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気功6000年の歴史 その3(06~08)

2022-05-14 03:14:40 | 気功の話

気功の歴史

津村喬さんの整理された内容を

ご紹介

その3

 

 

十項目でわかる気功の6000年の歴史

01 気功の始まりは5800年前の亀の呼吸  先史時代
02 黄帝内経と老荘で気功の基礎理論が作られた  戦国
03 丹田・命門等が発見とされ五禽戯・導引図など基本の導引が作られた  漢
04 黄庭経・抱朴子・養生要集の三大古典が書かれた  魏
05 天台小止観で気功の基礎理論が作られた  随  
06 医師たちが気功治療を具体化する一方、内丹理論が完成した  宋
07 薬学者李時珍が体験に基づいて奇経八脈理論を提出した。  明清
08 劉貴珍北戴河療養院、陳濤上海気功研究所が現代気功の始まりになった  中国建国後
09 民間の気功が大流行になり、法輪功ではじけた。  2000年まで
10 健身気功が国の気功として作られた。  2004年以降

 

参考までに
気功6000年の歴史 その1(01~02)

気功6000年の歴史 その2(03~05)


ーーーーーー

 

 

06 医師たちが気功治療を具体化する一方、内丹理論が完成した  宋
 この時期は中医学全体の発展が非常に迅速であり、学術の空気が盛んで、理論上の飛躍も多々あった。臨床上の成果も気功に影響した。印刷技術の革新があり、気功の専門書や道藏などの関連書がどんどん印刷された。内丹術は発展してひとつの流派を形成し、また新しい価値ある功法もさまざまに提唱された。
宋金元の医師たちの気功への貢献
 金元四代家と言われるのは「主寒涼派」「攻下派」「補土派」「慈引派」である。
 「主寒涼派」の劉完素は六字訣の体得について深い体得をして『素問玄機原病式』などの書で「吹は腎の寒を取り除いて熱を生ずる。呵は心火を取り去って寒を生ずる」などの仕組みを解明している。
「攻下派」の代表である張従正は『儒門事親』のなかで導引按摩と五禽戯について論じている。
「補土派」の代表李杲[りこう]は脾胃の調理を最も重視した。服薬と同時に静坐による養気を提唱した。「夜半にしばらく収心静坐することで元気を発生させる」と言っている。
「慈引派」の朱震亨は「陽は常に余り、陰は常に不足する」と唱え、病気を治すには陰を養う事が大事と、薬物とともに気功による内観養神を説き、症状に応じて導引も用いた。
 宋代には医学書の編纂、執筆、印刷が非常に重視された。『諸病源候論』『千金要方』『金櫃要略』なども印刷されて広く読まれるようになった。1117年『聖済総録』全書200巻が出された。皇帝の命令で医官に収集編纂をさせたのである。それは道家の修練を集大成し、神仙導引、神仙服気、神仙煉丹などを内容としていた。具体的な導引服気の方法もあり、断食や食餌療法のこともあった。
内丹術の盛行
 内丹術は唐代の発展の基礎の上に、宋金元の時期には一大気功流派を形成した。南方の張伯端、北方の王哲などの内丹を実践し著述する人びとが現れた。張伯端は北宋の学者で1075年に『悟真篇』を書いた。全体が内丹修練を論じたものである。詩の形をとって儒仏道が一つに統合された思想を説き、とくに内丹術について詳しくやり方を書いた。内丹の経典的な書物としては『周易参同契』と並び称されたのがこの『悟真篇』である。王哲[重陽]は北方の内丹術を代表し、『重陽全真集』『重陽立教十五論』『重陽教化集』などを書いた。
 南北ふたつの流派の違いは同じ内丹功法でも性[人格陶冶]から入るか、命[健康作り]から入るかにあった。南宗は主として命功を重視して「先命後性」を主張した。それに対して北宗は上丹田の元神から入手して「先性後命」を唱えた。元代には両者を結びつけて「性命双修」の考えが強調されるようになった。
気功法の発展
 六字訣の応用はこの時期発展し、覚えやすい歌の形で普及されもした。元代の『修真十書・雑著捷経』の中に「袪病延寿六字法」などがあるのがその例である。
 宋代に出現した八段錦は、覚えやすく簡単で運動量も大きくないし、治療効果もいいので、大衆的に広がった。その中で南北両派に分かれた。北派は岳飛に名前を托して、わりと難しい、剛を主として馬歩を多用するもので、武八段とよばれ、あまり広く普及しなかった。南派は粱世昌が伝えたもので、やわらかく、やさしく、文八段とよばれた。文八段は立式のものと坐式のものがある。

