風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

カビの宇宙

2017年09月19日 | 「新エッセイ集2017」

 

陽が落ちると、虫の声が賑やかになった。
夜空の月も輝きを増して明るく澄みきっている。
夏から秋へと、昼間せめぎあっていた二つの季節が、夜にはすっかり秋の領分になっている。
久しぶりに、風を寒いと感じて窓を閉めた。

夏のあいだ開放していた窓を締めきると、どこからともなくカビ臭い匂いがしてきた。いかにも部屋に閉じこめられている感じがする。
この感覚は懐かしい。
カビの匂いは嫌いではない。
カビ臭い部屋にいると、特別な大気に包まれているような安堵感がある。
こんなぼくの習癖を他人に話したら、きっと嫌われてしまうだろう。
訪ねた古い民家や寺院などで、どこからともなくカビの匂いがしてくることがある。すると、体がすぐにその場の空気に溶け込んで、以前からそこにいたような落ちついた気分になってしまうのだ。
生まれた川の匂いを覚えているという、魚族の感覚に近いものだろうか。

これって、子どもの頃の記憶と強く結びついているのかもしれない。
古くて小さな家に、家族7人が住んでいたことがある。
家族がいつも、狭い部屋でごっちゃになって暮していた。だからときどき、ひとりになりたかった。ひとりきりになれる部屋が欲しかった。
子どもの頃は、望んでも無理なことがいっぱいあるものだ。無理なことばかり望んでいるようでもあった。そんな無理の中から、子どもはとっぴな夢をみたり、行動したりするのかもしれない。

ある時期、押入れの一隅を自分の隠れ家にしたことがある。
閉めきると暗闇なので、そこで何かが出来るわけではない。ただ、じっとして自分の空間を確かめている。それは何かを避けて隠れていることかもしれなかった。
かくれんぼという遊びがある。自分を隠し誰かに発見してもらうという行動は、子どもが本来もっている欲求なのかもしれない。そこから生まれてくる快感こそ遊びの原点なのだろう。
ぼくの場合は、自分で隠れて自分で見つける、単なるひとり遊びのようなものだったけれど。

とにかく押入れはカビ臭かった。
暗闇なので、聴覚と嗅覚だけの世界だ。外の気配に耳をすましながら、家族の干渉から逃れられていることを楽しむ。そのかたわら、ひたすらカビの匂いに耐えなければならなかった。
最初はカビの匂いが嫌だったが、ひとりの空間を守るための代償、のようなものだった。匂いは次第にぼくを包み込み、守ってくれるものになっていった。カビの匂いが、秘密めいた心地のいい匂いに変化していったのだ。
そこは暗くて小さな宇宙だった。カビの臭いは、ひと時の自由の匂いだった。

いま、ぼくの狭い部屋の隅に小さな物入れがある。
扉を開くと、カビの匂いがとび出してくる。カビの住処はそこにある。
とりあえず必要ないものとか、だけど大切なものかもしれないものとか、とりあえず捨てられないものとか、いつかまた使うかもしれないものとか、種々雑多なものを放り込んである。
どんなものがあるのかもよく分からない。物がだんだん増えていくので、確かめるのも次第に億劫になっていく。それでますます整理ができない。

そこにはたぶん、ランダムに書きなぐったノートや古い日記帳がある。読み返すこともないような古い手紙がある。雑多な写真やフイルムがある。録音テープや8ミリフイルムがある。
父が使っていたドイツ製の蛇腹カメラがある。もちろん、ぼくが使っていた一眼レフや交換レンズもある。それらは、デジカメの時代になって出番はなくなった。
カバンもあるだろう。ラジオもあるだろう。フロッピーディスクやMOディスクもあるだろう。
そのすべてが、カビに包まれて眠っている。

いまや、カビの部屋にこもっているのは、ぼくの抜け殻ばかりだ。
彼らはぼくの干渉を離れて、自由に余生を楽しんでいる、と思いたい。
そのうち、チーズのように熟成されるかもしれない。そうなれば愉しい。
久しぶりにカビの匂いに包まれて、妄想の雲がカビのように増殖していく。

 


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2 コメント

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階段 (はる)
2017-09-20 01:19:26
投稿テーマと関係ないのですが、写真の階段に惹かれました。
どこかの遺跡か何かの写真でしょうか?
階段は高床倉庫にでも登る為の・・・
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タイムスリップする階段 (yo-yo)
2017-09-20 20:43:15
はるさん
コメントありがとうございます。

写真は、大阪府立弥生文化博物館の屋外フィールドにある、弥生時代の建物のひとつです。
この木の階段を上ると、がらんどうの広くて暗い空間です。
弥生人はそこで何をしていたんでしょうね。いっとき古代へタイムスリップできます。
階段には、古代人の足跡もあるような気がしませんか。
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