自然は美しい春の風景を提供してくれるのに、熊本やエクアドルのような熾烈な地震ももたらす。
傲慢な人間社会への鉄槌なのでしょうか。
定期的に地元紙には「詩」が掲載されます。
もともと詩にはあまり興味がないので、これまでじっくり読むこともありませんでしたが、この間のドイツの詩人ヨアヒム・ザートリウスの詩は目にとまりました。
毎夕、訪れる静謐なひとときを描写している詩ですが(語彙力不足の拙訳は恥ずかしくて披露できません)、
目にとまったのは4行目に夕暮れに一条の光が樫の木に射す光景を表現するのに「日本のカスパー・ダーヴィッド」という言葉があったからです。
この光景がカスパー・ダーヴィッドの絵と似ているというのはわかりますが、この詩人は日本の「墨絵」などを想い描いたのだろうか、
などと、たった一つの言葉「japanischer (日本の)」から色々思いを巡らせてしまいました。
この詩人に興味を抱き、ネットで検索したら次のようなスイスの雑誌に掲載されたインタビュー記事を見つけました。
2013年の古い記事です。「詩作の国で」というタイトルに惹かれました。
興味深い言葉が色々あったのですが、長いのでひとつだけ特におもしろいと思った箇所をご紹介します。
それは「エンツェンスベルガーの定数」という箇所です。
ザートリウスは「完璧な詩というものはほとんどない、同じことは詩の読者にもいえる」という考えの持ち主で
詩の読者数を計算したというドイツの社会派詩人ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーの「詩の読者に関する定数」のことに言及しています。
エンツェンスベルガーは20年ほど前に特殊な数式を使って1900年以来、詩の読者はコンスタントに1354人しか存在しないと計算したのだそうです。
ザートリウスはこれを「物理学におけるアインシュタインの法則と同じように詩業にとっては重要な数字」と(笑いながら)述べています。
ところでザートリウスの詩の中に「Das Gedicht versteht mich nicht (詩はわたしをわかってくれない)」という一文があるそうです。
これを読んで谷川俊太郎さんの新詩集「詩に就いて」を思ったことでした。
日独二人の詩人の詩と真摯に向き合う姿勢が似ているような気がしました。