術後はベッドで絶対安静、と前日に渡された心得書にあるので、とにかく天井を向いて目を閉じ、娘と雑談する。「いかがですか?」とA医師が覗いてくれたのが8時頃だったか。それからの時間経過がよくわからない。 波状攻撃的に寒気が襲ってきた。看護婦のB子さんが掛け蒲団を1枚足し、毛布を巻いてくれるがそれでも寒い。「これ、電気毛布ですからスイッチを入れましょうか?」とB子さんが言ってくれるが、何かオペの痕に悪影響があるような気がしてしまう。 寒さは続く。悪寒とはよく言ったもので、まさに悪い(イヤな)寒さだ。 しかし、答えはわかっている。 時間だ。時間が経てばいいのだ。 何十分が経ったのか、いや100分も200分も過ぎたのか。今度は暑くなってきた。「クーラーを戻してくれませんか?」「大丈夫ですか?」「大丈夫です、暑いんです」。 「うわぁ、気持ちがいい!」、娘の声がした。そりゃそうだろう。熱帯夜にクーラーなしの何時間かを堪えたのだ。いや、もっと大変だったのが看護婦さん達だ。 それが仕事だと言ってしまえばそれまでだが、ありがたい。 「大丈夫ですか?」というB子さんの声で目が覚め、熱を測ると37度6分だった。普段の私の体温は35度5分から36度5分あたり。 少し汗をかいているが他に異常なし。 (6月30日~7月1日)
手術というものは、病室のベッドからストレッチャーに乗り移るところから始まる。 直前の血圧は162-110で、俎上の鯉にも緊張があるようだ。 手術室には音楽が鳴っている。よくはわからぬが元気のいい曲で、それが不思議に場に合っている。部屋のスタッフは5,6人ですべて大きなマスクをしているし、頭は帽子で隠れているので、声だけで性別がわかるだけだ。 A医師が「気分は悪くありませんか?」と笑顔で問うが、こういうときの笑顔は大事である。麻酔に約15分かかって、「始めます」。こんなに大きく切るのかと思うほど、メスが、そけい部でなく臍の近くまで円を描く・・・と、無感覚の中の感覚で想像していた(あとになって、それは錯覚で、実際は右足の付け根から下へ約10cmの切開であったことがわかる)。 途中で目の下や耳が痒くなって、マスク女性の一人に拭いてもらう。「順調の進んでいますから」と、A医師の声がかかる。約60分でオペは無事終了。「お疲れ様でした」「ありがとうございました」「胃腸のオペではありませんから、明日から食事がとれます」「ありがとうございます」。俎上の鯉のセリフは、「ありがとう」以外にない。 部屋に戻ると娘の笑顔が待っていた。しかし・・・。 (6月30日)。
午前中、腹部のCTを撮る。そけいオペの為だろうと思っていると、ベッドに戻ってすぐにA医師が来てくれた。1年半ぶりの再会だが、顔を観て声を聞いただけで安心感が広がる。 この安心感というのが極めて大きい。「なるべく早くきりましょう。あさってあたりできるかな」。そう、これが、「いまちょっとオペの予定が詰まっていて来週の初めあたりに~」となるとガッカリする。 「大変なことになったわねぇ」と家人が言う。 おいおい、それは違うだろう。確かに手術は大変ではあるけれど、この場面のセリフとしては、「大丈夫よ、癌の手術で胃や肺や腸を切るのに較べれば軽いわよ」が、正しくはないか。 夕方になってA医師がオペの予定を図示したものを持参し、「この辺に膿の因があると思われます。もう1ツの異物(4年前の手術の際に入れたメッシュ)も、たぶんこの辺でしょうが、開けてみないとわかりません」。なるほど、家人の言うとおり、大きな危険はないが、ちょっと大変ではあるのかも知れぬ。 (6月28日)
「オペは明日に決まりました」と、朝食後すぐに看護婦さんが知らせてくれた。4年前のことを思い出して、絶食と浣腸のことを訊くと、「今日中は食事OK、夜に下剤をのみます」とのことだった。 手術時間は60分程度だそうえ、これも4年前とほぼ同じだ。夕方、A医師が来て、「明日は頑張りましょう」と言う。このドクターは俳優の梨本謙二郎さんに似たハンサムで、年齢は40代後半か。 メス捌きなど絶対の自信がありそうで頼もしい。付き添いというか応援役は長女に決まって、これも4年前と同じで頼もしい。 今日で孫娘が16歳になった。小学校がサッカー、中学ではソフトボール、高校(まだ入学して3カ月だが)には女子のサッカー部とソフトボール分がないのでハンドボールをやっている。 この球技が部活になっている学校は少ないだろうから、試合相手探しが大変かもしれぬが、反対に、ちょっと強くなれば県大会あたりで上の方へいける可能性は高いだろう。 7時半に眠くなる。明日のこの時間は、少なくとも下腹部は軽くなっているだろう (6月29日)。