1年の中にはいろいろな記念日がある。大きいものから小さいものまでたくさんある。小さい方で言えば家族の誕生日や結婚記念日、大きいのでは終戦記念日などがある。3.11がある。最近では2.26や5.15はあまりニュースにならなくなっている。
終戦記念日の8月15日の正午。私はたいてい甲子園の高校野球ノテレビを観ている。時報に合わせてサイレンが鳴り、「黙祷」のアナウンスがある。私もテレビの前で目を閉じる。ミッドウェーの海底で眠っているS叔父のことを思い浮かべる。ミッドウェー海戦があったのは昭和17年6月であり、開戦からわずか半年後である。そのとき叔父は22歳だった。私との年齢差は16である。私は叔父が大好きだった。私の中のヒーローだった。そのことは以前から何度も書いた。私の8月15日は、S叔父を思い出す日である。
父の命日は11月6日である。亡くなったのは昭和11年で、その1年前の12月23日に私が生まれた。私が父親と一緒にいたのは11カ月と2週間という計算になる。父の遺影を見ても、あまり感じるものがない。記憶がないのだから当然である。
今日(12日)は母の誕生日であって、長生きしていたら102歳になる。これも何度か書いたが、私は、70歳以後の母の姿を見ていない。「会いに来たらダメよ」という母の言葉を守ったからだ。「そう言われても会いに行くのが親子の情」と言う人もいるだろう。そう考える人が多いのだろう。私はそうは考えなかった。母の美学を尊重した。
「ママの家に行くと、よくお寿司をご馳走になった」という文字が、何年か前には妹から届いたハガキにあったのを憶えている。妹が結婚して母のもとを離れていた頃の話だろう。そのことがあるので、今夜の我が家の食卓には鮨の皿が並ぶことになる。
終戦記念日の8月15日の正午。私はたいてい甲子園の高校野球ノテレビを観ている。時報に合わせてサイレンが鳴り、「黙祷」のアナウンスがある。私もテレビの前で目を閉じる。ミッドウェーの海底で眠っているS叔父のことを思い浮かべる。ミッドウェー海戦があったのは昭和17年6月であり、開戦からわずか半年後である。そのとき叔父は22歳だった。私との年齢差は16である。私は叔父が大好きだった。私の中のヒーローだった。そのことは以前から何度も書いた。私の8月15日は、S叔父を思い出す日である。
父の命日は11月6日である。亡くなったのは昭和11年で、その1年前の12月23日に私が生まれた。私が父親と一緒にいたのは11カ月と2週間という計算になる。父の遺影を見ても、あまり感じるものがない。記憶がないのだから当然である。
今日(12日)は母の誕生日であって、長生きしていたら102歳になる。これも何度か書いたが、私は、70歳以後の母の姿を見ていない。「会いに来たらダメよ」という母の言葉を守ったからだ。「そう言われても会いに行くのが親子の情」と言う人もいるだろう。そう考える人が多いのだろう。私はそうは考えなかった。母の美学を尊重した。
「ママの家に行くと、よくお寿司をご馳走になった」という文字が、何年か前には妹から届いたハガキにあったのを憶えている。妹が結婚して母のもとを離れていた頃の話だろう。そのことがあるので、今夜の我が家の食卓には鮨の皿が並ぶことになる。