風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

そのとき人は風景になる(9)

2021年07月10日 | 「新エッセイ集2021」

 

 石の舞台でうたう人は

日毎に高原の記憶は遠くなっていく。3人で名前を刻んだ岩も、ふたたび確かめることは出来なかった。
奈良飛鳥の石舞台古墳に初めて案内してくれたのも、友人のエムだった。その頃は田んぼの中に、とてつもなく大きな石がただ積まれてあるだけだった。なんであんなものが、あんなところにあるのだという驚きは、容易に解かれることのない、飛鳥という古い風土そのものの巨大な謎の塊りにみえた。

石舞台古墳は、『日本書紀』の記述や考古学的考察から、蘇我馬子の墓だという説もあるが、真相は未解明のままらしい。
この石の舞台で、狐が女に化けて舞いをしたとか、この地にやって来た旅芸人が、この大石を舞台代わりにしたとか、そんなエムの話の方がしっかりと記憶に定着していて、そこから今でも、ぼくの幻想は広がりつづけている。
そのときエムは、あの石の舞台の上に立って大声で歌いたいとも言った。まだ声楽への強い野望を持ちつづけていたようだ。その頃は専門の先生についてベルカント唱法などを学んでいた。だが、飛鳥の石の舞台に立つことはなく、彼は若くして自ら石になってしまった。

巨大な石の、変わらぬ石の舞台の前では、ぼくは今もなお観客にすぎない。
ぼくには胸を張って演じられるものなどない。早逝した友人と、だらだらと生きつづけている自分と、このような人生の差異も謎といえば謎だといえそうだ。
ぼくにとって奈良の石の舞台は、あいかわらず謎の舞台としてありつづけている。奈良の飛鳥を歩くと、いろいろな石たちが謎かけをしてくる。石舞台、酒船石、亀石、猿石、鬼の俎板、鬼の雪隠など、その命名にも謎が含まれているが、今もなおスフィンクスのように、千年をこえて深い謎を投げかけてくる。

日常生活を送りながら、自分の内や外にさまざまな矛盾を抱え、解こうとしてもなかなか解くことができない謎が残る。ぼくの謎など、たぶん取るに足りない小さな謎だろう。そんなとき、もっと巨大な謎の前に立って、自分の小さな謎の存在を確かめてみたくなるのかもしれない。
ときどき飛鳥の石たちに呼び寄せられるのは、謎が謎のままに残るという不思議な世界で、大きな安心感に浸リたくなるからだろう。
できることなら、狐が女に化けて舞う姿も見てみたいものだ。

 

 

(1)そこには風が吹いている

 

 

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