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1(ひと)コマ

2017-04-14 23:30:34 | 日記
古い帽子をかぶり、少しくたびれたようなコートを着た老人がブランコに座っている。老人が小さく唄う。曲は『ゴンドラの歌』だ。いのち短し恋せよ乙女、朱き唇、褪せぬ間に~である。老人は志村喬さん、黒澤明監督の映画『生きる』の1コマである。

誰かが川で溺れている。身体は水に沈み、手だけが水面で振られている。助けてくれ!という声はない。川の横の道を身なりのよい紳士が通りかかる。紳士は、いじわる爺さんだ。水中で手を振る人間に向かって、帽子をとって挨拶する。チック・ヤング作の1コマ漫画である。

その朝の玉川電車はいつもよりも混んでいた。私は毎朝と同じように、隣家のK子と一緒だった。吊り革が足りなかった。私はK子のカバンを網棚にのせ、そのとき少しふらついた。K子がつかまっている吊り革に手が伸びた。17歳の少年と16歳の少女の手が重なった。彼女の手は、上等な和菓子のように柔らかかった。胸の鼓動が早くなった。でもそれが自然だった。社交ダンスで男女が手を取り合うのと同じように自然だった。私もK子も互いの目を見ないようにしていた。西太子堂駅から渋谷駅まで、上等な和菓子は私の手の中にあった。私における、青い山脈の1コマである。

幼い日の想い出はすべて断片的である、という文を読んだのは若い頃だった。その通りだと思った。ずっとその通りだと思い続けていた。しかし、いつだったか、私はこの言葉は誤りだと気づいた。誤りと言うのが悪ければ、不足と言ってもいい。私が気づいたのは、幼い日という部分であって、それだけではなく、すべての想い出は断片的ということだった。断片的の反対は連続的である。私には、連続的な思い出というのが、よくわからない。思い出はすべて、あの日、あのときの1コマである。1コマばかりである。

先週、ボクちゃんが遊びに来た。ボクは大きくなってから、「近くの親戚の家へ行って、かわいいネコと鬼ごっこをしたこと」を思い出すだろう。ヴィヴィちゃんとの1コマを思い出すだろう。その家に、禿頭のお爺さんがいたことは忘れてしまうだろう。

町内サークル

2017-04-14 23:22:12 | 日記
鎌倉萌という20ページほどの小冊子が目の前にある。生涯学習情報誌の文字があって、発行者は鎌倉市教育委員会である。まずは各種の講座、講演会が紹介されている。ロシア塾なんていうのもある。坂東真理子さんのお話も1千円で聴ける。テーマは「女性の力が世界を変える」。坂東さんは昭和女子大の総長である。次は催事案内で、展覧会があり、映画、演劇がある。『狂った果実』が300円で観られる。石原裕次郎さんや北原三枝さん、津川雅彦さんの若々しい姿が300円だ。余談になるが、津川雅彦という芸名を考えたのは石原慎太郎さんである。

冊子の後半部は、各種サークルがずらりと並ぶ。とても数えきれない数だ。とかくメダカは群れたがるという言葉を思い出す。もちろん私もメダカだから、何かオモロイものないか、になる。健康麻雀の会がある。健康麻雀とは何かについてはリハビリの先生が、「賭けない、呑まない、吸わない」のことだと言っていた。「腰も、麻雀程度なら大丈夫です」と保証してくれている。しかし賭けない麻雀は健康には悪い。マイナスだと思う。私はコンピュータ相手に麻雀を愉しんでいる。これも賭けではない。指先と脳の老化防止である。いつやってもいいし、いつやめてもいいというものである。人間相手では、たとえば南の1局で、疲れたからやめますとは言えない。賭けていなくても、言えない。すなわち体に良くない。たとえ千円50円でもギャンブルは南の1局で疲れちゃったとはならない。

将棋サークルは大船にあるようだが、もう私は畳には座れない。競馬研究会はないらしい。結局、私が何かに参加するとすれば、家人の友人宅で時々開かれている千点50円麻雀会か。そうそう、酒の会もなかった。でもこれはあったとしても、水割り2杯で眠くなるのではどうにもならない。参加資格がない。