古い帽子をかぶり、少しくたびれたようなコートを着た老人がブランコに座っている。老人が小さく唄う。曲は『ゴンドラの歌』だ。いのち短し恋せよ乙女、朱き唇、褪せぬ間に~である。老人は志村喬さん、黒澤明監督の映画『生きる』の1コマである。
誰かが川で溺れている。身体は水に沈み、手だけが水面で振られている。助けてくれ!という声はない。川の横の道を身なりのよい紳士が通りかかる。紳士は、いじわる爺さんだ。水中で手を振る人間に向かって、帽子をとって挨拶する。チック・ヤング作の1コマ漫画である。
その朝の玉川電車はいつもよりも混んでいた。私は毎朝と同じように、隣家のK子と一緒だった。吊り革が足りなかった。私はK子のカバンを網棚にのせ、そのとき少しふらついた。K子がつかまっている吊り革に手が伸びた。17歳の少年と16歳の少女の手が重なった。彼女の手は、上等な和菓子のように柔らかかった。胸の鼓動が早くなった。でもそれが自然だった。社交ダンスで男女が手を取り合うのと同じように自然だった。私もK子も互いの目を見ないようにしていた。西太子堂駅から渋谷駅まで、上等な和菓子は私の手の中にあった。私における、青い山脈の1コマである。
幼い日の想い出はすべて断片的である、という文を読んだのは若い頃だった。その通りだと思った。ずっとその通りだと思い続けていた。しかし、いつだったか、私はこの言葉は誤りだと気づいた。誤りと言うのが悪ければ、不足と言ってもいい。私が気づいたのは、幼い日という部分であって、それだけではなく、すべての想い出は断片的ということだった。断片的の反対は連続的である。私には、連続的な思い出というのが、よくわからない。思い出はすべて、あの日、あのときの1コマである。1コマばかりである。
先週、ボクちゃんが遊びに来た。ボクは大きくなってから、「近くの親戚の家へ行って、かわいいネコと鬼ごっこをしたこと」を思い出すだろう。ヴィヴィちゃんとの1コマを思い出すだろう。その家に、禿頭のお爺さんがいたことは忘れてしまうだろう。
誰かが川で溺れている。身体は水に沈み、手だけが水面で振られている。助けてくれ!という声はない。川の横の道を身なりのよい紳士が通りかかる。紳士は、いじわる爺さんだ。水中で手を振る人間に向かって、帽子をとって挨拶する。チック・ヤング作の1コマ漫画である。
その朝の玉川電車はいつもよりも混んでいた。私は毎朝と同じように、隣家のK子と一緒だった。吊り革が足りなかった。私はK子のカバンを網棚にのせ、そのとき少しふらついた。K子がつかまっている吊り革に手が伸びた。17歳の少年と16歳の少女の手が重なった。彼女の手は、上等な和菓子のように柔らかかった。胸の鼓動が早くなった。でもそれが自然だった。社交ダンスで男女が手を取り合うのと同じように自然だった。私もK子も互いの目を見ないようにしていた。西太子堂駅から渋谷駅まで、上等な和菓子は私の手の中にあった。私における、青い山脈の1コマである。
幼い日の想い出はすべて断片的である、という文を読んだのは若い頃だった。その通りだと思った。ずっとその通りだと思い続けていた。しかし、いつだったか、私はこの言葉は誤りだと気づいた。誤りと言うのが悪ければ、不足と言ってもいい。私が気づいたのは、幼い日という部分であって、それだけではなく、すべての想い出は断片的ということだった。断片的の反対は連続的である。私には、連続的な思い出というのが、よくわからない。思い出はすべて、あの日、あのときの1コマである。1コマばかりである。
先週、ボクちゃんが遊びに来た。ボクは大きくなってから、「近くの親戚の家へ行って、かわいいネコと鬼ごっこをしたこと」を思い出すだろう。ヴィヴィちゃんとの1コマを思い出すだろう。その家に、禿頭のお爺さんがいたことは忘れてしまうだろう。