中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

園原先生碑とSL公園(旧中山道を歩く 197)

2010年06月20日 11時06分00秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(木曽海道六拾九次之内 広重画「三渡野」)


(三留野宿 4)

中山道を進むと左手に古い石垣が見えて来る。
石垣の上に古い大きな家が建っている。
石垣が切れた先に、大きなイチョウの木があって、
その下に「町史跡 園原先生碑」の白い標柱が建っている。
茂みの奥を覗くと、階段を登った先に石碑がある。

その手前の右手にある南木曽町の説明によると、
「園原旧富(そのはらふるとみ)は、
三留野村和合の東山神社の神官の家に
元禄十六年(1703)に生まれ、長じて京都に遊学し、
吉田兼敬(神祇管領長)に師事して神学を学び、
「新学則」を著すまでになった。
その後も「木曽古道記」「神心問答」
「木曽名物記」などを著して、
尾張・美濃・信濃の門人多数を擁する大学者となった。
この碑は園原先生の死後五年目、天明元年(1781)に、
学徳を慕う門人たちによって建立されたもので、
碑文は当時有数の学者である松平君山が書いている。
なお、園原家住宅(非公開)は、
江戸時代中期の神官の家の姿を伝える貴重なものである。)とある。


(中山道沿いの古い石垣)


(苔むした石垣)


(園原先生碑)


(階段の上の大きな時代物の家)

園原先生碑の左手階段を上がった所にある大きな家があり、
入口を葦簀で覆ってあったが、神官の家であろう。
住人がいらっしゃるようだ。

園原先生碑の前を進むと道は二手に分かれる。
右手にある案内にしたがって、下り坂の道を進む。少し行く、
ともう一度二股道があるが今度は左側の道をとる。
このあたり中山道は入り組んでいるが、
左右間違えてもいずれ合流するから心配はない。


(最初の二又の道は右に行く)


(次の二又は左の道をとる)

少し先の左手の石垣の上に大きな枝垂れ梅が、枝を垂れている。
梅の次期には見事に花開くと思われるが、
街道名物の梅ノ木である。
脇に「中山道」の標柱が建っている。


(しだれ梅)


(しだれ梅手前の「中山道」の標柱)


(機関車D51の展示がある公園)

その先坂を下ると突き当たる形で、SL「D51」が展示してある。
辺りにはベンチもあり公園になっているようだ。
WCを探したが見当たらず、
代わりに千体観音堂を見つけた。
土道の奥に「一刻院」と書かれた観音堂があり、
土道の脇に植えられた桃の木は、
日本の電力王と言われた福沢桃介のお手植えと伝えられている。
三色桃と言い、赤、白、ピンクの三色の花が付く珍しい品種であるとか。
各地に伝えられる偉人伝説の一つであろう。

「一刻院」のお堂の中を覗いたが千体観音は見当たらなかったが、
途中に、大きな木の幹をくりぬいた中に、
刻まれた四体の観音さまが鎮座されていた。


(千体観音堂)


(観音堂の「一刻院」)


(三色桃の木)


(観音様)

その後中山道は上り下りして杉林の中を抜け、
庭木の手入れの良い家並みをぬけて、

「木曽義仲かぶと観音堂」へ向う。

(上り道)


(下り道)


(林の中の中山道)


(庭木の手入れの行き届いた家並)