 

 

07 薬学者李時珍が体験に基づいて奇経八脈理論を提出した。  明清
1    明清の医師たちの気功発展への貢献
(1)気功理論の方面では
 明清の時期、気功理論は従来の基礎の上に新しい発展をとげた。
 明代の傑出した医学者に李時珍がいた。彼は自分の鍛錬の体験をもとに積極的に気功鍛錬を提唱した。彼は特に気功と経絡の関係の問題に多くの貴重な見解をもたらした。その内容は『奇経八脈考』に集中的に反映されているが、『本草綱目』のあちこちにも見られる。李時珍は奇経八脈の人体における重要性を非常に重視した。かれは「内景隧道、惟返観者能察之」(体内の気の動く道はただ深く瞑想して自分の中に入った人だけが見ることが出来る)という名言を残したが、それは実際に体験した人にしか言えないことばである。
 明代の著名な鍼灸家楊継洲は『鍼灸大成』を著して、それまでの鍼灸学説の全面的な総括と、自己の鍼灸実践を結びつけた。とくに任脈督脈からしていく大切さを説き「久しく之を行なうとツボは自ら開き、経絡は疎通し、どんな病気も起らない」と言った。この時代、とくに命門学説に発展が見られた。
(2)気功養生学の発展
 16世紀の龔廷賢は養生の道を重視し、その代表作である『寿世保元』の中で「内を養う者は、臓腑を滞り無くし、血脈を順調にし、全身の気の流れを調和させることが出来、病気になることがない」と書いている。万全は『養生四要』で静坐を詳しく論じ、胎息、静功について詳しく述べている。
 明代の医師たちは唾液を飲む気功の重要性について繰り返し書いている。李時珍は唾液を飲むことで「臓腑を灌漑し、肢体を潤沢にする」といい、張景岳は「久しく之を行なうと下丹田が討ち固められる」といい、程国彭は咽津法は「陰虚を治す無上の妙法」と言っている。
(3)気功治療学の発展
 導引によって病気を治すことが重視され、『普済方』では数百の導引処方がされている。用いている功法は『諸病源候論』が主だが、『備急千金要方』『聖済総録』なども使っている。16紀中葉の徐春莆は『古今医統大全』100巻の中で中風、風痺、咳、消渇などについての静功と動功を提案している。李梃の『医学入門』は気功功法を動功、静功のふたつに分けて,必ず動静結合でないといけないと書いている。
 沈金鱉(1717-1776)は『雑病源流犀燭』で知られている。とほうもない博識で著作も多く、古代の気功もよく研究している。雑病は外患内傷いつさいのことで、それを六部門に分けて詳述し、薬と導引・運動による治療法をつけている。
(4)練功の副作用と偏差についての研究
 明清の時期には、気功は遣り過ぎたり間違ったやり方をすると偏差が生ずることが研究され始めた。李梃は「丹田に運気が過ぎると尿に血が出る。肝臓に気を集めていると腹脹となる。六字訣は中虚者、有汗者にはよくない。八段錦は気血をよく運動させるが、中虚有火の者は向かない」などと論じている。
2 内丹術の発展
 伝統内丹術は明代に成熟して、功法も次第に決まったパターンが出来て来た。その代表的な人物と著作は張三丰の『玄機直講』『道言浅近』『玄要篇』『注百字碑』、尹真人『性命佳旨』、陸西星の『玄肤論』、『金丹就正篇』などである。
3 功理功法面の学術的達成
 明清の時期、少なくない功法を主要内容とする著作が出てきた。明初の冷謙の『修齢要旨』には六字訣、長生一十六訣、十六段錦、八段錦、導引袪病歌訣などの功法が集録されている。1506年に本になった『保生心鑑』の中には二十四節気に合わせた功法が収められている。周履靖の『赤風髄』には華山睡功十二図、古仙人導引図などがイラストとともに紹介されている。徐文弼の『寿世伝真』には数多くの功法が紹介されている。明代に作られた功法で最も有名なのは易筋経である。
4 武術気功の発展
 武術の中でもとくに内家拳は気功と切り離して考えられない。站椿、導引、行気などは常に武術の基礎功夫とされてきた。易筋経も八段錦ももとは武術の鍛錬過程で作られたものである。太極拳の創始者である陳王廷が『黄庭経』をずっと枕から離さなかったのは有名な話だ。刑意拳の十二形拳は古代の五禽戯を全面的に継承したものである。
5 その他の達成
 明代の有名な僧の一人である憨山は禅宗と華厳宗の融合と、仏教道教儒教の一致を説いた。禅家の悟りと気功の静、定を結びつけてとても分かりやすく説明した。
 明代には『道藏』が編集出版されたが、これによって古代の気功を研究するための大量の文献が提供された。これを本当に全巻読破して整理し、「仙学」を作ったのは陳攖寧になってからである。

