大木昌の雑記帳

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小学生の“マウント地獄”と「キャラ化」で守るしかない哀しさ

2024-07-30 07:26:40 | 社会
小学生の“マウント地獄”と「キャラ化」で守るしかない哀しさ

最近読んだあるWeb 記事に、私はかなりショックを受け、そして悲しくなりました。

それは、ノンフィクション作家の石井光太氏が書いた『「はい、論破!」教室は“マウント地獄”
と化している・・・小学校で広がっている「静かな学級崩壊」のヤバすぎる実態 自分自身をま
もるには「キャラ化」するしかない』という長いタイトルの記事です(注1)。

以下に、この記事の内容を紹介しつつ、今の小学生の心に起こっている、ある種の“異常さ”ある
いは“ゆがみ”について考えてゆこうと思います。

タイトルの冒頭にある「はい 論破!」とは、相手の言い分を言い負かした時に発声する言葉で、
自分が優位に立ったこと(マウント)を勝ち誇って言う言葉です。

これは2015年ころ、テレビのバライティー番組で木下ほうか氏が使った言葉で、2015年の「ユー
キャン新語・流行語大賞」の候補にも挙げられています。

この言葉が今でも小学生の間で使われていることはちょっと意外でしたが、実際に小学生の間で
使われているようです(注2)。

石井氏は、不登校になる児童や生徒が過去最多を記録しており、教育現場で何が起きているのか、
という疑問から調査を行いました。

そのために学校の先生200人と小学生にインタビューし、今の子どもたちを取り巻く不都合な真実
を『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』(新潮社)という本にまとめました。今回取り上げる記事
は、その本からの抜粋と要約です。

学校に居心地の悪さを感じて不登校になっている子どもたちは、フリースクール、子ども食堂、無
料塾などに比較的多く集まっている。こうしたところで子どもたちに「学校の何が嫌なのか」と尋
ねると、おおよそ同じ言葉が返ってくるといいう。

「教室の“アツ”がすごい」

アツとは、圧力、プレッシャーのことです。教室の空気があまりに重苦しく、耐えられないほどだ
という意味だ。

現在の教室には、あからさまないじめや体罰はなくなったが、それと入れ替わって出てきたのは次
のような諸問題です。

長い学校滞在時間、人の一面のみでの決めつけ、静かな学級崩壊、新たな校内暴力、褒められ中毒
(具体的にこれが何を意味するのか分かりませんが)などで、これらが子どもたちの足枷となって
登校意欲を減退させているという。

これらのかなでも、「人の一面のみでの決めつけ」が特に深刻です。

東海地方のある校長校長(50代男性)は
    教室では、子どもたちがそこかしこで“マウント合戦”をしています。今の子どもたちは、
    昔みたいに乱暴な言動で相手を抑圧しない代わりに、「受験しないヤツはクズ」とか「え、
    お前、スマホ持ってないの?」といった陰湿で間接的な表現で他人を貶(おとし)めよう
    とします。現代は、ゲーム、アプリ、アイドル、漫画などいろんなものが世の中に溢れて
    いますよね。子どもたちは各々得意なところでマウント(優位性)を取ろうとするので、
    あっちへ行っても、こっちへ行っても、何かしらの圧力を加えられるのです。

子どもが“カースト”(階級、序列)を作り、少しでも自分の立場を上げようとするのはいつの時代
も同じです。

昔は、ガキ大将に象徴されるように、それが腕力などわかりやすい形で行われていた。先生はそん
なガキ大将の頭をゴツンとやればよかった。

しかし、今の子どもたちは大人に気づかれないように、言葉で他人を貶め、自らのカーストを上げ
ようとする。これにたいして先生たちはいちいち介入する時間もなく、放置状態です。

さらに校長は、

    今の子どもたちは、幼い頃から雑多な人間関係の中に身を置いていないので、人との接し
    方が驚くくらいに下手です。その場の空気を読むとか、相手の気持ちを考えるとか、言葉
    を選ぶといったことができない。
    そのせいなのでしょう、友達と他愛もない話をしていても、簡単に「おまえ、雑魚でしょ」
    とか「はい、論破〜」なんて驚くような冷たい言い方をする。我々が「そういう表現はや
    めなさい」と注意しても、何が悪いのかという顔をしてきます。そんな言葉を使ったら相手
    がどれくらい傷つくかを考える力がないのです。
    こうした悪い表現は子どもたちの間にすぐに広まります。それで子どもたちのマウント合戦
    は、知らないところでどんどん攻撃性の強いものになっていくのです。

