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うなぎ

2010-07-26 21:45:09 | 日記
鰻をおつけしましょうか?という言い方が、昭和40から50年代まであった。たとえば、ある酒席を設けるとして、そこに松竹梅のセットがあるとすると、その他の料理は似通っているが、鰻の蒲焼をひとつたすと松になって恰好がつくという具合で、すなわち鰻は、格上の料理だった。  天然鰻は全体の1パーセントもないそうだが、その吉野川モノを百貨店広報勤務である娘が5年前の年の暮れに手に入れてきたが、それは決して大騒ぎする(うっとりする)ような美味ではなかた。もちろん、私の舌が上物に馴染んでいないということもあるが。また娘は、「野田岩の鰻はすごい」と言い、家人が買ってくるスーパーのものにはあまり手をつけないが、この野田岩というのは、友人や先輩達も「あの店のは別格」と口を揃えるから、よほど旨いのだろう。 でも、そこまで鰻を追いかけるほど、私は力が入らない。  3歳まで住んでいた中目黒の家に来客があるときは、宮川の鰻重が届いた。ミヤガワという名と黒塗りの重箱が記憶にあるが、鰻の味は憶えていないから、私の分は鰻ではなく玉子焼あたりだったのだろう。 今日は土用の丑の日で、我が家は、うざく(キュウリを塩でもんで、やわらかくするのがコツ)。高校野球神奈川大会で、慶應は敗退した。6回の無死1・2塁での拙攻で(まだ同点だったが)敗戦が見えた。上田(監督)さん、去年の秋に11対1で負けた相手でしょう、少得点差(1対0、3対2など)を狙うのはどうか、と素人意見を言っておこう。 ま、日吉の合宿に帰って鰻でも食べなはれ。

7月25日

2010-07-26 21:37:30 | 日記
高校野球神奈川大会の準々決勝 横浜対桐蔭をテレビ観戦。両校の監督の采配が見所で、特に渡辺元智さん(横浜)はノーシードのチームを引っ張り上げてきただけに、土屋恵三郎さん(桐蔭)よりは強気の野球(俗に言うマケモト)ができるので有利と見ていたが、その通り、見事な逆転勝利だった。 昼食に、冷やし中華を家人に注文して、シマッタと思った。当然に具の中心になるべきウナギを買い忘れていたのだ。ま、仕方がない。ハム、カマボコ、目玉焼き、キュウリでも、充分に旨い。 競馬はテレビ中継がないので、ヤル気がしないし、こうときはまず当たらないものだ。 それでも、昨日のメインで馬連(32倍)を当てているので、2千円分(ハズレ)を国庫に寄付。 3日前から浴槽に浸かることが赦されていて、それだけのことでずいぶん暑さから救われる。風呂の温度は36度、クーラーは25度。更に扇風機を回していて、その辺が私にも猫(気持ち良さそうに眠っている)にもベスト温度のようだ。 先週末のニューヨーク市場は、例のストレステストを経てあげているが、明日の東京市場はどうか。このイライラ暑さの中、せめて株価だけでも、と願うしかない。 私のような短期売買でショボショボ稼ぐ老人が、もう100日近く、ただ腕を組むだけなのだ。

元気をもらう

2010-07-24 22:13:04 | 日記
昨日、M証券のA君から電話があって、ほぼ1カ月ぶりに株の話をした。といっても株は入院前から下がっていて、更に入院中だけでも430円(日経平均)下げているから、売り買いの話ではなく、証券会社の状況判断を訊く程度のことだった。しかし、約10分間話し終わると、不思議な満足感が残った。つまり、久々の株の話がおもしろかったのだと思う。 夕方になって、入院中に電話をもらった福島の戦友Bさんにお礼の電話をしたら、「5歳の孫が近所にいて、毎日一緒に遊んでいる」と贅沢なことを言う。次に、やはり戦友のCさん夫妻と話す。Cさんは癌のオペを二度経験しているので心配だったが、健康そうな声で、仕事(工場の設備工事)も続けていると言う。そして、今日はやはり戦友のDさんに電話した。奥さん(社内結婚)が出て、やはり、とりとめのない話(金賢姫のことなど)の10分間だったが、それもまた楽しかった。 私は普段あまり雑談的な電話はしないから、昨日と今日は異例だといえるが、ひとつわかったのが、電話でも、友人と話すだけで元気になることが充分にあるということだ。退院して最初に電話で声をきいたのは、東京に住む妹だったが、そのときも、ある安らぎを思ったし、入院中の病室から家人に電話して「明日、ヤミで玉子焼きを頼むよ」なんてのも、もしかすると送電線を通して、我が家の空気を感じたかったのかも知れぬ。 以上、私の初体験のことと、お読みください。そして、電話口の皆さん、本当にありがとう。

暑い!

2010-07-24 22:05:11 | 日記
小・中学校時代に住んでいた茨城の家は町外れにあった。夏になるとアイスキャンディー売りの自転車が来たが、1本5円のキャンディーが(やや溶けかかっているので)3本10円に値引きされていた。といって1人で3本は食べきれないから、近所の仲間と5円ずつ出し合って3本入手し、それを1本半ずつ分けるのではなく、今日はどちらかが2本食べ、明日はその反対に・・・というような、協定が存在した。ただし、その協定は時として慈善に変わった。その日、キャンディーを買えない子がいるときは、3本目をその子にプレゼントした。もちろんどの家にも冷蔵庫のなかった時代の話である。  32,3歳までは夏でも草野球に参加した。ゴルフの後のビールの旨さは以前に書いたが、野球の後も同じことだ。試合中はベンチの前の大きなバケツに氷があって、その中にパンピーという果物ジュース(最近、この名を聞かないが)の壜が冷やされているのだが、私は苦手で、氷をコツコツと割って口に含んでいた。 ある試合のとき、チームメートの一人が、赤色の飲み物をくれあ。1合程度の容量だったが、ちょっと薬の匂いのある野菜味の印象え、うまくは言えぬが精力剤の感じだったし、そのパワーか、私は本打をh組む好成績を残した。ゲームが終わって、そのチームメートは、それが朝鮮人参の特別なドリンクだと教えてくれた。 猛暑には朝鮮人参が有効なのか。  それにしても、あのキャンディーの・・・草野球の頃、よく誰もダウンしなかったなぁと思う。熱中症という言葉は無かったけれど、日射病っていうのはあった。

空白期間

2010-07-24 08:48:59 | 日記
昭和19年の秋(小学校3年)から20年(終戦)の夏にかけて、私は学校(どんな先生にどんな授業を受けたか)の記憶がほとんどなく、あるのは近所にいた好きな同級生の女の子を自転車に乗せて、英霊の出迎えに芦屋駅へ行ったとか、空襲の夜の騒ぎぐらいのものだ。戦争が終わり、食料疎開した茨城の町での(小学校5年から高校1年まで)も、学校の授業から、あまり得るものはなかった。国語と社会は自力でテストを凌ぎ、英語は在英3年の祖父を頼った。 好きな女の子はいたし、教室中を笑わせるという楽しみはったが、授業に限ればほとんど価値がなかった。 麻生太郎氏が、首相時代にしきりに「100年に一度の未曾有の不況」と言い、それがそのまま続いているのに、鳩山→菅は何の手も打てずにいて、すなわち、もうずっと政治空白が続いているのに、誰も怒らないのが不思議でならない。 特に、財務大臣の野田佳彦さんが(白川日銀総裁も)円高を横目で眺めているのはアホカイナと思う。政治の空白は、取り返すのが大変だよ。