風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

春は花の香りがする

2019年03月14日 | 「新エッセイ集2019」

 

久しぶりに、小説というものを読んだ。
江国香織の短編集。洗練された短い言葉に、花のような香りがある。
なにげない日常生活のさざ波を、言葉と言葉で快くつないでいく。深くもなく浅くもなく、心理や感情のひだをそよ風のように撫でてすぎる。五感に触れてくるものは、香りのような爽やかなものだ。それでいて心を揺さぶられる。
このところ詩ばかり読んでいたが、深く情感に触れてくるものは少なかった。むしろ江国香織の小説に、詩よりもはるかに詩的なものを感じた。

あらためて詩とは何なのかと考える。
小説ではなく俳句でも短歌でもなく、詩で表現することの必然性はどこにあるのだろうか。
情感を表現するには、短歌で十分なのではないか。さらに凝縮された短い言葉で表現するには、俳句というものがある。どちらも洗練された言葉の美しさやリズムがある。省略された言葉の背後にあるものを、想像する歓びも喚起してくれる。
さらに、ひとつの世界をより広く深く構築していくには、言葉の表現法としては小説が最適かもしれない。その世界を共体験することで、読むことの楽しさと充実感が味わえる。

もちろん、どのジャンルにもさまざまな形態はあるだろう。
そんな中で、詩の領域はどこにあるのだろうか。言葉に拘るということだろうか。言葉のもつ未知の働きを探求することだろうか。短いということだろうか。行分けされているということだろうか。感動を表現するということだろうか。
ぼくが日常接している詩は、主にネットにアップされているものなので、誰もが気安く投稿できるという、ネット詩としての特質もあるかもしれない。
日記のようなものや個人的な独白のようなもの、やたら読解不能な難しい言葉や感覚で綴られたもの、記号のようなもの、警句にもなっていないただ短いだけのもの、などなど種々雑多である。

短歌や俳句には、いちおう韻律の約束事がある。一方、詩と小説には何らの制約はない。自由である。だから詩と小説の区別は曖昧だともいえる。詩よりも詩的な小説があったりするし、短編小説のような詩があったりする。それはそれでいいのかもしれない。
だが詩というものが曖昧なままでいるうちに、詩は小説の領域に侵食されてしまうかもしれない。
かといって詩の領域に固執すると、詩はやたらと難解なものになってしまいそうだし、安易に流通言語で書かれた詩は通俗だと批判されるだろう。
単なる感傷や慰めではなく、虚飾もなく、短くても易しい言葉で感動を与えられる、そんな言葉の結晶はどこにあるのだろうか。

 

 

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