 

 

08 引き裂かれた周恩来
 中国共産党をリードして来たボロディンのコミンテルン路線と、中国伝統の孫文の路線とがあって、建国当初はボロディンの「自由連邦制」が中国共産党の中では圧倒的に強かった。「連合政府論」はそれを反映していた。これをひっくり返したのが、周恩来ら新たな国家官僚だった、らしい。1949年の中国人民政治協商会議共同綱領では「各民族がしたしく合作する大家庭にする」とされ、54年9月に公布された中華人民共和国憲法では「我が国の各民族は団結して、一つの自由で平等な民族大家庭となった」
 政治協商会議では多くの代議員がソ連に見習って連邦共和国を作るべきだと主張したが、周恩来がそれを斥けた。
 「国家制度については、われわれの国家は多民族連邦制を採用するか否かの問題が存在する。いかなる民族もすべて自決権を有している。これには少しも疑問の余地はない。しかし帝国主義者は今、われわれのチベット、台湾、さらに新疆までも分裂させようと狙っている。こうした情況にあるから、各民族は帝国主義者の挑発に耳を貸さないように希望する。このことから、わが国家の名称を中華人民共和国とし、連邦とはしないのである」
 チベット、モンゴル、ウィグルについては当時既に強い独立要求があったが、それは無視された。朝鮮族についても白頭山の北や遼東半島の朝鮮人居住地区が朝鮮領と認められればその後の朝鮮人の苦悩を多少はへらすことが出来たはずだが、それも問題にならなかった。
 1949年の少数民族自決権について第二野戦軍に送った指示はこの問題でよく知られた文献だ。
 「今日に至っては各少数民族に関する「自決権」問題を再び強調するようなことがあってはいけない。過去の内戦期では、わが党は少数民族を取込むために、国民党の反動統治に反対し、この自治権容認というスローガンを強調したことがあった。当時としては完全に正しい政策であった。しかし現在では情況が根本的に変化した」
 こういう態度もひとつの現実だった。しかし当の周恩来が同じ時期、苦悩に満ちた談話をだしている。
 「わが国の歴史では,各民族の矛盾はとても大きかった。漢族は少数民族との関係において、少数民族にすまないことをしてきた。今後はわが漢族同志はそれを代わって受け止め、彼らに謝罪しなければならない。今日の中国は、過去の中国は、過去の中国とは違って、二度と少数民族を圧迫することはないと説明しなければならない。一度ではすまず、何度も説明しなければならない。ひとびとは最後にはあなたの話が本物であるということを理解してくれるだろう」
 周恩来は本気でそう思っていたに違いない。だが、チベット、ウイグル、モンゴル、などの無惨な弾圧は続いた。

 

 

 


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