と語っています。

つまり、傷つけている側が罪の意識を持っていなければ、それをやめようという意識にはならないの
です。

たとえば、「草」とはネット用語で「笑える」「ウケる」の意味ですが、子どもたちは簡単に「こいつ、
点数悪すぎて草」とか「マジで草」といった表現をする。

ネット用語なのであからさまな悪口ではないが、言われた子どもは大きなショックを受けるはずです。

また、一時期流行った「それってあなたの感想ですよね」も頻繁に使われている。発言する側は流行語
を発しただけという認識ですが、言われた側にしてみれば、対話を一方的に遮断されたと感じる。完全
否定されたのと同じなのです。

教室の中でそんな言葉の応酬がくり広げられれば、子どもたちが「アツ」を感じるのは避けられません。

今の学校の教室で行われているマウント合戦の中で、柔軟性のある子なら、うまく受け流せるかもしれ
ないが、そうでない子は飛び交う言葉に傷つき、疲弊していってしまいます。

マウントを取りたがる背景を。教育に詳しい「アルバ・エデュ」の竹内明日香代表理事は、
    一種の承認欲求で、周囲に対して自分のことをもっと見て、もっと認めてというその気持の裏
    返しで、自分の方が上なんだというマウントにつながったりしている。
と述べています(注2)。

確かに、マウントを取ろうとする側には、自分の方が上だと自他に認めさせたい、という承認欲求があ
ることは間違いない。しかし私は、そのさらに奥には、自分にたいする本当の意味での自信のなさの裏
返し、という面もあると思います。

努力して優れた能力なり成果をあげて人の「上」に立とうとするのではなく、周囲の人をバカにしたり、
言い返せないような言葉(「はい、論破」など)でおとしめて自分が「上」になろうとするのは、この問
題の背後に「ゆがんだ」心理があるような気がします。

マウントしようとする側にこのような心理があるとしたら、マウントされる子どもたちが何とか我が身
を守ろうとするために採る方便が“キャラ化”というとても哀しい方法です。

ある先生(関西、40代女性)は言う。
    学校では個性を出そう、自己表現をしようと伝えています。それが主体性を築き上げて いく
    上で大切なことだとされているのです。しかし、傷つきやすい子どもたちは、生身の自分を表
    に出そうとしません。
    みんなの前で、個性を見せて自分なりの意見を言って、それを周りから否定されたらつらいじ
    ゃないですか。自分の全人格が否定されたようなショックを受ける。
    だからどうするかっていうと、子どもたちは本当の自分ではなく、代わりの何かに扮するので
    す。最近はそれを“キャラ”と呼ぶ人もいますが、何かしらのキャラを演じるようになるのです。

ここで言う「キャラ」とは、キャラクターの略で、その人の特徴(見た目や性格など)という意味の他
に、自分の身代わり・分身、インターネット上の仮想空間では「アバター」に近い存在を意味します。

教室で何かのキャラに扮していれば、たとえ周りの人から馬鹿にされても、それはキャラが否定された
だけで、自分がそうされたわけではないと考えられ、気持ち的に楽になるらしい、というのです。

この場合、キャラは「身代わり・分身」、あるいは「隠れみの」として機能します。もちろん、キャラが
否定されることは本人が否定されることなのですが、「それはキャラが否定されただけ」というのは「フ
ィクション」であることを本人は十分わかっています。

しかしマウントされ、いじめられる子どもたちは、そうまでして自分を守らなければならないところに
追い込まれていることに、二重、三重に問題の深刻さと哀しさを感じます。

子どもたちのキャラ化現象は、2009年に筑波大学の土井隆義教授が指摘しており、前出の先生によれば、
あれから15年ほどが経ち、キャラのバリエーションが膨らんでいるという。

たとえば、彼らが口にするキャラとしては、「陽キャラ」「陰キャラ」「キモキャラ」「天然キャラ」「いじ
られキャラ」「キラキラキャラ」「突っ込みキャラ」「真面目キャラ」「姉御キャラ」「癒しキャラ」などが
ある。

