東に折れた先が、町屋の通りになる。

 昔ならの風情を残している町屋も少なくない。酒店を営む町屋は、木造2階建て、切り妻屋根の瓦葺きで、間口8間?の大きな構えである(写真)。

 1階の通り側が店になっていて、格子戸の上に「村上へようこそ 町屋見学できます どうぞお入り下さい」の看板が下げられていた。
 昔ながらの風情を残す町屋は、賑わいづくりに積極的なようだ。まだまだ店が元気ということであろうか。
 その一方で、店じまいし、建物に手を加え、昔の風情が失われている町屋も多い。昔ながらの佇まいを維持し、風情のある町屋通りで賑わいをつくり出そうとしても、経営が成り立たなければにっちもさっちもいかなくなる。人口減少は購買力を下げる。商品が売れずに残る。客足はさらに遠のく。店が古びたまま残る。悪循環におちいる。いかに地元の購買力を高めるか、同時にいかに観光客を引きつけられるかが、鍵になろう。
 「町屋見学できます」の看板の下がっている一軒のガラス戸越しに鍛冶屋の作業場が見えた(写真)。通りには、鍛治町の由来を記した案内板が立てられている。このあたりにかつて6軒の鍛冶屋が居たらしいが、文字が風化して判読しにくい。
 ガラス戸を開けて中をのぞいていたら奥から家人が出てきて、最近まで鍛冶をしていたが暮らしの変化で受注がなくなった、などの話をしてくれた。
 奥の床に英語版町屋案内が置いてあった(写真)。たまに外国人が見学に来るが説明できないので、英語版町屋案内を渡しているそうだ。
 鍛治町由来の説明板、そもそも「町屋散策はこちらから」のプレート、「村上へようこそ、どうぞお入り下さい」の看板などなど、英語併記を期待したい。

 少し先に新築された散髪屋と民家が奥まって建っていた(写真)。町屋の敷地割りは幅が狭く奥行きが長い。隣とは壁を接して並んでいるから採光通風には不利である。いまの暮らしに欠かせない車の置き場所も確保できない。
 建物の老朽化、商いがうまくいかず店じまい、子どもたちが離れ使わない部屋が増えた、などの理由で建て替えになる。この散髪屋と民家は、採光通風が良く、車も置けて、コンパクトな使い勝手のいい住まいを計画したようだ。
 町屋の連続する景観は不連続になるが、少なくともこの2棟は木造2階で勾配屋根とし、散髪屋のファサードは格子で仕上げ、民家は黒壁で落ち着いた外観にし、町屋の風情に馴染ませようとする努力がうかがえる。
 多くの歴史的な町並みでは、改修、建て替えのデザインコードを設け、町並み景観の調和に努めている。風情ある町並み景観は観光客の誘致に効果があるのも事実である。私有財産のデザインの自由と町並み景観のデザインコードの両立が町並み整備の鍵になる。
 大町の交差点まで歩いた。町屋通りはここまでである。 (2018.1)

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