最近の子どもたちはキャラに合わせてあだ名を作るらしい。たとえば、「陰キャ」の子が日高太陽という
名前だとちぐはぐな感じがする。そこで、みんなで話し合って「ゾゾ男」みたいなあだ名を決めるという
(キャラはたんに“~キャ”と表現されることもある)。

このように、子どもたちは教室でそれぞれのキャラに扮して過ごす。「陽キャラ」はどこまでも「陽キャ
ラ」に徹し、「いじられキャラ」はどこまでも「いじられキャラ」に徹する。

そこで多少傷つくことを言われても、これはゲームのようなものなのだと思えるので、痛みを緩和する
ことができる。そしてどこかでうまくいかなくなれば、“キャラ変(キャラを変える)”して別のキャラに
変身すればいい。

つまり、キャラとは、事情によっては服のように脱いだり着たりする(“キャラ変”する)ことができる
便利な「仮装」用の衣装でもある。

しかし、“キャラ変”は必ずしも本人の希望でできるわけでない。周囲の子によるいじめにより許されない
こともあり得る。

前出の女性の先生は、小学6年の中盤に差しかかった頃廊下で数人の男の子がD君をからかっているのを
目撃した。

D君は肥満体型で、教室では『ポケットモンスター』の太ったキャラの「カビゴン」というあだ名を名乗
っていた。いつも食べるか寝るかしている癒しキャラだ。この時、男の子たちは、D君にカビゴンの真似
事をさせて笑っていた。

先生は見かねて、その子たちを呼んで、「意地悪なことを言ったら、いじめになるよ」と注意した。とこ
ろがその中の一人が、「別に俺たち意地悪なんてしてません。カビゴンだからカビゴンと言ってただけです」
と、しごく当然のことのように言ったそうです。

ところが私は、D君が先生に言った言葉に非常に驚くと同時に、この子たちが抱えている孤独の深さに愕然
としました。

D君は「先生、もういいです。僕、カビゴンって嫌じゃないし、普通に遊んでいただけだから」、といじめて
いる子を非難することもなく、肯定しているのです。

もちろん先生は、もうこれからはD君を「カビゴン」と呼ばないようにしようと、生徒たちに言ったのです
が、先生の意に反して、翌日からD君は学校を少しずつ休みがちになっていったのです。

先生の対応の何がいけなかったのでしょうか?。

後日、先生はD君を呼んで事情を尋ねてみると、「僕、先生にカビゴンをやめろって言われてから、みんなの前
でどう振る舞っていいかわかりません。みんなと付き合う自信がないんです」という言葉が返ってきました。

おそらくD君はカビゴンのキャラを演じることで、からかわれても「カビゴンが馬鹿にされているだけ」と自分
を無理やり納得させ、なんとか他の子とつながっていたかったのでしょう。

つまり、彼にとってキャラは“心を守る鎧(よろい)”のようなものだった。しかし、先生から教室でそれを禁じ
られたことで、クラスメイトとの接し方がわからなくなり、学校を休むようになったのだそうです。

子供の世界は、大人の世界を幾分かは反映しています。常に競争にさらされている大人の世界では、周囲を抑
えて自分が「上」に立とうとする「マウント」合戦がひそかに行われていることを、子供は本能的に感じ取っ
ているのではないでしょか。

また、「はい 論破」とか「それってあなたの感想でしょ」とか、相手を馬鹿にし、勝ち誇ったような口ぶりは、
ただただ相手を黙らせ、相手にダメージを与えるだけの論法で、そこからは何ら生産的な対話や深い人間関係は
生まれません。ひょっとしたら、「石丸構文」もこの側面をもっているかもしれません(注3)。

私の著書のひそみに倣っていえば、今回の記事で書かれた現象も、本当の意味での人と人との関係性が壊れ、失
ってしまったた「関係性喪失の時代」の一つの現れかも知れません。


(注1)PRESIDENT Online (2024/07/23 8:00)https://president.jp/articles/-/83868 
(注2)『テレ朝ニュース』web 版(2024年9月6日)
    https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000314584.html
(注3)「石丸構文」の功罪については『Jcast ニュース』(7/22(月) 10:00配信)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/14814fbbf7cb03cea424bff23069387aa52eb9c1?page=1 を参照。



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